23.画竜点睛、そして(天恵7年6月上旬)
誰もが声を発することが出来ない、そんな静寂の幕切れ。気力が途切れたのだろう、支える力を失った昴が、膝から崩れ落ちた音がした。
「っ、は……」
「昴……さん……?」
「はっ、ぜ、ぜい……ひゅー、ぜい、」
なんとか呼吸を抑えようとする昴の努力は、きっと全く意味をなしていないだろう。真平の何処か慌てたような声が、遠くに聞こえた。皆に気取られたことで観念したのだろうか。やがて昴は、不調を隠すことなく、ただ呼吸することに専念し始めた。耳を打つのは、荒い、と言うよりも最早異常な域にある、呼吸音――喘鳴。
「……ノリ、ちゃん」
「あぁ。……鞄か?」
苦しかった。発作を起こしている昴に負けず劣らず、酷く荒れた呼吸を繰り返すも、霞んだ脳はさらに酸素を要求してくる。自分では、とても動けない。だから、範昭に。そう思うも、昴への助け舟――事情を知る範昭に、声一つかけるだけで、酷く時間を要した。己の呼びかけに応じた範昭の気配が遠くなるのを、久蓮はただそこに佇んだままで感じていた。
耳鳴りが酷い。ただそこに立っているだけで、膝が酷く熱を持って自己主張を続けている。苦しい呼吸が収まらない。酸欠か貧血か、視界が酷く暗かった。久蓮は俯いて、皆に不調を気取られないように必死だった。最早、ムダなあがきかもしれないけれど。
*
やがて。ぱしゅ、と吸入薬を施用する音が響いた。徐々に、昴の様子が常のものに戻っていくのを、頭の片隅で感じる。そろそろ、話を進めるべきだ。久蓮はもう限界だ。早く話を進めないと――。――声がちゃんと出るか、わからないけど。
「……判った? これが、……このヒトが、極北にいる……理由。そして、……こんな体でも、ここで、走る……理由は――」
未だ収まらない、荒い呼吸そのままに久蓮は話し始めた。途切れ途切れの言葉だけれど、皆が聞き返さないということは、届いているということだろう。
ゴールしたその場に立ち竦み、俯いたまま。酷く無様な己に、久蓮は内心で自嘲の笑みを零した。声は、いつもの自分からすると、かなり低く抑えられていることだろう。仕方がない。そうしなければ、もう声も出せない。久蓮はそこで言葉を切った。ここから先は、昴が自分で告げるべきだ。促す視線を、昴に向けた。
「……っ、」
俯いていた視線を、目の前に座り込んでいる昴へとずらすだけ。そんな些細な動作をしただけで、久蓮の視界は大きく揺れた。
酷い眩暈。唐突に暗さを増した視界に、意識が落ちそうになった久蓮は、きつく拳を握り締めて耐えた。ぐらぐらと回る視界は、収まらない。これはちょっと、本格的にヤバかった。
――――"おいおい。耐えろよ、あと少しだ" 。
――――分かってる……!
こちらを見上げてそんな目配せを寄越した昴に、意地だけで反応を返す。昴の言う通りだ。ここで倒れたら、全てが水の泡だ。皆をただ不安にさせるだけ。不調の昴を巻き込んで、そんな結末は許されないのだ。
「それでも、走りたかった。……諦め切れなかった――それだけです」
「皆がテレビで見た姿とは、……違うかな? ……けど、今、見たろ?このヒトの事情と、……実力。――まだまだ、こんなもんじゃ……ないぜ」
「簡単にハードルを上げてくれるな」
渾身の力を振り絞って、久蓮はにやりといつもの笑みを浮かべた。久蓮の言葉に、昴が苦笑するのが遠くに聞こえた。この程度で終わるつもりは毛頭ないくせに。そんな昴の想いも伝わったのだろうか。この場に流れる空気が、期待に満ちたものになったのを感じ、久蓮は今日のレースの成功を確信した。
「それじゃ、……今度こそ、解散。長くなって悪かった……。皆、……お疲れサマ」
「お疲れ様です!」
「すごかったですよ!!」
その場で解散を告げれば、皆はそんな言葉を残して帰途に付いていく。そんな気配を、久蓮はただ俯いたまま感じていた。
もう一歩も動き出せない。その場に佇んだまま。滝のように滴る汗も、荒いまま戻らない息遣いも――情けないことに吐き気さえ感じるこの眩暈も。せめて皆には見せたくない。皆が帰るまでは、なん、とか――。
「く、久蓮さん……?」
「――あ、」
蒼の不安そうな呼びかけが、耳鳴りの合間、鼓膜を揺らした。肩に手を置かれる感覚と同時に、膝から力が抜けた。人の気配が捌けたからこその油断。酷く焦った声が漏れた。あと少しだったのに、この身体は最後の最後で、耐えられなかったということだ。
ぐらり。支えを失くして、久蓮の身体は傾いていく。久蓮は、それを止めることが出来なかった。ただ重力に引かれるままに、崩れ落ちていく。一層酷い耳鳴りに、顔を顰めると同時に、久蓮の視界は闇に染まった――。
*
意識が浮上して、久蓮は瞼を上げた。自身の状態があまり変わっていないところをみるに、久蓮が気を失っていたのはほんの一瞬なのだろう。
ふわりと、柔らかい地面の感覚。柔らかい――?
――――蒼!?
