3.春雷来たりて(天恵7年4月中旬)
――――あ~あ~、緊張しちゃってまあ。
久蓮は、蒼の様子に、内心で苦笑した。別に取って喰いやしないよ、と。
「ようこそ、我が極北大学陸上競技部へ」
ここ数日の淀んだ空模様からすると幾分明るい、その日。数多の葛藤を乗り越え、こうして再びグラウンドに足を運んだであろう彼に、久蓮は笑みつつ、鷹揚に告げた。
「……どもっす」
「入部してくれるのかな? またここに来てくれたということは、さ」
「……そうっすね」
警戒心を押し殺して、精一杯の平静を装ったその様子に、久蓮は笑みを深めた。久蓮の走りを見て、再び走ると決意した蒼。それならば、久蓮は己の出来る、最大限を以てして、楽しませたいと思う訳で。
――――責任、重大じゃん。まあ、オレの前に現れてしまった以上、否が応でも巻き込むんだけど、ね。
わちゃわちゃと戯れる、新入生二人を微笑ましく眺めながら、久蓮は自嘲した。
「え? 絶対来ると思ってたよ」
「は? なんでだよ」
「うーん……、……なんとなく?」
素直で明るい雰囲気に隠れてはいるが、この部の中でも特に直感に優れて鋭い翔太は、それでいて潔く、純粋だ。けれど、散々と悩み抜いた末に、覚悟を以てしてここにいる蒼には、それは些か残酷な謂いなのだろう。二人の間の空気が――正確には、蒼の纏う空気が――、徐々に冷えていくのを、久蓮は敏感に感じ取った。久蓮からすれば、どちらの気持ちにも共感できるのだが。
「はぁい、集合するよー」
蒼が、その感情のままに口を開こうとした刹那、久蓮は気の抜けた笑みを浮かべて号令をかけた。毒気を抜かれた蒼と皆がわらわらと集まってくる。その様を眺め、久蓮はにっこりと笑む。
――――初っ端からいざこざ――なんてそんな雰囲気、許すハズないだろ?
「というわけで。今回から、我が中長距離ブロックに参戦してくれる新入部員君だよ。ハイ、自己紹介して」
ゆるゆると進むこの口調に、範昭がジト目を送ってくるのが見える。範昭の反応を楽しみながら、久蓮の自慢の部員たちを、蒼へ紹介していく。
――――良いか、蒼。コイツらはお前の味方。ここは、お前がお前のまま、お前の求める走りができる場所だよ。
皆は蒼の才能を知りつつ、それでも尚、彼を心から歓迎している。
早く気付くといいと、久蓮は思う。独り寂しく傷付きながらも、走りを求めてやまない彼が、それでも自分は独りではないのだと。今の蒼には、決して伝わらないであろう、その想い。
「で、改めまして、オレは篠崎久蓮。ここの主将兼マネージャー」
「はぁ!?」
「ええぇ!?」
一年生二人の良い反応に、思わずニヤニヤと悪い笑みが止められない。余りにも強張った蒼の表情に、久蓮はついつい、その空気をぶち壊したくなったのだ。
この間の反応から、久蓮は当然選手だと思い込んでいるであろう蒼と、ここまでの練習で、久蓮にペースメイクをされている翔太。事実を知らない二人の反応は、もう久蓮の期待そのままに、硬い雰囲気を壊してくれたわけだ。
――――さてと、面子は揃ったし、そろそろ次の段階に移行しますかね~。
「――で! 新たな部員を迎えた我々の今年の目標はー。ズバリ、全日に出ることでーす」
今日の夕飯の献立でも告げるかのように軽く、久蓮は、未だここにいる誰にも告げていない目標を明かした。告げた途端、部員たちが騒めく。
全日本大学駅伝対校選手権大会――通称・全日。伊勢路とも呼ばれるこの大会は、大学の三大駅伝として、出雲駅伝、箱根駅伝と並び称される。それに、出場する、ということ。関東、関西の激戦区から隔離された、この北の孤島は、他と比べてレベルは低い。――とはいえ、今まで極教大に勝てなかった極北大が、更に帝北大まで加わった今年、それはハードルの高い目標に感じられるのだろう。
「だーいじょうぶだって!オレたちならできる」
顔を浮かべてそう告げても尚、皆の表情は不安に彩られている。
「今年はオレも走るしね」
付け加えたその言葉に目を輝かせた、新入生二人を見た久蓮は、頼もしい限りだと笑う。
不安も、興奮も、不満も。全てを掻き消すように気の抜けた号令をかけ、久蓮は雪融けに煌めく反射光飛び交うメンストへと、先頭を切って駆け出した。
*
久蓮。そして、範昭。彼らのほかに誰もいなくなった部室は薄暗い。新入部員と新たな目標を迎えたその熱量は、今やそのどこにも存在しない。練習後の日課となっている、脚のケアと部誌への記入を終えた久蓮は、範昭を仰ぎ見る。
「珍しいね」
真剣な表情で射るように此方を見つめる範昭に、久蓮は軽い調子で声を掛けた。なにか話がある時も、普段範昭は、作業途中の久蓮に気にせず声を掛ける。"ながら"でも、久蓮が苦にならないのを知っているからだ。それが今日は、久蓮が作業を終えるのを、こうして待っていた。
――――それほど真剣な話、か。……まあ、分るよね。
「正気か?」
――――ほら、ね。
