5.最初の正念場(天恵7年4月下旬)
「あれ、まだいたの」
「……おはようございます、唯ちゃん先輩」
呆れたようなその声に振り返れば、窓から射し込む朝日が眩しかった。
呆れ顔でこちらを見ている唯ちゃん先輩こと、秋山唯。彼女は、久蓮の所属するこの野々口研の博士一年生だ。溜息を吐いている彼女に、久蓮は笑顔を向けた。相変わらず、表情豊かな人だ、などとぼんやり考えながら。
「いやいや。キミ、昨日試合だったんでしょ? ダメだよ、スポーツマンは身体が資本でしょ」
「や、昨日はマネやってたんで。……今日はちゃんと寝ます」
尚も笑って言う久蓮に、唯はもう一度溜息を吐いている。そんな顔色で何言ってんの、と呆れる彼女に、久蓮は苦笑して肩を竦めた。
「てか、珍しいね、こうして見るとさー。篠崎くんがウェットやってるの。」
「そうですか? ……あー、確かに」
そう言って唯はからりと笑った。
言われてみれば、ここのところドライばかりしていたかもしれない。あまり意識していなかった――忙しかったというのが正しいが。ピペット片手に試料との戯れを再開すれば、そんな久蓮をじっと見つめる唯の視線が、背越しに伝わる。
「篠崎くんさぁ。研究、楽しい?」
「――? それなりに」
唐突に落とされたその問いに、久蓮は疑問符を浮かべつつ返す。
「ならさぁ、研究者すればいいじゃん。キミなら引く手数多でしょ」
「それも、悪くないかも、ですね」
「うーん、手強い……」
――――ホントに、悪くないと思ってるんだけどな~。
そんな唯の言葉に、久蓮はからりと笑って答えた。対して、少しむくれた唯の声が鼓膜を揺らし、久蓮は口角を上げた。告げた言葉は、本心だ。それを唯も解っているのだろうけれど、ただ、ベストだとも思っていない、ということも、伝わっているのだろう。
「――よし、オワリ」
器具を片付けて三人分のコーヒーを淹れる。
「おはようございます」
「早いですねぇ、お二人とも。朝ごはんは食べましたか?」
――――やべ、忘れてた。
久蓮の差し出したコーヒーに礼を告げながら、教授は笑んだ。久蓮の反応にその笑みを深めた彼は、がさりと袋を差し出した。
「多めに買って正解でしたね」
「私スープ淹れるねー」
「すみません、ごちそうさまです」
「構いませんよ。君のコーヒーをいつも頂いていますから」
そう言ってポットへと向かった唯を目で追いながら、久蓮はデスクについた。並べられたパンの香りが香ばしい。コーヒーを片手に優雅に笑む教授は、ある種風格すら漂う。斯く在りたいものだ、と久蓮はパンを食んだ。
「センセ、振られちゃいました」
「おやおや」
皆の前にスープを置くと、軽くむくれながら唯は教授に訴える。教授はそんな唯に穏やかに苦笑している。
不満な訳ではない。研究は、悪くない。けれど、それだけだ。へえ、と思うことはあれど、自分の想像を超える経験には、まだ出会えていない。単彩ではない、けれど、それだけなのだ。教授は、久蓮のその思いを解っている。
「それより、唯ちゃん先輩。オレ今日残らないんで、仕事あるなら早めに振ってくださいよ」
「え、……あ! ミーティングか! りょーかい」
バタバタと資料を取りに急ぐ唯に、教授と顔を見合わせて久蓮は苦笑した。
*
夕方。研究室を出て、買い出しを済ませた久蓮は、買い物袋を片手に家への路を歩いていた。
「ん?」
久蓮はぱちりと目を瞬かせ、そしてその目を細めた。
進む方向のその先に、見知った背中を見つけたのだ。常は良い姿勢のハズのその背中は、ぐったりと項垂れている。自宅に向かってるのであろうその姿は、とても頼りない。
「また、"家"か? 大介」
「……っ、」
歩幅を広げて追いつくと、彼――御影大介にそう声をかけた。その刹那、息を吞んで振り返った彼の表情には驚きが乗っていた。
「……?」
「研究室出て買い出しの帰り。今から仕込みね」
どうしてここに、と視線で問われ、久蓮は提げていた買い物袋を掲げて見せた。
極大陸上部の三年生である大介は、喋らない。喋れない、のではなく、敢えて声を出さないのだ。それは、特殊な大介の生家と、生まれ持った特殊な資質が関係しているのだが、それに関して、久蓮がこの後輩にしてあげられることは、何もない。こうして、|"家"に苦しめられている《自分と似た状況の》姿を、目の当たりにしても――。
かなり身長の高い大介だ。久蓮は自然、大介を見上げる形となる。大介の肩越しに目に入った陽光が眩しく、久蓮は目を細めた。ふと、大介の眉が寄せられ、そして心配そうな表情に変わる。
「――、……」
「あー…ちょっと寝不足?」
「……!」
「ははっ、大丈夫だって。準備したらちょっと寝るつもり」
「……?」
「心配すんなって」
久蓮の顔を覗き込んで体調を心配する大介に、久蓮は苦笑と共に答えた。確かに、昨日から寝ていない今の体調は、正直言ってあまり良くないのだ。情けないことに少しふらふらする頭も、陽光が眩しくて軽く目眩を起こしたこの視界も。
