24.タネ明かし(天恵7年6月上旬)
沈黙のまま、座り込むこと五分。範昭が膝に巻き付けてくれた氷が完全に溶けて、その役割を終えた。いつまでもこうしていても仕方がない。風邪をひくだけだ。
久蓮は自分を叱咤して、緩慢な動きでなんとか立ち上がった。
「さて……ダウンすっかな」
「僕も一緒にいいです?」
「いいけど、……死ぬ程遅いよ?」
二人が帰っても、ずっと久蓮に寄り添っていた蒼は、そんなことを言い出した。その言葉が意外過ぎて、久蓮はきょとんと首を傾げた。一緒に走ってくれるのは別に構わないのだけれど。今の久蓮は普通のジョグすらもおぼつかない。
結局、それでもいいと言った蒼を連れて、久蓮はダウンジョグを始めた。
「っ、は、――っ」
ペースは一キロ六分十五秒、といったところか。普段を考えると、非常にゆっくりなこのペースでさえ、久蓮の息は情けなく上がる。酷いダメージだ。隣を走る蒼は、珍しいペースに新鮮さを感じているのだろうか。久蓮の様子を窺いながらも、自分のフォームを確認しているようだ。まあ、退屈でないのなら、なんでも良いのだけれど。
「脚、大丈夫なんですか?」
「やー。取り敢えず、走れなくはない、かな」
ぽつりと問われた言葉に、久蓮は軽く誤魔化し笑いをした。正直、膝は痛い。けれど、これはもうどうしようもないことだ。それでも、走りやめるわけにはいかないのだから。走れなくはない――その言葉に、嘘はない。アイシングの甲斐もあり、今は、痛みは少しだけ遠い。このくらいのペースであれば、フォームを崩すことはないだろう。
「……気付けませんでした」
「ははっ。……ホントは今日も、隠し通すつもりだったんだケド」
顔を雲らせる蒼に、久蓮は苦笑を零した。
蒼が久蓮の怪我に気付けないのは、仕方がないことだ。気付けないように、必死に隠してきたのだから。それでもずっと固い表情を崩さない蒼を横目で見やり、久蓮は首を傾げた。
――――あれ。全然納得してないやね。
とりあえず、無言のまま走り続けること暫く。ようやく少しダウンの効果を得られたと感じた久蓮は足を止めた。これ以上は、身体がもちそうにない。そんな自分の状態にもう一度内心で自嘲を零して、久蓮は、先程の続きをぽつりと呟いた。
「これは走りに限らずなんだけど――オレは、他人よりちょっと意思の力が先行するみたいでさ」
「?」
こちらを振り返り、視線で続きを促した蒼に、久蓮はさらに言葉を続けた。久蓮としては、先ほどの続きのつもりだが、蒼にとっては唐突な話題に感じられたようだ。頭にの上にたくさんの疑問符が浮いている。
「わり、解りにくいな。例えば、負けたくないって思った時に、本当の限界より一歩でも先に行けるようなものかな」
「!!」
蒼の様子に、久蓮は苦笑して言葉を加えた。途端にはっとした様子を見せた蒼は、恐らく、"それって、かなり凄いことじゃないか? " などと思考している。
――――や。そんなに、イイもんじゃないんだよね……。
なまじこんな力があるから、今もこうして走りに拘り続けているのかもしれないのだ。勝てるから――どんなに苦しくとも、勝ててしまうから――。
あまりの虚しさに、久蓮は目を細めた。
*
「ダウンはおしまい」
そんなことを呟いて、久蓮は蒼と並んでサークル棟へと歩を進めた。最早、外は暗くなってしまっている。それでも、まだ人気のあるサークル棟は、まるで二人を呼び込むかのように明るかった。
「……ホントはオレも限界だったよ。千メートル」
「え」
何を言い出すのかと目を瞠り、母音を零す事しか出来ないでいる蒼をちらりと見て、久蓮は苦笑を零して言葉を続けた。告げるのは、失望されそうですらある、久蓮の真実だ。
「脚もそうだけど、余裕もあんまなかった。……それこそ空中分解しないように、必死にフォームを思い出してたんだぜ」
「……そうは……見えませんでした」
もう、当然のように痛みを主張する膝も、その痛みが酷すぎての頭痛も。何年もずっと付き合っているそれは、苦しいけれど、想定の範囲内だ。けれど、如実に現れている質不足の練習のツケは、厄介だった。ベストの力でも、かなり無理のあるペースで飛び込んだ、千メートル、一本目。あれで既に、久蓮は限界だった。
蒼は否定してくれたけれど、それはただ、隠していただけだ。
「駆け引きなんて、騙してなんぼ、でしょ」
久蓮はからからと笑った。
それでも、蒼は違和感を覚えた。それくらい、久蓮の我慢にボロが出ていたということだ。そして、初めからそんなダメージを感じたということは、どういうことか――蒼は気付いただろう。
