1.それは、始まり(天恵7年4月上旬)
「おい久蓮。お前、メンスト走ってろ」
「はいはーい」
新歓活動のために配るビラの準備をしていた久蓮に、範昭はそう声をかけてきた。
範昭の思惑は、要するに、久蓮に客寄せパンダになれということだ。今の自分の走りを新入生に見せることが、どれほど客寄せに繋がるのか――久蓮には甚だ疑問だった。けれどもたしかに、陸上競技部の存在を道行く人々に周知することくらいは出来るだろう。
まあ、結局のところ何だって構わないのだ。極大陸上部にとってマイナスでさえなければ。
まさか、これから運命を変える出会いが待っていることなど予想だにしない久蓮は、至って軽い気持ちで副主将のその指示を了承した。
*
びゅう。
叩きつけるのは、雪混じりの風だ。どんよりと暗い頭上から、吹き降ろしてくる強い風。吐き出される息は白く、それが一層寒さを引き立てた。それさえも、極北で暮らしたこの三年間で、久蓮にとっては日常となっていたのだが。
逆巻く風を切り裂き進む感覚――それもまた、久蓮にとっては一興である。つまり――自然と速まりたがるペースを、努めて一定に抑えなければならなかった。
久蓮が現在走っているのは、面積日本一を誇るここ極北大の構内を南北に走るメインストリート、通称"メンスト"。流れる景色には、多くの人々が行き交っている。
ぐしゃぐしゃと、その冷たさをものともせずに雪を踏みしめる久蓮は、さながら吹き抜ける一陣の風であった。
「!」
――――これは、ノリちゃんファインプレー?
内心で、三年間ずっと隣で支えてくれていた、あの仏頂面の同期を称賛した。いつの間にか、走る久蓮を追う二つの気配があったからだ。彼等は息を弾ませながら――いや、息を切らしているのは一人だけだった――徐々に近付き、やがて久蓮に追いついた。
「ま、まって、くだ、」
「どしたの?」
息を切らしながらも、気配の主の片方は、久蓮に声をかけた。そのことに驚きを感じつつも、足を止め、久蓮は振り返った。ゼイゼイと、荒い呼吸を必死に整えようとしている青年を待ちつつ、もう一人に視線を移す。
ぱち。大きな切れ長の瞳と目が合って、久蓮は思わず言葉を失って瞳を瞬かせた。
――――まさか。
自身の目を信じられなくなる、この感覚。久しく味わっていないものだ――なんと、そこに立っていたのは、如月蒼だったのだ。
如月蒼――それは、昨年度のインハイ五千メートル覇者の名前だ。天性のスピードを活かした力強い走りで界隈を賑わせた、都大路の王者・銘華大付属のエースだった青年。あの大会で記録した、五千メートルのベストは十三分四十二秒だ。すなわち、箱根常連の強豪大学たちがこぞって欲しがる、逸材中の逸材。
それが、何故こんなところにいるのか。
「君は結構慣れてるね」
「ええ、まあ……」
敢えて、蒼を認知していることをぼかした問いかけ。――今の彼には、それが、必要だと感じたから。
ゼイゼイと肩で息をするもう一人の青年とは異なり、蒼は既に息を整えてじっとこちらを見つめている。察するに、青年に連れられて久蓮を追いかけることになったのだろうが――。
――――まあ、予想は着く、よねぇ。
どうして、ここに蒼がいるのか、その理由は――。
そんなことをぼんやり考えている久蓮を、蒼はじっと見つめていた。久蓮の事を知っていて、その存在に驚いている――そんな風ではなく、ただこちらを窺うようなその視線に、久蓮は首を傾げた。警戒心一杯のその視線。その意味に、気付いていないとアピールをするために――。
「あの!」
今の間に復活した青年が、声を上げた。その勢いに、久蓮は青年の方へと視線を移した。
「ん」
「カッコイイ! カッコよくて、つい」
追いかけてしまったのだと、青年はそう言った。唐突に示された、その真っ直ぐな好意に、久蓮は一瞬目を丸くした後、笑い出した。