大介には以前、大失態を見せている――大介が一年のときに、彼の目の前で貧血を起こし、階段から転げ落ちたのだ。あの時は、大介には泣かれるわ、祐介や夜には説教されるわ、散々だった。……主に罪悪感で。
久蓮は小さく首を振って回想を中断し、大介に意識を戻した。このルートを――それもとぼとぼと――歩いてくるということは、恐らくは"御影"の家からの帰り道だろう。今日は"仕事"か、それとも稽古か。大介の手首に、出来立ての新しい痣を見留め、久蓮は大介の手を取った。
「……冷やしたの?」
「――!」
――――今日は、稽古の方か。
大介が陸上だけではなく、"御影"から強要されている剣道で、未だに厳しく稽古を付けられていることを久蓮は知っていた。痛々しい痣があるのは、手首だけではないのだろう。
手首をふわりと撫でる。久蓮の発した問いかけに、まだだった、と眉を下げた大介。すかさず買い物袋を漁り、小さな保冷剤を手渡した。
「こんなんで悪いけど。帰ったらちゃんと冷やして」
「……!」
「いいって。――わり、大したこと出来なくて」
理不尽な家の要求――それに耐えなければならないその苦しみは痛い程解るのに。久蓮にできることといえば、こんなことくらいなのだ。
そのくらい、"御影"――ひいては"御堂"の影響力は、あの界隈では強大だ。一般人の久蓮が迂闊に踏み入れる領域ではない。
力のないことを自嘲する久蓮に、大介はやめてくれと首を振っている。
「また、後でね」
必死な大介をふわりと撫で、久蓮は踵を返した。これ以上は、大介に気を遣わせるだけだ。せめて、大介の心が少しでも軽くなっていると良い。そんなことを願いながら、久蓮はミーティングの準備のために家路を急いだ。
*
「風邪引くぞ、馬鹿」
「んー……」
ぶっきらぼうなその声に、久蓮の意識は浮上した。
瞳を開ければ、時刻は十八時五十分。集合より少し早い今、範昭の顰めっ面が飛び込んできた。自身が眠っていたのだと思い至って、久蓮は少し前の行動を思い出した。皆の分の夕食を作って、時間まで仮眠していようと思ったのだった。ナイスタイミング。さすが範昭、だ。
「おはよ、いらっしゃい」
「てめぇ、またちゃんと寝なかったろ」
「やー。今日は、しっかり寝ますとも」
「ったく……。しっかりしろよ、最初の山場だろ?」
「そのための仮眠、ですから」
「そうかよ」
声をかけるまで全く起きる気配がなかったぞ、と範昭は眉を寄せた。そうだろう。相当に疲れていた自覚は、ある。だからこそ、少し早く来るであろう範昭に甘えようと思ったのだ。にこにこと口答える久蓮に、範昭は溜息を吐いている。そんな範昭にくすりと笑みを向け、久蓮は夕食――カレーを温め直すため、キッチンへと向かう。
仏頂面に心配を揺らめかせ、眼を覗き込んでくる範昭に、久蓮は自身の胸をどんとひとつ、叩いてみせる。呆れと安堵を混ぜ込んだ範昭の言葉に被さって、チャイムが皆の来訪を告げた。
「いらっしゃいー」
「おじゃましまーす」
笑顔で出迎えれば、元気な翔太の声を皮切りに、ぞろぞろと上がり込む面々。
「すげーー! 広い! いい匂いー」
「まあ落ち着けって」
「でも、確かに広いですね。家賃高そう」
「こいつ、金持ちだからなぁ」
興奮のままにはしゃぐ翔太を蒼が宥めつつ、彼の謂いに同意している。とても大学生に払える家賃とは思えない、と言う蒼に、範昭は半目でこちらを見やる。
久蓮は苦笑を浮かべた。家賃云々はともかく、広さには理由がある。陸上部に入るならばここが部員の溜まり場になるかもしれないと思ったからだ。高校時代のアパートがそうであったように――。
「えっ、バイトですか?」
「あー……。やめとけやめとけ。真似すると破産するぞ」
「?!」
久蓮の思考を余所に、会話は進んでいく。破産とは、人聞きの悪い。蒼が不安そうに久蓮を見ている。
「おい、久蓮。お前の金策法教えてやれ」
「んー? 株」
軽く返したつもりが、蒼は瞠目していた。部屋の隅に置いてあるパソコンに目をやる蒼。そう、確かに、それは株でも使っているパソコンだ。仕方がないのだ。株はともかく、あまりスペックの低いパソコンでは、久蓮のやりたいことにはついてきてくれないから。
「てかノリちゃんひどー。破産なんてしないよー」
範昭の謂いに抗議しておく。始めてこの方、久蓮は損したことは一度もないのだから。あの人に頼らず学費や生活費を工面するには、丁度よかった。久蓮の瞳、株価グラフの先には、未来の行方が見えるのだから。
「バカかてめぇ。普通の大学生が、そう簡単に株で一財産築けてたまるか」
「簡単だよ割と」
「てめぇは普通じゃねぇんだよ。いい加減自分の頭の規格外さを認めろよ」
「えー……」
その予測能力、皆が持っていると思うなよ、と範昭が睨む。
ぐぅぅぅー。二人の掛け合いに割って入った腹の虫の音。しまった、おあずけしたままだったと、久蓮は内心苦笑して謝罪した。
「あー、ごめんごめん。とりあえず、ご飯にしようか」




