episode7 ラステムの街
陽光が燦々と降り注ぐ鬱蒼と木々の生えた密林の中を歩いていた。
小枝をかき分け、藪を踏みつけながら私は苛立ちを覚えていた。
理由は単純明快で、飢餓感や口渇感が私を襲うからだ。
その影響で、木々の隙間から森林に木漏れ日が覗き込むことで神秘的で幻想的に見える景観にも一切の感動を覚えることもない。
あの船で航海し、荒波で船酔いに苛まれること三日が経過している。その三日間、しっかりと船員から三食料理が提供されていたが、酔っているため全て戻してしまっている。
だから実質何も食べてないのと同義なのだ。
森の不安定な道を歩きつつ、先刻までの出来事を追想する。
船の航海を終えここ≪ザッタリム帝国≫の海岸に到着した船長ら一行は船酔いで項垂れる私を置いてさっさと出発してしまったのだ。
最低限、街の位置情報だけは提供してくれたものの、この何の魔物や猛獣が棲息しているともしれない樹海の中をただ一人で歩くのは心もとない。
貴族令嬢として惰眠を謳歌してきた私に、サバイバルスキルなど会得しているわけもなく、ただ草木をかき分けて街が存在するであろう道をひたすら我武者羅に進むしかない。
せめて護衛の一人や二人つけてもらいたい。でもこの森にいるのはおそらく蠢く魑魅魍魎だ。
本来なら私たちの船の海路はここより先に進んだ港町で停留する予定だったのだが、突如発生した暴風雨によってこれより先の進行は断念せざるを得ないということですぐ近くの海岸にとまったのだ。
もしちゃんとしたルートで港町に停まっていたなら人海戦術でこの国のことや街についての情報の詳細も大半は把握していたはずなのに。
しかしそんなタラレバを言ったところで過去は変動しない。
はぁと一つため息をつきながら不幸だと物乞いに耽る。自分は意外と薄幸少女なのかしら。
とこれまで幸薄っぷりを歩きながらも追憶する。
そうやって過去を想いながら森を抜けると、眼前の先には茫洋とした高原が広がっていた。
地面に群生した無数の雑草が心地よいそよ風が頬を伝う度に規則的に揺れている。
森林から高原へと一変した光景にさっきまでの薄幸少女は前言撤回よとばかりに意気軒昂とした感慨を覚えるが、それもまた別の感動へと変わる。
広大な高原に一つ円型の塀で囲まれた街が存在していた。
その景色を目の当たりにした刹那、私は爛々とした双眸でまずは深紅のドレスに付着した土や葉っぱを払いのけてから眼下の街まで疾駆する。
緩やかな斜辺を下るときに転倒しないように速度を微調整しながら駆け出し、平坦な道になった瞬間は遠慮せず全力疾走する。
徐々に近づいていると、街の輪郭が明瞭になり全容が認識できてきた。
おそらく外敵から防御するためのものだが守備性の欠如したある意味あるのかというような申し訳程度の塀が街全体を囲み、その塀を眺めていると私から見て塀の中央に入口らしき門が見える。
その門の左右に二人の番人がそれぞれ左腰に吊るした直剣の柄を握りながら仁王立ちしていた。
私はおもむろに接近し、恐る恐ると言った様子で言葉をかけた。
「あの、この街に入りたいのだけど」
「はい」
私の声かけに応じたのは私から見て右にいる若者の番兵だった。
「?見ない顔ですね。どこから着たか訊いてもよろしいですか?」
懇切丁寧な言葉遣いと好青年のような容姿は第一印象としてはかなりいい。
と感慨に耽っていると、その青年の番兵が怪訝な表情を浮かべる。
「その恰好は……」
小声で何かぶつぶつと呟くと、左サイドにいた中年の番人が彼に耳打ちしてきた。
「おい、怪しいぞこの女。見た感じ身分の高そうな恰好をしているが、貴族だった場合、護衛の一人や二人連れて歩くだろう。お貴族様が一人でこの何の取り柄もない辺鄙な街にやってくるか?こないだろ」
「確かにそうですね……もしかしたらですけど、帝都から大罪人がこの国に連行されるって話の伝達があったじゃないですか。彼女がその可能性も」
「ありえねえぜ。この国に送り込まれた大罪人はもれなく帝都の奴隷として生涯を無償の労働で費やされるはずだぜ」
「確かにそうですね。なら、彼女に少し訊いてみましょうか」
小声で話しているため会話の内容までは理解することはできないが、彼の値踏みするような矯めつ眇めつする視線に僅かながらの悪寒と嫌悪感を覚える。
