名代辻そば鶴川店
小田急線鶴川駅前の名代辻そばは、数ある辻そばの中でもある特徴で知られている。
メニューに珍そばが多いのだ。
さて、その珍そばとは何か。
単純に言うと、珍妙なそばのことである。
名代辻そばは東京でも有数のチェーンそば屋なのだが、店舗ごと、店長の裁量においてグランドメニューにはないオリジナルのメニューを提供することが許されており、そばに限らず丼ものなど、これまで各店舗で工夫を凝らしたものが数々提供されてきた。
輪切りのすだちをたっぷり盛ったそば、たこめし、本格的な塩ラーメンなど、美味しいと話題になったメニューは数々ある。
そう、普通は美味しい、ということが先行して有名になるのだが、鶴川店はちょっと違った。
それが、先にも触れた珍そばである。
2022年の秋頃、この店ではじめて出されたトーストそばを皮切りに、カレーパンそば、タピオカ漬け丼、焼き芋そば、冷やしポテトチップスそばなど、期間限定ではあるが、しかしコンスタントに珍そばが提供され、その度にテレビやSNS、インターネット動画などで話題になってきた。
鶴川店で珍そばが提供されるようになってから僅か1年弱。だが、今や辻そばで珍そばを食いたいならここへ行け、というほどに名代辻そば鶴川店は有名な店舗となっていた。
2022年秋以前まで、鶴川駅周辺に辻そばの店舗はなかった。つまり、鶴川店は新店舗ということになる。そんな新店舗が開店してすぐ、どうして珍そばのメッカ的な扱いを受けるようになったのか。
それは、この店舗の店長に就任した、堂本修司のせいだろう。
同じ名代辻そばであっても、店舗ごとに忙しさや混む時間帯というのは異なる。
修司が店長を務める鶴川店では、終電の時間を過ぎると、始発の時間になるまで客足がぷっつりと途切れる。
以前修司が勤めていた新宿西口店だと、都心ということもあって真夜中でも客足が途切れなかったものだが、鶴川店は都心からも大きく外れた、23区外の町田市の店舗。駅前も繁華街と言えるほど賑やかではないし、終電が過ぎればそれで人通りも途絶えるといった具合だ。
辻そばは基本的に全店舗24時間営業なので、鶴川店も終電が過ぎた真夜中であろうと店を開けている。
本来であれば、客商売の人間は繁盛をこそ喜ぶ。お客が多くて忙しい、ということがイコール繁盛であって、それをこそ喜ぶべきなのだろうが、修司はこの客足が途絶えた真夜中の営業時間帯こそが最も好きであった。
何故なら、お客のことを気にせず珍そばの開発に集中出来るから。
名代辻そばが好きで、辻そばで働くという者は結構いるが、修司はその中でもかなり変わり者だ。修司の場合は、辻そばの珍そばに魅了されて、運営会社のタイダンフーズに入社したからだ。
大学時代、東京に出て来て初めて食べた、辻そばの珍そば、巨大コロッケそば。蕎麦どころとして有名な信州から出て来た修司にとっては、普通のコロッケそばですら珍妙なものに見えたというのに、巨大コロッケそばのインパクトはビッグバンの如きものであった。
この巨大コロッケそばとの出会いこそが修司に珍そばという新たな世界をもたらしたのである。
今日も今日とて、修司は終電が過ぎた真夜中になってから、厨房の隅で珍そばの開発に取り掛かる。今、開発しているのは、いかめしを丸ごとかけそばの上に載せた、その名もいかめしそばだ。
かけそばの上に何かを載せるのは、珍そばにおいて王道中の王道である。まあ、珍そば自体がそばとして見た時に邪道なのだが、それを指摘するのは野暮というもの。
「坂野さん、上田くん、休憩行っていいよ」
愛用の雪平鍋でコトコトといかめしを煮込みながら、修司は深夜帯のアルバイトたちにそう声をかける。
「はーい」
「あざまーす。お先、休憩失礼しまーす」
まだ出勤してからそこまで時間も経っていないというのに、アルバイトの2人、坂野と上田が眠そうな顔で返事をし、裏口から出て行った。恐らくは缶コーヒーか何かで深夜のティータイムとでも洒落込むのだろう。