「五千、も……?」
「や、五千は尚悪いね。正に、"共倒れ"」
やはり、気付いている。いかにも肯定して欲しくないという風に、恐る恐るかけられた問いを、久蓮はあっさりと覆した。蒼は酷く混乱しているが、つまりはそれだけあのレースを評価してくれているということだ。ありがたいことに。
どさり、と。用意したストレッチマットに倒れ込み、久蓮はだらりと伸ばした腕に顔を埋めて横向きに横たわった。まだまだ消耗状態を脱することが出来ない。まだ軽く続いている目眩に辟易する。
「やっべ、このまま寝ちゃいたい……」
すっと額に伸ばされた手に、久蓮は僅かに瞠目した。その手は、久蓮の体温を確認して離れていった。まだ暫くは、それほど上がらないハズだ。そして、蒼にそんな入れ知恵をしたのは当然――。
「昴サンか」
僅かに瞳だけで、久蓮は蒼を射抜いた。無言の首肯――やはりか。あの先輩にも、酷く心配をかけてしまったらしかった。奥に氷を取りに行ってくれている蒼の背を見送って、久蓮は溜息を吐いた。
*
「さんきゅ」
「どうして……久蓮さんは、そんなに強いんですか……」
戻ってきた蒼が、氷を取り替えてくれた。礼を告げた久蓮に蒼はぽつりとそんな問いを零した。その言葉に、久蓮は瞬間僅かに瞠目し、そして眉を下げた。
「……内緒」
「――?」
微笑って、一言。蒼はぱちりと瞬きをして、首を傾げている。寂しさかなにかが見咎められてしまったか。でも、そんな良いものではないのだ。強い、などと評してもらえるようなことは、何もない。
ややして、久蓮は鞄からノートパソコンを取り出し、先程の記録をそこへ入力し始めた。首を傾げていた蒼に数字を伴って、"共倒れ" と言った訳を説明するつもりなのだ。先程の五千メートルを、二百メートル毎の数字に対応してグラフ化する。
「序盤から中盤はちょっと手加減され気味だったね。……ただ、昴サン自身も五千トータルで走るにはあれが限界だったんだろうけど」
とんとん。画面を軽く叩きながら、久蓮は言葉を紡いだ。示した箇所には、極大で見れば速いだろうが、久蓮としてはここで満足など出来ない数字が並んでいる。
「後半付近ペースダウン気味だったのは、酸欠の昴サンが落ちてたからだけど、オレはそこで離す余裕なかったワケで」
へこんだ軌跡を示しながら、久蓮は言葉を続けた。
それでも、そんなに酷いだろうか、と首を傾げている蒼に、久蓮は三つの記録を打ち込み始めた。一つは、六年前のあのレース。もう一つは、昴が自己ベストをマークした昨年のレースのラップ。そして最後に、先日の記録会の蒼の記録だ。どれも、一切薄れることなくこの頭に残っている。
「……ね?」
画面上に輝いた四本の軌跡が示す事実に、久蓮は苦笑した。今日のように酷くへこんだままのレースは、一つもない。自分達の理想と比べると、今日のレースは落第だ。
「偉そうなこと言っといて恥ずかしいケド、トータルゼロ点のレースだったワケ。――今のオレ等にはお誂え向きだったかもね」
からからと笑うも虚しい。淋しそうに眉を寄せている蒼に、ことりと首を傾げて問いかける。
「タネ明かし。――ゲンメツした?」
「まさか」
そうすれば、予想の間髪入れずの否定。久蓮はただ笑った。優しいことだ。それとも、こんな姿でもまだこの後輩には、自分達は輝いて見えているのだろうか?
でも、だめだ。そんなことでは。今の久蓮や昴を目標にしているようでは、その先なんて、存在しない。理想は高く持たなければ。蒼には、それだけの力があるのだから。
「でも、これで解ったろ? オレ達は完璧なんかじゃない。お前のすることは、オレに追い付くことじゃない。オレを叩きのめすことだ。――完膚なきまでにな」
好戦的な笑み。その奥に青い焦熱を燻り揺らめかせ、久蓮は挑発の言葉を紡いだ。蒼はただただこちらに視線を釘付けて、僅かに眉を寄せている。その思うところは、"ずるい。そんなこと言われたら、目指さずには居られない" ――だろうか?
――――そ。それでいいの。後悔は、させないから。
久蓮の事情とそれとは、全く関係ない。蒼がこの極北の地で見出した確かな希望を、幻に終わらせる気など、毛頭ないのだ。それは、帝北との勝負なんて関係なく、蒼ともまた、いつか最高の勝負が出来るのではないかという確かな期待だ。
この先、蒼がいくら高みに上ったとしても、負けてやる気はないのだけれど。そのくらいの勢いでいてくれなければ面白くない。久蓮のものと近しい高温を揺らめかせている蒼を見て、久蓮は口角を上げた。