憤りとまではいかないものの、ある程度の不快感を感じていると、不意に青年の番人が振り返り、私を誰何した。
「あの、つかぬ事をお聞きしますが、お名前を訊いても?」
「ああ、そんなこと。私はロナリアよ…あ」
名乗って、自分の失言を悟る。
辺境の街とは言え、流石に私が来ることの情報は流れているはず。
ここは偽名でも作って乗り切るべきだったか。
なんだか最近の私を振り返ると、無用な失態が多いような気がする。
私は自分のことを怜悧で頭がキレる利発的な聡明の頭脳明晰だと自負していたが、その自己分析はまた改めなければならないのかもしれない。
己の自分らしからぬ緊張っぷりに軽く動揺してから冷や汗が伝い彼らの言葉を待つと、二人は顔を見合わせ頭に疑問符を浮かべていた。
「知ってるか?」
「いいえ。僕の記憶にはありませんね」
不幸中の幸いと言えばいいだろうか。彼らに咎人の名前までは伝わっていなかったようだ。
それでも若い兵士はまだ気になる点があるのか質問を続けた。
「その恰好をしている理由について説明していただいてもよろしいですか?」
豪華絢爛なドレスを指差しながら問いかける若年の番人。
「実は私仕立て屋をしているのよ。作成したドレスを着て街を散歩するのが好きなの」
咄嗟についた嘘だったが、彼らは納得してくれたようだった。
また再び二人で吟味に話し合い、解決することができたのか、定位置について高らかに宣言した。
「ようこそ、≪ラステムの街≫へ!」
≪ラステムの街≫に入ると、まず私は食料を求めて商いの店舗が軒並み揃っている商店街を放浪することにした。
その際、行き交う通行人から注目されていた気がする。
私が彼らから注視されるのも無理はない。
なんせ私が着ている華美な深紅の上等な絹でできたドレスとは異なり、彼らこの街の住人は黒や白、茶色や緑など、麻布でできた地味で質素な衣類を纏っているからだ。
彼ら平民の不躾な視線に若干の苛立ちを覚えるが、今は空腹感が脳を苛んでそれどころではないので一瞥だけくれて後は無視を踏襲する。
しばらく歩くと前方に試食会や試飲会が行われている店舗を発見した。
眼前の商店を目の当たりにした瞬間、私は獰猛な獣の如く深紅の双眸を炯々と滾らせ、渇望に突き動かされながら猛獣のような電光石火の速度で駆け出す。
店の下まで向かうとそこには長テーブルの上に小皿が何枚も置いてあり、その上に一口サイズにカットされ、爪楊枝の刺されたお肉が載っていた。
私は何の躊躇もなくそれを手に取りあっという間に平らげる。
傍らにいた男女数人が物言いたげに眉間に皺を寄せ、こちらを睥睨する。
だが私はそれに構うことなく隣にある別のテーブルに視線を移す。
テーブルの上には紅葉色の飲み物の入ったコップが何枚も載っており、それもすかさず一息に呷る。
たったこれだけの量で満腹中枢が満たされることはないが、ある程度の幸福感は得ていると、店側の奥から店主らしき人物が出てきた。
「何やってんだい、あんた!」
見た目は使い古されたエプロンを着こんだ恰幅のいい女性で、年齢はおそらく五十歳はとっくに迎えたおばさんだ。
突然の怒号にびっくりして身を強張らせるが、私はきょとんとした面持ちで即答する。
「何って試食よ。何か問題でもあるっていうの?」
「大ありよ!これはお客さんのための試食品だよ。あんたみたいな独占する輩のためじゃない」
「む。聞き捨てならないわね。誰が輩ですって?!」
強気の正論で捲し立てられると、ついむきになって反論したくなる。私の悪癖の一つでもあった。
「そもそも独占してほしくないなら最初から言っておきなさいよ」
暗黙の了解という言葉はあるが、証拠がない以上有利に立てると算段をたてた私は強気で反駁する。
「それならそこに書いてあるわよ。『品は一人一個』って」
丸太のように太い指で差された方に顔を向けると、そこには確かに看板があった。
羊皮紙が貼られ、店主の直筆だろうか可愛らしい筆跡で『一人一個』と記載されている。
「うっ!」と敗北を認めたも同然のだみ声を上げてしまう私だが、ここで引いておけばいいものの、もう後に引けないと思った私は饒舌に罵声しだす。
「でも、いいじゃない!ケチね!だからいつまで絶っても結婚できずに独身のままなのよ!」