まあ、彼らは大学生のバイトだ、昼間は学業もあることだし、そこまで熱心に業務に打ち込め、などと説教臭いことを言うつもりはない。それこそ、言うだけ野暮だ。
彼らが出て行ったことで、厨房には修司と、バイトリーダーの七海京子の2人だけが残った。
「ねえ、堂本」
厨房に2人きりになった途端、京子がそう声をかけてくる。
この七海京子という人物は、修司とは大学の同期であり学部も一緒、所属していた研究室も一緒だったという腐れ縁だ。
大学卒業後、修司はタイダンフーズに、京子は外資系企業に就職した。
が、京子はほどなくして寿退社、旦那の転勤に合わせて他県に引っ越したのだが、結婚生活僅か3年で旦那の浮気が発覚、そのまま離婚し、地元町田市に戻って来たのだという。そして再就職しようとしたのだが上手くいかず、とりあえずといった感じで名代辻そば鶴川店にアルバイトとして入った訳だ。
鶴川店における修司と京子の再会は全くの偶然なのだが、2人の相性は案外良いらしく、他の店員たちにも良いコンビとして認識されている。
「生臭いんだけど、それ……」
僅かに顔をしかめながら、京子がいかめしを煮ている雪平鍋を指差した。
辻そばで生の魚介類を扱うことはあまりないので、もしかすると慣れないその匂いを生臭いと感じているのかもしれない。
「気のせい、気のせい。気にすんな」
修司が鷹揚に笑いながらそう言っても、しかし京子は憤慨した様子で声を張り上げた。
「気のせいなわけあるか! 変なもん作んなし!!」
変なものとは心外である。修司は今、美味しいいかめしを作っているのだ。
「うわー、聞きかじった若者言葉使ってやんの」
彼女の言葉への反抗、その意味も込めて茶化しながらそう言うと、京子はますます怒った様子で拳を振り上げた。
「ぶん殴るぞ!」
「いいけど、手ぇ出したらクビね?」
彼女とは大学時代から続く気安い関係だが、流石にいい大人が暴力を振るうのはいただけない。
まあ、軽くポコッと叩かれるくらいならいいが、幼少期から空手を嗜んでいた彼女の拳は鉄拳、明確な凶器である。それで殴られるというのはやはりいただけない。
「んんん、ぐぬぬ、卑怯な……」
振り上げた拳を下ろし、悔しそうに唸る京子。アラサーの女性が何をやっているのか。
「暴力で脅してくるやつのがよっぽど卑怯だろうが」
修司がそう指摘すると、京子はまたしても「ぐぬぬ……」と唸り、おもむろに腕を組んだ。
「……あんたさあ、何でそんな変なもんばっかり作るのよ? 他の店舗の限定メニューってさ、もっとこう、普通じゃん? 明日葉の天ぷらそばとか、かしわの天丼とかさ」
「普通じゃつまんねえだろ?」
普通のそばを否定するつもりはさらさらないが、修司は珍そばに魅了されて辻そばに入った男。その熱意の向かう先は当然、珍そばにしかない。
そう断言する修司に対し、京子は呆れたような顔を向ける。
「つまるつまらないじゃなくて、お客さんは美味しいものが食べたいんだよ」
わざわざ不味いものを食べに飲食店に来る者はそうそういない、それについては修司も同意見だ。が、彼女はひとつ誤解している。
「見た目にインパクトがあって、尚且つ美味しい。それがベストだ。珍そばは見た目が奇抜なだけじゃなくて、ちゃんと美味い」
そう、珍そばは見た目が珍奇なだけであって、立派な美味なのだ。修司がこれまで食べた珍そばに不味いものはひとつたりともないし、修司自身も自分が開発した珍そばに不味いものは存在しない、全部美味であると自信を持っている。そうでなければ、あれだけSNS上で好意的にバズッたりはしないだろう。自慢ではないが、珍そばで炎上したことは一度たりともないのだ。
「そんなんばっかしてっから、本社から飛ばされるんだよ、あんた」
