Kasimu
『Kasimu』は今やその名を知らない者はいないほど有名になった。
彼女が歌手であることを誰もが知っている。彼女の歌のサビ、そのワンフレーズを口ずさめない者はいないほどだ。老若男女問わず、多くの人々が彼女の声に魅了された。
カシムが世に出て二年が経とうとしている。
彼女が知られるようになる切っ掛けはSNSに投稿された一曲だった。
曲は彼女のオリジナルで、決して上手いとは言えないギターでの弾き語り。
友の死を歌った曲。
そのあまりに切ない歌声、顔の分からない神秘性が徐々に話題となっていった。
そのうちに楽曲の提供をしたいという者が現れだしたが、彼女は有名になりたかった訳ではなかったから、どんな相手であっても然程の関心も持たなかった。
曲、詩、雰囲気、それらに心が動かされたものにだけ返答し、歌う。
次第にボカロP、いわゆるボーカロイドを使用し曲を発表するアーティストからも歌って欲しいとオファーが届くようになった。
彼女の歌はネットの中で拡大していった。
最初の投稿から一年が経とうとする頃、有名レーベルから声がかかりメジャーデビューの誘いを受けた。彼女も好きだったアーティストが所属するレーベルだったこともあり、信用することにした。
それから間もなく、デビュー曲が発表されると一気に火が付く。
それまで顔を出していなかったことも話題性を押し上げた。
そんな彼女の容姿もファンの期待を裏切らないものだった。
歌そのものの評価もさることながら、ビジュアルの伴った彼女への圧倒的な信奉ともいえる熱量の増大、その勢いはあまりに凄まじく、未だに当のカシム本人さえ戸惑いが隠せないでいる。
当然そんな彼女に対しての賛否はあった。
ただの売名行為。生意気。枕営業。そんな陳腐な罵詈雑言は際限ない。
けれど、そんな悪意に反してより多く応援の声も上がっていたのが実情である。
敵味方、東西の合戦のように言葉を飛ばし合う人々の姿がネットの中で拡大していく、その様子を、初めのうちこそ己の事と感じていた彼女も、あまりに拡大しすぎた状況に対応のキャパシティを超え、すでに他人事のように感じるようになっていた。
実際、有名になりたいとか世界一の歌い手になりたいとか、そんな崇高な想いの欠片など微塵も持ち合わせてはいなかったのだから、周りが何をどう騒ごうと自分には関係の無いことだと思ったのだ。そもそも目的は既に達成している。
自身から分離し肥大化していくカシムという偶像は、実在するのかしないのかも曖昧なほどに世界に侵食していった。今はただその状況を俯瞰し、眺めているだけだ。
打ち込んでいた文章に区切りがついた頃、彼女はラップトップの電源を落としPCを閉じた。
椅子から立ち上がり、カーテンを開ける。朝日が差し込んで一瞬目がくらんだ。
夜通しの試験勉強で疲労しきった眼には光が刺激物のようだった。何時間も同じ姿勢で固まった身体を伸ばし、時計を見ると六時を回ったところだった。
スマホを開いてマネージャーからのメールを確認する。
今日は年末に行われるライブの打ち合わせがある。シャワーを浴びて、軽く食事を済ませたらすぐに出ないといけない。打ち合わせ前に事務所でメイクを済ませる必要がある。面倒なメイクの時間など取りたくは無かったがそうもいかない。普段の姿のままで関係者と顔を合わせる訳にはいかないのだ。
別に素顔がカシムのそれとかけ離れている訳ではないが、ノーメイクでは印象が異なることは間違いなく、素顔が知れると普段の生活に支障が出てしまう。
大学生という普段の生活を邪魔されるのは彼女の望むところでは無かった。
十一月に入ったのに気温は一向に下がらず妙に暑い日が続いている。近所の公園では普段なら楓も色づき始めるのだが、今年は未だ青々としている。先日買ったばかりの黒のMA-1ジャケットに袖を通してお気に入りの白いハンモックショルダーバッグを手にすると黒のキャップを被って玄関を出た。
家を出て三十分ほど地下鉄を乗り継ぐと事務所に着く。
平日のこの時間は出勤時間に被るので満員電車だ。当然ながらカシムの存在に気が付く者はいない。スペースの空いていたドアの脇に立ってワイヤレスイヤホンを付け、新曲のデモ音源を流して目を閉じた。
事務所のある駅周辺はビジネス街である。電車を共にした人々が蜘蛛の子のように駅から散っていき、またそれそれのビルへと吸い込まれていく。
人の流れを渡り繋ぎ、ようやくガラス張り十五階建ての建物へとたどり着いた。
受付のある入口のエントランスには、所属するアーティストが出演するドラマや映画のメインビジュアルやジャケットが何枚も飾られている。
その中でひと際大きな、水平線に浮かぶ山々のビジュアル、翼を広げた鳥。カシムのアルバムジャケットの脇を抜け、警備員のいるセキュリティーゲートにⅠⅮカードを翳してエレベーターホールに向かった。
八階に上がると、エレベーター前の休憩スペースでマネージャーの宮越美波が電話をしていた。柔らかそうな背中を向け、どうやら窓の向こうにある公園を眺めながら手帳を開いているようだった。振り返りカシムに気が付いた宮越は目を合わせると、メイクしてきなさいと小さく首を動かした。