走りを見るに、球技系――恐らく、サッカーの経験者であろう、その青年。それなのに、おれもあんな風に走りたい、と言い募る彼に、久蓮は微笑んで言った。
「じゃ、良ければオレの部活に来るか?」
*
練習後に訪れた、大学周辺の中華料理屋にて。
「へえ、君はサッカーしてたのか。じゃ、大学でもやるの?」
久蓮は範昭、蒼、そして青年――桃谷翔太の三人と共に、やや遅めの昼食を摂っていた。
翔太は、久蓮の走りを甚く気に入ってくれたらしく、キラキラとした表情で、久蓮の事を訊いてきた。いつから走っているのか、走るのは好きか、等々――。そんな流れで訊ねた、翔太の来歴。曰く、元サッカー部、と。
「おれ、走りたいです!」
「入部してくれるのか? それは大歓迎だよ」
それに対して、問えば、予想以上に輝く笑顔で、翔太は勢いよく答えた。久蓮は微笑む。嬉しくないハズがないのだ。今日初めて会った、陸上初心者のこの青年が、久蓮のように走りたい、と言ってくれるのだから。
それはまるで、あの遠い日に、深松誠司の走りを目にした、自分のように。きらきらと輝く瞳で――。
「あ」
少なめの炒飯をゆっくりと咀嚼しながら、久蓮は瞠目して動きを止めた。極大生御用達の店内に広がっている独特の喧騒は、小さく零れた久蓮の声を簡単に掻き消してしまったようだ。
――――て、か。よく考えたら……知ってんじゃん! オレ、この子のコト。
"桃谷翔太"――集合の場で青年が名乗ったその音。そこに感じた聞き覚えは、まさか。
それは、昨年度までのサッカーU-18の日本代表FWだった選手の名前だった。そして、久蓮は見たことがあるのだ。点けっぱなしで流していた試合の中継――得点王に輝いた試合後のインタビューで、キラキラと輝く笑顔を向けている、翔太の顔を。
――――や、流石に想像できんでしょ。
いくら久蓮とはいえ、そう易々と結び付けられるものではないのだ。サッカー界で輝かしい成績を収め、界隈でその名を馳せている程の選手が、プロの路に進まずに全く異なる競技に挑戦しようとするなど。
もし、当時の翔太が辛そうな顔をしていたとすれば、――久蓮や蒼の例もあることだ――あるいは気付けたかもしれないが。画面中の翔太は、ただ流し見ていただけの久蓮にも解る程に、サッカーを好きでいたから――。
「――さん、久蓮さん!」
「……、と。ゴメン、ぼーっとしてた」
「おなか空いてないですか?」
「や、大丈夫」
ちょっと思考に沈んでしまっていたらしい。心配そうにこちらを覗き込む翔太に、苦笑を向ける。蒼の向こう側から、範昭の鋭い視線が飛んできた。常にはない様子を見せてしまったからか、探るようなその視線に、ゆるゆると首を振って誤魔化した。
範昭は、溜息ひとつ――こちらの遣り取りを尻目に、熱い拉麺と格闘している蒼との静かな会話を再開した。
――――頼むよ、ノリちゃん。
久蓮はこの食事中、敢えて蒼を翔太から遠ざけていた。
この状況に思うところがある様子の彼に、ひたすらに前向きな翔太は、諸刃の剣だ。無邪気な明るさとは、時に残酷なものだから。その点範昭は、その事情を察することはなくても、蒼を追い詰めることはしないだろう。現に、彼と話す蒼は、穏やかな表情を浮かべている。
「……てか、やっぱ多いわ」
元々、そう沢山食べる方ではない久蓮だ。中華というのは些かボリュームオーバーだ。――まあ、ここの店を選んだのは久蓮と範昭なのだが。
自身の皿に取り残されているあと三口程の炒飯を眺めながら、久蓮は小さく呟いた。
*
斯くして食事はお開きになり、それぞれが自宅の方角へと歩いていった。
――――"悪かったな。巻き込んで"。
去り際、範昭が蒼に投げかけたそんな言葉を耳にして、久蓮は口角を上げた。強く、風が吹き荒れた。予想外の出来事が重なった、今日だったけれど。
そう、きっとこれが、始まりなのだ。ここから、全てが、動き出す――。




