夏休み
その年の夏休みのことだ。
二人は香澄の両親に連れられて避暑がてら秩父に出掛けることになった。
チリチリと肌を焼くような暑さの都心とは違って、山々の並ぶ自然に囲まれた空間はずっと涼しく感じた。新緑の森林が視界全面に広がっていたのを璃子は未だに覚えている。山々は鮮烈な生命力を放って緑色に輝いているように見えた。
璃子は都心からほぼ出たことが無く、当然そんな景色を見たのは初めての事だった。
途中のお店で自分の顔ほどもあるカツを食べたり、味噌の付いたポテトの串を食べたり、旅行というものをしたことの無い璃子にとってはあらゆることが新鮮で、とても気分が高揚した。
こんな経験を他の人たちは当たり前のようにしているのだろうか。
そう思うと胸の奥が握り締められたような心持がした。
車で山道を進んでいた時だ。
香澄の母親が車酔いで体調を崩し、しばらく停車することになった。
父親は介抱に手一杯だったので、遠くには行かない約束をして子供たちを近くで遊ばせることにした。車中だと狭いし、嘔吐の臭いもあったのでその方が良いと思ったのだ。
二人は嬉々として外に出た。しかし、山中の道である。店や広場がある訳でもない。辺りには草木が生えているだけだ。
しばらくはその辺に生えている雑草などで遊んでいたが、さすがに飽きて少しだけ森の中に入った。車が見えていれば大丈夫と璃子は林の奥に進んでいった。
すると、どこからか水の流れる音が聞こえてきた。
きっと川があるのだろう。璃子は川が見たくなって、音のする方に向かって小枝を踏み折りながら進んでいった。香澄は車が見えなくなると頻りに止めたが、璃子には止まる気がなく、目の前にあったロープをまたいでそのまま進んだ。後ろを気にしながら香澄もその後に続いた。
少し進むと森が開けて川が見えた。
川岸にはぽつぽつと大きな石も見えるが、小さな石の多い砂岸で水の流れも穏やかそうな川だった。璃子は川辺に駆け寄って水に触れた。
ひんやりとしてとても気持ちの良い水だ。
璃子は早速靴を脱いでズボンをまくり、川に足を踏み入れた。香澄も同じようにオーバーオールの裾を折って黄色のスニーカーをそろえて置くと、そろそろと川に入った。
川は浅く、流れも穏やか、砂が多く時折ちょっとした岩があるくらいなので安全そうだ。
二人は岩陰に魚がいないか探して回り、小魚の影が見えると香澄は楽しそうにきゃっきゃと笑った。
ひと呼吸ついて辺りを眺める。
川の上流には両岸に森が広がっていて山の奥へと続いている。
一方の川下には妙な違和感があった。川の流れが進む先に空が見える。不思議に思った璃子たちはそちらへと向かって川の中を歩いていった。しばらく進んで違和感がどういうことなのか理解した。
川下は滝のようになっていた。
水の落ちる音が聞こえる。途切れた先に空が見えたのはその為だ。
恐る恐る璃子は縁から下を覗き込んだ。その高さはかなりあって、大人でも落ちたらただでは済まなそうである。マンションなら三~四階ほどはあるだろうか。人工の滝なのだろう。滝の縁は水面が真っ直ぐで、コンクリートで固められているようだった。上流から見た時に川の先が綺麗に無くなっているように見えたので違和感を覚えたのだが、水面が平らだったのは人工物だからだろう。
璃子は後になって知ったのだが、それは砂防堰堤という土砂を防ぐダムの一種だったようだ。
璃子は香澄に向かって見てみなよと手招いた。
香澄は怖がって縁に近付こうとはしなかった。縁のあたりはとても浅いので水に足を取られることはない。とはいえ柵のようなものがある訳では無いから危ないことに変わりはない。
それでも璃子は縁に立って両手を広げた。
向かい風がとても気持ちいい。
足元には森林が広がり、その先に山々が連なっている。
両手を広げているとまるで空を飛ぶ鳥になったような気がした。
その時、初めて自分が自分だと、一人の人間として存在しているのだと思えた。
眼前に広がる広大な世界の中で、とても小さい存在だと感じるのに、だからこそ凝縮した一個の生命なのだと思えたのだ。
自分は自由なのだと。
璃子は振り返って香澄にもやってみなよと声をかけた。
とても気持ちいいよという言葉に導かれるように香澄は両手を川に着けながらゆっくりと縁までやってきた。
ほんの少し下を覗いた香澄はこわいよと後ろに下がった。
大丈夫、そう言って手を差しだすと、震える手で香澄はその手を取った。
そして、ゆっくりゆっくりと立ち上がった。
香澄は璃子の言う通りに、真似て両手を広げた。
その時、鳶の鳴き声がした。
空を見上げると円を描くように青い空を泳ぐ影が見えた。
鳶は何にも縛られない象徴に見えた。自由。己の力でのみ生きるもの。
香澄が感嘆の声を上げた。
きっと璃子と同じように感じたのだろう。
まるで鳥になったような解放感。
そして璃子は
――その背を押した。
璃子はいつものように気配を感じて振り向いた。
石畳の道の先、少女が立っていた。
少女の服装はデニムのオーバーオールに黄色と白のボーダーの長袖。
そして黄色いスニーカー。
少し茶色かかった髪を左右で三つ編みにしている。
とてもかわいらしい上品な印象のある少女だ。
年齢は十歳といったところである。
彼女の家は裕福で、
デザイナーの父、元ピアニストの母を持つ。
彼女の夢はアイドルになること。
璃子の幼馴染で、親友だった。
忘れることの無い小学校三年生の夏
あの日から
香澄はずっと璃子のそばにいる。
少女の名前は花守香澄。
彼女はいつだって璃子のそばにいて
璃子を見ていた。