呆れ顔のまま、京子がそう言ってきた。どうやら彼女は、もうひとつ誤解しているようだ。
「俺は別に飛ばされたわけじゃない。自分から望んでここに来たんだよ」
この名代辻そば鶴川店の店長になる前、修司は本社の商品開発室に勤務していた。そこで上司と喧々諤々しながら、どうにか辻そばのグランドメニューに珍そばを加えられないかと悪戦苦闘していたのは良い思い出である。
だが、そんな商品開発室を自ら辞して、修司は鶴川店という新店舗の店長に立候補した。それが去年の出来事だ。
「どうしてさ? 本社勤務の方がエリートなんじゃないの?」
不思議そうに首を傾げる京子に対し、修司は苦笑しながらこう答えた。
「何つーか……気持ちとしては、夢を継いだような感じなんだよ」
「夢を継いだ? 何それ?」
「夏川だよ。覚えてるか、夏川文哉?」
修司が言うと、京子はほんの一瞬、表情を曇らせた。
「夏川くんて、去年亡くなった、あの……」
修司の盟友、夏川文哉。
修司と京子、そして今、名前が出た夏川文哉は、大学の同期であり、やはり同じ学科、同じ研究室の所属だった。
彼は大学卒業後、都内のIT企業に就職したらしいのだが、そこの労働環境が劣悪で、身体を壊して退職したのだという。
そんな彼が次の仕事場に選んだのが、何を隠そう名代辻そばである。
再就職ではなく、アルバイトから勤務を始めた彼は、その誠実な勤務態度からやがて正社員に昇格し、短い期間ではあるが本社勤務として栄転したという経緯がある。
大学時代も結構仲が良く、一緒に遊ぶことも多々あったのだが、本格的に親交を深めたのは、他でもない本社勤務時代のことだ。
珍そばについて上司の理解が得られない中、文哉だけが修司に理解を示し、違う部署だというのに暇を見つけては珍そば開発に付き合ってくれたのだ。
文哉という男は、珍そばも含めて名代辻そばの全てを愛していた。その熱意は誰もが認めるところであり、修司も彼の辻そば愛には舌を巻くほどだった。
水道橋に新店舗を建てるということになった時、誰よりも先んじて店長に立候補したのが文哉である。
京子の言うように、本社勤務の方が社内ではエリート扱いされるのだが、文哉は現場で働くことをこそ何より望んでいた。都会で疲れた人たちに、温かいそばと一時の癒しを提供するのが自分の生き甲斐なのだと、そう公言して憚らなかった。実際に店長を任されることになった時など、一切落ち込むことなく、逆に歓喜していたくらいなのだ。
水道橋店という新店舗で自分が店長を務めること。それは文哉にとって何より大きな夢だったのだ。
「開店初日に夏川があんなことになっただろ? あんまりにも縁起が悪いし、最初から客足が遠のくだろうからって、本社判断で水道橋店はそのまま閉店することになったんだ。新店舗の店長になれるって、夏川はあんなに嬉しそうにしてたのに……」
運命というものは残酷である。
水道橋店の開店初日、まさかの強盗が店に押し入り、そのまま文哉を刺して亡き者にした。これから念願だった店長としての第一歩を、夢が始まるというその瞬間を狙いすましたかのように。
この突然の友の訃報を受け、誰よりも悲しみ、そして憤ったのは、他ならぬ修司である。
同じ、名代辻そばという店に夢を見た者同士、その無念さは誰よりも分かってしまう。
文哉の葬儀の時、家族でもないのに、修司は人前を憚らずに泣いた。男泣きだ。彼の無念を思って、泣きに泣いた。
そして、その時に決意したのだ。彼の夢を、店長として新店舗を運営していくというその夢を、他ならぬ自分が引き継ぐのだと。彼の志と共に。
本当ならば水道橋店の店長を務めたかったのだが、その水道橋店は前述の通り本社判断で閉店となってしまった。だから、次に開店する予定だった鶴川店の店長に修司が立候補したのである。
「夏川くんの新店舗の店長になるって夢を、あんたが継いだってこと?」
京子にそう訊かれて、修司は躊躇することもなくそうだと頷く。
