25.描く景色の先に(天恵7年6月上旬)
とぼとぼと歩くスピードは、カタツムリか何かのようだ。そんな下らない方向に思考を飛ばしてみたけれど、残念ながら効果は皆無だった。
「痛い……」
苦く吐き出した吐息は、少し熱を帯びていた。これは、良くない傾向だ。通りかかったタクシーに手を振り、久蓮は溜息を吐いた。
連れ立って原生林の小道を歩く間も、蒼はずっと久蓮の怪我の様子を気遣ってくれていた。心配をかけまいと必死に堪えて歩いたけれど、こうして別れた今、痛みも疲労も、もう限界なんて越えていた。
――――弱ったなぁ……今日はまだ、研究もしたいのに。
背負われたタクシーのシートに深く沈みこんで、久蓮は熱い溜息を吐いた。
*
「あー……」
目を開けた久蓮は、すっかり暗くなった窓の外に、ぼんやりと声を上げた。帰宅するやいなや、ソファーに倒れ込んでそのまま眠ってしまったらしい。身体の節々が痛いのは、ヘンな体勢だったせいだと思いたい。
泥のように重い眠りから覚めて、依然身体に残る重い疲労。けれども、先程よりも大分クリアになった思考に、久蓮はひとまず安堵の息を吐いた。
シャワーを浴びて、膝をぐるぐる巻きにアイシングした。今日はいつも以上に、入念にケアをしなければ。ストレッチを試みるもガチガチに固まった身体に、久蓮は愕然とした。流石にこのダメージは酷すぎる。
「なにか……食べないと……」
ぽつりと独り言ちてみるも、食欲はない。激しい運動で壊れた身体を回復させるには、タンパク質は必須なのだけれど。仕方がないので、プロテインを水に溶くことにした。すっきりしたアセロラ味――これなら飲めるだろう。
*
プロテインを飲んでケアを続けているうちに、ようやく何か食べられそうな気がしてきた。久蓮はさっと軽食を作ると、なんとか食べ切ってぐったりとテーブルに突っ伏した。
「さて……」
久蓮には、まだ仕事があった。健康優良児で規則正しい生活を送る彼は、もうすぐ眠ってしまうだろうから。ちょうど今頃――寝る支度を整えたであろうこのタイミングが、ベストだろうと思う。
携帯を操作すれば、すぐに耳許で響くコール音。そしてそれはすぐに途切れて、彼の声を久蓮の耳許へと届けた。
「元気か」
聞こえてきた彼――範昭の声が、どこか感嘆に揺れていたので、久蓮はほんの僅かに口角を上げた。予想通り、ちょうどよいタイミングだったようだ。
「うん。――ごめん」
「謝んな、そんなの」
「や、違くて」
範昭の問いに答えて、久蓮は不親切に短い謝罪を告げた。
即座に否定を返した範昭には、久蓮の謝罪は"心配をかけてごめん" の意味に聞こえたようだった。もちろん、それについての謝罪……そんな気持ちもある。けれど、久蓮にとって一番謝りたいことは――。
「知ってたんだ、オレ。キミがあの人に抱える不満も、不信も」
久蓮が範昭に本当に謝りたいと思っているのは、そもそも二人の衝突を招いてしまったことだ。範昭の思いを察していて、それでも久蓮はそれを放置した。まだ、大丈夫。そんなふうに、範昭に甘えていただけだ。
「……」
「ノリちゃん、言っても聞かないでしょ?」
落ちた沈黙。暗くなった雰囲気に、混ぜっ返すように久蓮はそう言ってみたけれど。どんなに言葉を並べたって、結局は久蓮と昴の事情なのだから。
久蓮と昴、二人の想いを行動で示すには、二人の状態がある程度整っていなければならない。それまでは、どうすることも出来なかった。久蓮は怪我で、昴は喘息で――それぞれブランクのある二人が、蒼含め部員たち皆が、納得する走りが出来るようになるまでは――。
「結局、きれいにはいかなかったけど」
けれども、結局タイムは十四分丁度という、二人にしては微妙なもの。それどころか、蒼の前で倒れるという大失態だ。情けないにも程がある。
そんなことを告げていると、範昭が、舌打ちを零した。呆れ混じりのそれに、久蓮は思わず首を傾げた。彼が納得できない理由が、久蓮の主張からズレているような気がして――。
「てめぇが止まってちゃ、全く意味がねえだろ」
「やだなー、ノリちゃん。たとえ一人が停滞しても、八人の進歩が望めるなら。――決まってんだろ?どっちがいいかなんてさ」
――――なんだ、そんなことか。
果たして、その違和感の理由は、すぐに明るみになった。どうやらこの優しい同期は、オレにまでその優しさを向けてくれているらしい。
久蓮はくすりと笑って、言葉を紡いだ。どうせ今回のことがなくとも、久蓮はこれからも停滞の危機に瀕することになるだろう。それに、ずっと恐れていることがいつ現実になるかも分からないのだ。遅かれ早かれこうなっていた――それなら、少しでも有効活用した方が良いに決まっている。
からりと笑った久蓮に、範昭は押し黙った。反論は、したいけれど――なんと言葉をかけて良いか判らない。でも、納得はしていない。そんな様子だ。
