episode1 悪役令嬢の真髄
「咎人に判定を言い渡す!」
大地を穿つような低い言葉を発した白髪白髯の老人は、使い古された木質の手枷を嵌められ、ひれ伏す眼下の私——ロナリア・ラズフォンドを、侮蔑の眼差しで見据えた。
清々しいまでの雲一つない快晴。そんな快活な蒼穹とは裏腹にその下で行われた《公開裁判》はあまりに陰鬱としていて緊張感と臨場感を孕んでいた。
傍聴席で幾人たる者の怨嗟と憎悪の籠った視線が自分に集結する中、私自身はそんな彼らに一瞥もくれず、ただ眼前に立つ老爺の次の台詞を固唾を呑んで待っていた。
彼は高位の審問官が着るような漆黒の衣を纏い、右手には骨ばった指で木槌のようなものが握られていた。
服の肩口や裾の部分には純金色の刺繍が施され、胸元には自らの身分を証明する真鍮色の走る天馬が描かれた徽章があしらわれている。
その徽章を持つだけで幾千、否、幾万もの臣民が畏怖し、鎮座する。それほど、眼前に毅然と、凛然と立つ彼の社会的地位の高いということが、たったその徽章を見ただけで証明されたということだ。
長身痩躯の老師は睥睨する視線を逸らさぬまま、おもむろに口を開き、悠然と呟く。
「何人にも及ばぬ被害者の数々、罪科の残忍性、汝の犯した愚行は万死に値する——よって、汝を死罪とする」
老骨はただ冷然と、かつ冷淡でひどく冷静な口調で私の人生の宿命を下した。
最初、眼前の耄碌が何を言っているのか理解できなかった。
不明瞭だったニュアンスが、言葉を反芻することで明確になっていく度に不気味なほど冷たい冷や汗の珠が頬を伝う。
恐怖で全身がガタガタと震え、身体の芯が冷えていく。
意味が輪郭を形作る度に、それに比例して五感の全てが薄れていき、今目の前にある現実が乖離していく。
意味を完全に理解すると、絶望の滲む声音で呆然と呟いた。
「うそ………」
小声で聞き取ることができなかった裁判官がその柳眉をひそめた刹那、私は獰猛な獣の如く咆哮をあげていた。
「嘘よ!私は何もやってない!あいつらが…そうよ!あいつらが嘘をついているんだわ!私を陥れるためにこんな小細工を!許さない、絶対に許さない!あいつらの罪を全部あらいざらい独白させて私自身が処刑してやるわ!」
認めない。認められない。認めたくない。
その言葉だけが思考を埋め尽くし、瓦解と修繕を繰り返して支離滅裂な論理で釈明する。
金切り声を発し、獰悪な深紅の双眸で目に入る幾多の人間を睨み、唾をまき散らし、今朝側近の侍女に整えてもらったはずの薄汚れた巻き毛の金髪を首を横に振って揺らしながら、叫び続ける。
そんな私を審問官は呆れるように、否、諦めるように眉をひそめて瞑目していた。
「よもやそこまで堕ちているとは………哀れなものだ」
左手でこめかみを抑えて小声で独りごちる審問官。
傍聴席の面々はヒステリックをあげる私の凶悪な悪相を醜悪な魔物を軽蔑するように瞠目しながら凝視していた。
そのギャラリーの中には被害者の親族の貴人や、私が生活していた侯爵邸の雑用係の侍者、さらには私の両親であるウォロウス・ラズフォンド侯爵とソフィア・ラズフォンド夫人も立っていた。
両親は私の豹変した姿を見て、沈鬱な表情に歪ませていることから酷く絶望している様子が伺えられる。
いくら弁明したところで一切も聞く耳を持たない審問官に堪忍袋の緒が切れた私は、理性を感じさせない異貌で台から身を乗り出し、審問官へと猛然と襲い掛かる。
「捉えろ!」
審問官の傍らに凛とした佇まいで立つ華美な意匠の甲冑を着る騎士長が命令を下し、万が一に備えて控えていた上等な白銀の板金鎧に身を包む近衛騎士らが俊敏に動き出す。
暴れて抵抗する私だが手枷で腕を拘束されているため、いとも簡単に取り押さえられてしまう。