「気持ち的にはな。それに、店舗勤務だって別に悪いことばっかりじゃない。何せ、珍そばを好きに作れるし、俺の判断でメニューにも載せられるんだからな」
店長の判断でグランドメニューを変更することは出来ないが、店舗オリジナルメニューを採用することは出来る。つまり、修司は期せずして好きなだけ珍そばをメニューに載せる権利を得たのだ。
グランドメニューに珍そばを採用するという大願は成就しなかったものの、修司は鶴川店という自分の城で小規模ながらも夢を叶えた形になる。悪いことではない。いや、むしろ喜ばしいことだ。
だが、どうやら京子の目にはそう映らなかったようで、彼女は呆れたように口を開いた。
「何だか志あるふうに言ってるけどさぁ、それってただのお山の大将じゃん」
人の熱い夢に対し、お山の大将とは言葉が過ぎる。
修司はこめかみに青筋を立てて抗議した。
「あん? 何だと、こら? 馬鹿にすんな!」
「プロ珍ソバー猿じゃん」
だが、修司がすごんだところでビビるような京子ではない。
プロ珍ソバーという不名誉な称号など誰がいるものか。
「誰が猿だ! 誰が! おら、まかないだ! これ食ってみろ!!」
口を動かしながらも調理の手を止めず作業を続けていた修司。
出来立てのかけそばに、これまた出来立てのいかめしを載せ、その煮汁もスプーンで掬ってそばつゆに回しかけ、いかめしそばを完成させる。
そして、その完成したいかめしそばを、修司は味見することもなく京子に差し出した。
「うーわ、何これ?」
「いかめしそば試作1号だ!」
「いかめしとそば、別々に食べたいんだけど?」
「これに別盛りはない! 食え!!」
「はいはい……」
修司が作った珍そばの試作品、その試食は大体京子の仕事である。
もう慣れたとでも言うべきか、京子は諦めたような表情で箸を手にし、いかめしそばに手を付けた。
まずはそばを1口ほど啜り、次いで小ぶりないかめしを丸ごと口の中へ。
修司が満足そうにその様子を見つめる中、京子の表情がどんどん曇っていく。
「ちょっとぉ! これ、いかが生臭いし、中のもち米も芯が残ってるんだけどぉ!!」
どうにかいかめしを飲み込んだ京子が、そう抗議してきた。
いかめしを作るのは修司にとっても初めてのこと。ちゃんと調べたレシピの通りに作ったと思っていたのだが、どうやら何処かで失敗していたようだ。
「ふむふむ、煮込み時間が足りず、もっと強い臭み消しが必要ということか。とりあえずの改善点だな」
何事も試してみなければ分からないものである。
物事が最初から上手くいくことなど早々ない。それ故の試作であり、試行錯誤。珍そばの道は一日にして成らず、といったところか。
修司が満足気に頷いていると、京子は憤慨した様子で修司の頭に拳を振り下ろした。
ゴチリ!!
と鈍い音がして、修司の頭に京子の鉄拳が突き刺さる。
「ヒトをモルモットにすな!!」
「いってぇ! 叩いたな!? クビだ!!」
まるでハンマーでぶっ叩かれたようだと、修司は痛む頭を押さえながら口を開いた。
だが、怒り心頭の京子はそんなことでは止まらない。
「うっせえ! 何がクビだ! てめえのクビをへし折ってやる!!」
「うわああ、暴力反対!!」
真っ赤な顔で拳を振り上げて追う京子に、真っ青な顔で逃げる修司。
休憩から帰って来た坂野と上田は、訳が分からずその光景を唖然として見つめていた。
たまにはこんなのもいいかな、と思い、書いてみました。
こちらの方、感想欄は公開しておりますが、ネガティブな感想が増えてきますと、辻そば本編のように感想欄を閉じざるを得ないことになります。
筆者もただの人間です。ネガティブな感想が続くと精神的なダメージを受けますし、モチベーションも低下してしまいます。
読者の皆様におかれましては、ネガティブな感想は控えてくださいますよう、何卒宜しくお願い致します。