最後の台詞が地雷だったかおばさんはむきーっという擬態語が似合うほど顔を真っ赤にして私を睨めつけた。
おばさんのピリッとした空気を感じ取ったのか近場にいた他の客たちは既に退散している。
その後も不毛な押し問答を繰り返していると、不意に背後からスッと人が通るような気配がした。
コトッと何か硬質な物を置くような音が一つ。周囲に静寂が包みこみ振り返ると一人の女性がここの通貨らしき円い物をテーブルに置いて立っていた。
物音の正体は硬貨だったようだ。
「マダンおばさん、ルリ茶を二ついただきたいのですが」
銀鈴のように澄んだ清楚な声音。彼女が一言発するだけでも皆が思わず聞き入ってしまうほどに美しい声音。
注文を聞きつけた店主もといマダンおばさんは≪ルリ茶≫を取りに店の奥へと消えてしまう。
その間取り残された私は呆然と彼女を凝視していた。
理由は簡潔に言えば彼女の容姿にあった。
優美な曲線を描く肢体を強調するような紺色の修道服は彼女の貞淑さを示唆しているが問題はそこじゃない。
地毛なのか、背中まであるストレートのロングヘアは真ん中から左右に分かれてそれぞれ異なる髪色をしていた。
右半分は夜闇のような漆黒色でそれと対極するように左半分はアルビノの如き純白色だった。
トドメに右が赤眼、左が青眼の虹彩異色症。
下手すれば私と同格以上の奇抜さを持ち合わせているのに、街の人々から珍奇の眼差しの的になることはない。本当に日常の背景に溶け込んでいるようだった。
じっと観察していると、ふと眼前の修道女が嘆息する。
彼女は瞑目していた瞼を持ち上げると、赤と青の双眸をこちらに向けた。
「見ていましたよ。先ほどまでのあなたの言動」
凛とした佇まいや落ち着いた口調、そして極めつけの協調された豊満な胸から大人の女性だと思っていたが、色白の顔は意外と童顔だった。しかし美貌なのには変わらない。
彼女の容姿からは判然としない年齢を勝手に推測していると、再びシスターの唇が開いた。
「ここは公共の場ですよ。もう少しモラルや公序良俗を意識してください。それにあなた最近引っ越してきたのですか?この調子だと孤立してしまいますよ?」
毅然とした態度で凛然とした言葉をただ粛々と紡ぐ年齢不詳の白黒の少女。
そこでふと気づく。この女は私に説教しているのだろうか。
初対面でいきなり説教とかこの女はどれだけお偉い御方なのかしら。
と内心で皮肉りながら頬を引きつかせていると、店の奥からおばさんが小瓶を両手に一つずつ持って戻ってきた。
中にはなにやら薄紫色の液体が入っている。あれが所謂≪ルリ茶≫と呼ばれるものだろうか。
もしかしてルリ茶のルリってあの瑠璃色の瑠璃からきてるのかしら。
一体全体どんな味なのか皆目見当もつかないが飲んでみようとは思わない。
シスターに二つの小瓶を手渡し銀貨と銅貨二枚ずつを受け取ると、それを吟味したのち殊勝に笑って告げた。
「はい。確かに220ルキいただきました。まいどあり!」
ルキというのはこの地域のお金の単位だろう。
相場がいくらなのか知らないが、シスターが平然としていることからこれがデフォルトの価格なのかもしれない。
二人が商品の売買をしている合間に現場からの撤退を測ろうとした私だが、すぐに「待ちなさい!」という制止の言葉をかけられる。
心底鬱陶しいという気持ちを包み隠さず振り返ると、目の前にルリ茶の入った小瓶が現れる。
シスターが差し出してきたようだった。
「はい。これはあなたの分です。喉が渇いていたのでしょう。お返しは入りません」
圧倒的善意を前に困惑する私。
「いらないわよそんなもの。私は惨めな物乞いに成り下がる気は毛頭ないわ!」
と一蹴するが本当は得体の知れない液体を飲むのが怖いだけである。
乱暴に拒むと彼女は平素な表情で身を引いた。
「そ。わかりました。でもまだ話は終わっていませんよ」
言いながら小瓶からコルク栓を引き抜き、中のルリ茶で唇を湿らす。
ただ喉に流すのではなく喉を潤すのが目的であるように上品に飲み下す。
その際の喉を通るときの首の動きが妙に艶めかしい。
これ以上説法を喰らうのは勘弁なので飲んでる隙をついて逃亡を図る。
不意の遁走に遅れて修道女も走り出す。
ドレスの裾をつまんで疾駆する私と清楚な女の子のような走り方をする赤青の少女。
走りづらそうな修道服を着ているシスターを巻くのはそう難儀することじゃなかった。