高貴な騎士団故、日々鍛錬と修練で研鑽を積んだ彼らの膂力は凄まじく、惰眠を貪り怠惰を体現したような、ましては女である私には抵抗することはできなかった。
複数人に押さえられる私の周囲には他の騎士たちが片手剣を向けながら包囲するような陣形で立つ。
鏡のような刀身から煌々と放つ瀟洒な光芒を見て、一瞬我に返る。
例えこの私を捕縛する屈強な騎士共を払ったところで即座に片手剣の鋭利な切っ先で刺突されてしまうと悟ってしまったからだ。
硬い地面にがっちりと固定され、頭部も押さえられる私。
そんな状態でも、なんとか目線だけでも上へと上げ老人の審問官と視線を交差させる。
「そうだわ審問官様!私の、私の身体を差し上げます!日々の労働と責務のストレスで溜まった疲れや欲望を私の肢体で満たしてください!物みたいにただの道具のように奴隷として扱っていただいても構いません!あなたの滾る煩悩と渇望をぜひ私の身体へとぶつけてください!だから——」
無理な体勢での上目遣い。
口の端を吊り上げ、必死に甘い声を出しながら陶然とした眸で審問官を誘惑する。
ハニートラップなんてお手の物。
私はいつだってこの容姿端麗で魅惑的な美貌と巧みな話術と仕草で世のバカな男どもを誑かし騙してきた。
男ってのは単純明快。だから二人っきりでいるときとかに恍惚とした表情で、心底あなたに陶酔したと思わせれば簡単に堕ちてしまい、私の虜となり下僕となる。
だから今回も上手くいくはず。
今までの私の経験則からすればそういった結論に至るのは当然の摂理であった。
よく見たら眼前に立つ審問官は非常に整った容姿をしていた。
切れ長の目元、高い鼻梁、左右対称な柳眉。
若かりし青年時代は、眉目秀麗と謳われたであろう怜悧な美貌。
これなら案外苦痛に感じないかもしれない。
私に年の離れた老いぼれと淫らなことをする痴女のような趣味も性癖もないが、この四面楚歌の状況を切り抜けて生き残るためには仕方がない。
いずれ油断したときに寝込みを襲って暗殺すればいいだけの話だ。
色気を出しながら話している間、悪辣な計画を密かに立てている私。しかし——
「黙れ外道!」
「………っ!」
たった一言で饒舌に語っていた私は次の言葉を失ってしまう。
私が呆然と見つめる先で審問官は剣呑な表情で額に青筋を浮かべていた。
審問官は憤懣を眸に宿し、先刻までの冷血とは裏腹に荒れた語気で述べる。
「これまでの罪に加え私に対する不敬なる態度、ましてやこの私に恥辱を味わわせるなど言語道断!この私に恥をかかせた罪は重い。大罪人ロナリア、汝を国家反逆罪とみなし、明日の朝、死刑を執行する!」
一瞬にして大逆の罪を背負ってしまった。
どうやら私は生きる為にとった行動が逆に彼の琴線に触れ、地雷を踏んでしまったようだ。
審問官の放った言葉が信用できなくてしばし俯いてしまう。
そんな私に追い打ちをかけるように審問官は叫ぶ。
「私を冒涜した以上、この判定が覆ると思うな!」
その罵詈雑言の悪罵のような一言が脳内に木霊し、幾重の思考が奔流する。
審問官は刑の執行が明日行われると言っていた。
現在の時刻はおそらく三時頃だろうから、だとしたら残り数十時間しかない。
私に協力していた共犯者も全員取り押さえられ、他者の力を借りて他力本願をすることはできない。
すなわち私自身が自力で脱獄しなければならないということだが、残り僅かな執行猶予でセキュリティの万全な牢獄から脱獄する手立ては用意されているわけがない。
つまり、私にもう生き残るための道標は存在しないということだ。もう万策尽きてしまった。
万事休す。八方塞がり。絶体絶命。断崖絶壁。四面楚歌。五里霧中。
そういった単語が私の心象を支配し、絶望した私は地面に力なく項垂れた。