無言で言葉を探す範昭を、久蓮はただ静かに待った。この同期には、たくさんのことを明かしすぎてしまった気がする。だからこそ、無駄に気を遣わせてしまう上に、こうして悩ませてしまうことになっているのだ。それでも、範昭がいたから――。
「なぁ、久蓮」
「ん」
ふと調子を変えて掛けられた声に、久蓮はおや、と思いながらも続きを促した。
「俺は、このままお前を追いかけていいのかよ」
その言葉を聞いた久蓮は、苦笑を零した。――ホラ。今もこうして、悩ませてしまっている。範昭は、揺らいでいる。それは、恐らく、久蓮がこうして無茶ばかりするからだ。だからこの優しい同期は、久蓮の思う通りにさせて久蓮は大丈夫なのかと悩んでいるのだ。
「任せるよ、君の心に」
「……」
久蓮はただそれだけを、告げた。範昭の中で、もうとっくにその答えは出ているようだったから。それでも、告げた答えは本心だ。久蓮が、自身の目的ややり方を改めることは出来ないけれど。
「なあ、久蓮」
「ん」
「行こうぜ、全日。見せてくれんだろ? ――俺等の"夢の続き" ってやつをよ」
吹っ切れたような溜息に続いて、鼓膜を揺らしたそんな言葉。久蓮は思わず息を呑んで目を見開いた。
――――あ~、もう。ズルいよ、ノリちゃん。そんなだから、いつもオレはお前に甘えちゃうんだよ……。
範昭には思い悩ませてばかりだけれど。この同期が隣に立ってくれている――それだけで、どれほど救われているか分からない。いくら感謝しても足りないのだ。
「うん」
その言葉に引き摺られて、いつもの調子を取り戻した久蓮に、電波越しに届いた範昭の笑みの気配が揺れた。
*
扉が開いた気配を感じたのは、予想よりもいくらか遅れてのことだった。かちゃり、と無機質な音が響いて、人の気配が部屋に辿り着いた。久蓮はベッドの中で半身を起こし、ノートパソコンの画面から目を離さずに言った。
「……遅かったね?」
「そうか?」
来訪者――昴は、そんな久蓮を一瞥すると、呆れたように溜息を吐いた。言いたいことは解る。まだ仕事をしているのか……といったところだろう。
「忙しそうだな。休んでもバチは当たらないだろうに」
「でも、どうせ起きてると思ったから来たんでしょ」
「まあな」
先の記録会で倒れたとき、久蓮は、自身の部屋の合鍵を昴に渡していた。あんな姿を見せてしまえば、些細な無茶――今回が"些細な" に該当するかはさておき――の後は嫌が応にも心配をかけてしまうだろうから。そして、弱った久蓮を遠慮なく見せられるのは、このチームで唯一の先輩――久蓮の事情をよく知る彼だけだ。そんな、甘え。なにか劇的な事態が起こった――なんてことがなければ、昴が家に訪ねて来るかどうかは、なんとなく予想がつく。
そうでなくても、昴と過ごす静かな時間は、昔から久蓮のお気に入りだった。あんな事情がなければ、学生時代もずっと続いていたであろう、日常だ。
ぼんやりと思考をしながら作業を続けていると、昴はこちらに近付いてきて、久蓮の額に手を当てた。
――――あ、気持ちいい……。
昴の低い体温が心地よく、久蓮は思わず目を細めた。そんな久蓮に、昴は溜息を吐いている。これは、熱が上がってきていることがバレてしまったな。思考はまたもぼんやりと宙を舞う。
「薬は飲んだのか?」
「要らない。こんくらいなら、明日には元通りだよ」
いくらか強がりが入ってしまったけれど、この間と比べたら、今日のこれはマシな方だ。今は少し辛いけれど、アイシングもきっちりやっていることだ。明日には元通り――になっていて欲しい。
「それよりさ」
ぽつりと、久蓮は呟いた。
「ワーズワースとか。解るの大介くらいじゃん」
「伝わったようでよかったよ」
「……」
あの三文芝居の時から、ずっと言いたかったこと。そのチョイスの意図は、とっくに察していたけれど。言葉をかけた途端ににやりと笑う昴に、久蓮はちらりと視線を流してすぐに反らした。
なんとも複雑な気持ちだ。昴は、皆に伝える言葉の中で、久蓮にだけ伝わるように、あの詩を選んだ。"俺は大丈夫だ。希望を捨てていない" 、と。
「……、……楽しかった」
「――っ、」
悔し紛れ、照れ隠し。そうして視線を反らしたまま、久蓮はぽつりと本音を零した。
悔しいけれど、敵わない。結局は、久蓮もあの勝負を心から楽しんで、そして勇気付けられ、背中を押されたのだ。頭脳だったら負けていない筈なのに、それでも先輩の背中は、どうしてこんなにも大きいのか。
「……さて。僕も少し、仕事していきますかねぇ」
「なんでよ。さっきまで寝かせる気満々だったでしょ」
「だってまだ、寝ないでしょう?」
「……ぅ」
瞬間、素で瞠目していた昴は、けれどもすぐにいつもの物腰に戻って、そんなことを嘯いた。混ぜっ返した久蓮は、すぐに図星を突かれて言葉に詰まる。
それきり落ちた静寂。お互いのタイプ音だけが響く室内に、久蓮はただ浸った。