名も知らない冷血女を巻いた後は荒い呼吸を整えて再び歩き出す。
とりあえず私は仕事を求めて冒険者ギルドへ向かった。
何を差し置いても生活するためにはまず金銭を稼ぐ手段を見つけなければならない。
冒険者ギルドと記された看板をかけた木造の建造物に入る。
スイングドアを抜けて中に入ると、酒場と併設しているのかジョッキに入った酒を呷る強面の野郎が目に入った。
野卑な視線を向けてくるそれら一同をスルーして一番近くの窓口へと向かう。
「ようこそ冒険者ギルドへ。本日はどのようなご用件で?」
目が合った瞬間、一瞬眉を顰めたもののプロフェッショナルな職場よろしく圧倒的営業スマイルで対応する受付嬢。
萌葱色のロングヘアは一つ結びの三つ編みにして肩に流してあり、頭の上には制服の一つであるベレー帽が載っている。
耳が長く尖っていることから彼女は所謂エルフという種族なのだろう。
「冒険者になりにきたのだけど」
「かしこまりました。ではまず登録証を発行しないといけませんね。まずはこちらのパネルに手をかざしてください」
言いながらカウンターの右方に設えている手の型を取ったパネルを指差す。
言われた通りに従おうと手をかざしかけたところで、
「おいおい大丈夫かよ嬢ちゃん。ここは気品溢れるお姫様が来るようなお茶会とは違うんだぜ?血生臭い業務も多いし下卑た野郎もわんさかいる」
声のした隣へ視線を移すとそこには見上げてしまうほどの偉躯の筋骨隆々の男が立っていた。
背中には大振りの戦斧が掲げてあり右眼に眼帯を装着している。
偉丈夫の男は威圧感のあるその隻眼で私を見据えると再び声を上げた。
「聞いてんのか?嬢ちゃん」
その表情と声色は嘲弄というより呆れの色が混じっていた。
しかし余計な心配をかけられた私は苛立ちで彼を愚弄する。
「聞いてるわよ。下卑た野郎ってのはあなたのことも差すのよね?」
「あ?んだとてめぇ!こっちは良心で言ってるのになんだその態度は!」
大柄な男は怒声を上ゲながら私の胸倉を掴みかかるもそれはとどめてカウンターを拳で叩くことで私を威嚇する。
「だいたいこの私に高慢な態度をとるのが悪いのよ」
私も負けじと彼を睥睨するとカウンター奥から手を叩く音が響いた。
「はーい。そこまで!喧嘩なら他所でやってください。それが嫌なら出禁です!」
追い出されてしまった。
他の店でも同じようなことが起きて追放された私は今、街を外れて再び僻地の草原を歩いている。
明らかに路頭に迷っている。
この調子じゃ先が思いやられるわ。
立ったり歩いたりして溜まった疲弊感を解消するため斜面になっている草原に腰掛ける。
晴天の青天井は白濁した雲が東から西へと流れている。
そんな雄大な景色を前に私の心は闇が支配していた。
このままだと私はなすすべなく餓死してしまう。
やはり侯爵令嬢の身分に胡坐をかいて自堕落な生活をしていた私に自力で生活するのは不可能なのだ。
ならば、残る手段はただ一つ。
野蛮な山賊や盗賊になって旅人を襲う。
そこでふと私は歯噛みする。
——盗賊だけには成り下がらないようにね。
リオの蜂蜜のような声でいて意地悪な台詞が脳裏に甦る。
ある種の呪いにでもかかったようにその言葉が何度も何度も脳内を奔流する。
なんだかあの台詞だけでリオが私の本質を正確に見抜いてることを示唆している気がした。
もし、ここで本当に他人の家屋から金目の物を盗んで野盗にでもなったら、味を占めた私は今後も窃盗を働き、もう後戻りができなくなるだろう。
そしてそれは、リオへの完全なる敗北を意味する。
それはリオの姉として、否、リオに裏切られた一人の人間として幾分も看過できない結末だった。
そんな結果は認められない。私のプライドが許さない。姉が妹に負けるわけにはいかない。
リオのあの軽薄な挑発が予言にならないためにも今ここで折れるわけにはいかない。
思索に耽ながら密かに心に誓ったところで、ふと私は苦笑する。
あんなにリオに対して怨嗟も憎悪も抱いているのに、そんな彼女の煽り文句で励まされるなんて皮肉なものね。
自嘲気味に乾いた笑みを浮かべると、不意に背後から雑草を踏むような物音が聞こえた。
疾風迅雷の速度で振り返ると、直後に私は警戒で緊迫していた身体を安堵で弛緩させた。
そこには小柄で華奢な少女が立っていた。