些か短すぎるそれは、先程の宣言へ向けられたものか。今まで三年間、頑なにレースに出ようとしなかった久蓮が、あっさりとその禁を解こうとしていることへの。
「かくれんぼは、ゲームオーバーになっちゃったしね」
久蓮は、極北大学に入学した三年前から今前まで、一度も公式の大会や記録会に出場していない。久蓮が公の場で走らなくなった原因、それは勿論、脚の怪我もあるが。根本は、久蓮が極北大に来た経緯――父・鉄人との確執に因るところが大きい。
久蓮が再び彼に立ち向かうための準備を行う間、その居所を知られないために、久蓮は、世間から消えたのだ。そして先日――その必要は無くなった。その事情は、範昭も知っての通り。鉄人が、極北の地に現れたのだ。帝北学園大学に創設された、駅伝部の監督として――。
顔を顰める範昭に、敢えていつもの調子で軽く返す。範昭は気付いただろうか。向かい合う範昭を見る久蓮が、表情を作り損ねていることに。
「……」
一瞬言葉を失った範昭は、何を言うべきか迷ったか、目を泳がせている。久蓮は範昭の言葉の続きを待った。
「しかしお前、また大きく出たな」
「そうかなぁ」
それ以上の追及を諦めたらしい範昭は、久蓮の掲げた目標に言及する。
「解ってんのか。極教だけじゃなく、帝北も倒さないといけねーのに」
北海道の土地は広大だ。道内にはいくつもの大学があるが、その中でも、陸上において特に力があるのが、北海道教育大学――通称・極教大だ。在学人数もさることながら、体育科もある極教大には、主に道内の高校から、実力のある選手が集まる。そして、帝北学園大学。今年から新設された陸上部だが、本州の強豪校から引き抜いた実力者たちが名を連ねている。
確かに、今まで極教大に一度も勝てていない我々極大が、"篠崎鉄人"率いるスカウトバリバリの帝北大に勝つというのは。一般的には非常識だろう。
――――解ってるよ。でも、お前も知っているだろ? オレは、敗けない――絶対に。
「もち」
にへら、と努めて締まりのない笑みを浮かべた、久蓮に、範昭が僅かに瞠目しているのが見えた。
「てゆか、だからだよ。オレは、勝たなきゃいけない。アイツに」
す、と、久蓮の表情から柔らかさが抜け落ちた。
――――ホントはね、勝たなくても行けるんだ、全日には。……知ってるよね、ノリちゃん。それなのにオレが、帝北に勝つことも含めて目標と認識させようとしていることも。
例年は、北海道予選大会で優勝した大学のみが、全日へと進むことができる。けれど、昨年の極教大の活躍で、今年は北海道予選の二位までの二校が全日への出場権を得るのだ。だが――。
「馬鹿が。手、震えてんぞ」
「……。……ゲンメツした?」
久蓮が真に心のままに走るためには、どうしてもあの男に打ち勝たなければいけない。それは一人ではどうしても届かないことだ。
久蓮はただ、怖かった。あの父親が。そして、彼に歯向かおうとする久蓮に、彼が部員たちに何かをするのではないかと。――巻き込んでしまうのではないかと。思わず俯く。
――――ごめんね、ノリちゃん。こんな、主将で。
「馬鹿野郎、テメェの印象なんか出会ったときに既に最悪だ」
「ははっ、ひでー」
久蓮は空笑った。その響きは虚しさだけが含まれている。
「というかな。何が"オレは勝たなきゃ"だよ。そこはな"オレたちは"だろ」
「……」
――――そんなこと、言えるハズがないだろ。
範昭の鋭い視線から逃れるように、久蓮は俯いた。
そう、言えるハズがないのだ。自身の勝手な事情に、性懲りもなく巻き込もうとしている、久蓮には。
「悪いね、勝手で」
つい、自嘲的な声が出た。
「きめぇ。大体そんなんばっかだろが、こんなとこに来る奴は。それが俺みたいな臆病者」
「……」
範昭の素っ気ない言葉に、どこか暖かい色を感じた久蓮は、密かに目を瞠る。そして、そんなことよりも、聞き逃せない台詞があった。
「……ノリちゃんは臆病者なんかじゃないよ」
「……」
ぽつりと落とした抗議の言葉は、小さいながらも本気のそれだ。久蓮の呟きが届いたであろう範昭は舌打ちを零した。いつもの彼だ。
「ま、なんにせよ」
暫しの後。ふ、と目を閉じた範昭は、何かを想起しているようだ。
「春は来たのかよ」
顔を上げた久蓮は、睨んでいるのかと思う程に鋭い範昭の瞳に射抜かれた。その問いに、久蓮は思わず破顔した。
窓の外に目をやり、久蓮は二人の新入生の姿を思い浮かべた。
「来たよ。ただの春じゃない、大きな春雷さ。……オレたちの陸上競技部に吹き荒れ、かき混ぜる、大きな」
「春雷、ねえ」
何か言いたげな視線と台詞を寄越す範昭に、久蓮は心よりの笑みを返した。
彼ら二人は、久蓮の今の硬直した状況を揺り動かす、大きな存在になるだろう。才能の片鱗を覗かせる彼らは、我々極大面子を大きなうねりの真中へと誘う嵐――雪に閉ざされた冬に終わりを告げる大きな大きな、春雷だ。そう、春は、近いのだ――。