「わり、蒼。怪我ない?」
ぼやけていた視界がクリアになり、いつもよりも近い蒼のジャージが視界一杯に広がっていることに気付いた久蓮は息を呑んだ。どうやら自分は、蒼を下敷きに倒れてしまったようだ。
かけた問いに蒼が勢いよく首肯するのを見て、久蓮は安堵の溜息を零した。よかった。こんなことで怪我などさせたら、本当に目も当てられない。
「やっちゃった……。久々だこの感覚」
「全く……無茶し過ぎだ」
「アンタに言われたくないんだけど」
脚の痛みではなく、高すぎる質のせいで限界を踏み越えて倒れる羽目になったのは、高校一年生以来だ。初心者上がりだった当初は、それでも必要な"勝利" に、そんな無茶も茶飯事だった。練習を積むことで、そんな失態とは無縁になっていたけれど――三年間のブランクがどれだけ大きいか。それを突きつけられる事実に、久蓮はがっくりと呟いた。
その仕草は、いつもよりかなりオーバーだ。酷く不安そうな蒼を安心させたくて、だ。そんな意図に、昴も気付いている。やれやれ、と呆れるとの姿は、どこか芝居がかっている。蒼の肩の力が抜けたのを確認して、久蓮もまた、安堵した。
「結局、共倒れじゃん」
「……皆に見せる目論みは成功したんだから、まあ、良いだろう」
「それもそうね」
唇を尖らせて抗議した久蓮の言葉に、昴が苦笑を零した。そのまま淡々と言葉を交わしつつ、久蓮は昴の様子を観察した。青白かった顔色もすっかり落ち着き、既に全くいつも通りの彼だ。未だ鳴り止まない耳鳴りに頭痛、滴り止まらない汗――そんな自分とは大違いだ。
そんなことを考えていると、小さな足音が近付いてきた。グラウンド脇の草を踏み、現れたのは、範昭だ。手には、氷。憮然とした表情は、きっと久蓮に言いたいことがたくさんあるのだろう。久蓮がサークル棟まで戻れないと踏んで、解散と共に氷を取りに行ってくれたのだ、この同期は。久蓮は苦笑を零した。
――――敵わないなぁ、本当に。
「さんきゅ」
ぽつりと礼を告げた久蓮を、範昭はちらりと見遣った。久蓮の左膝に氷を巻き付けていくその手際は良い。そうさせているのは自分だが。身体のダメージがキツすぎる。久蓮は、範昭にされるがまま、その作業をぼんやりと眺めていた。
「けが……」
「……正解」
はっとしたような蒼の呟きが鼓膜を揺らし、久蓮は反射で肯定を返した。こんな姿を見せて、いまさら誤魔化しもクソもないだろう。
久蓮の言葉に、弾かれたようにこちらを見た蒼の視線が頬を灼く。ゆるゆると顔を上げ、その視線を正面から受けると、久蓮は口を開いた。
「……これが、オレが練習でも走らなかった理由。……これでも、治ってきたのよ。でも、ここんとこ、一気に質を上げすぎた」
言い訳じみた言葉に、苦笑を零す。記録会での、蒼との対決。そして、今日の三本のレース。そもそも、これだけのタイムを叩き出すためには、今年の春までの練習では全く足りなかったのだから、レースの為に急ピッチで練習の質を上げたことも、脚を思えばよくなかっただろう。
そんな言葉に、蒼が目を見開いて固まっている。
「あー、これは単なる練習不足」
蒼が慌てて腰を浮かしかけたので、久蓮は慌てて言葉を続けた。ここまでバレたのなら、最早隠す意味はない。そう思って、今尚続く酷い不調を隠すことを止めたのだけれど。上半身を支える腕も、笑みを形取る唇も、不自然なほどに震えている。そんな、酷く消耗した己の姿は、蒼に不安を与えてしまったらしかった。
この消耗は、直接は怪我とは関係ない――要するに、今の実力よりも余程ハイペースなレースを――しかも二回も――してしまったが為に、身体が限界を超えているだけだ。それでも、一度緩めてしまった我慢を、引き締め直す気力はもうない。
「――で?」
「ん?」
それまで無言を貫いていた範昭が、憮然と短い問いを発した。きっと、ずっと気になっていたであろう、その問い。けれど久蓮は素直になれず、きょとりと目を丸くして問い返した。久蓮がその短い問いの真意に気付いていることを、範昭は判っているだろうけれど。
「っはー……分かってんだろが。後輩にまでこんな弱み見せて……なに企んでる」
「やー、買い被りっしょ。……でも、そうね」
案の定。範昭は、舌打ち一つ、お前らしくもねぇ、と呟いた。自身の顔を片手で覆いながら、範昭は溜息を吐いて続ける。最後の言葉は、久蓮を睨みつけるように鋭い視線で告げられた。
これは、もしかしなくても……大分疑われている。流石に見せる気無かったんだけど、と久蓮は苦笑を零した。出来れば、こんな無様な姿は、蒼には見せたくなかった。ようやく、走ることへの希望を見出して、これから高みへの道を駆け上がっていくはずの、蒼には。これは、ただ久蓮が耐えられなかった――失態だ。けれど、起こってしまったことは、仕方がない。蒼ならば、久蓮の怪我など気にせず、力をつけていってくれるはずだ。
久蓮は苦笑の雰囲気をふっと消し去って、静かに言葉を続けた。
「蒼。帝北に、勝てるビジョンは見えてきたかな?」
「っ、はい」
「それなら、走った甲斐がある」
一切の迷いなく蒼が頷いたので、久蓮はにっこりと微笑んだ。よかった。タイムこそ十四分ジャストと、昴との勝負としては物足りないものだろうけれど。それこそが、今日のレースの目的なのだから。
と、なれば。あと必要なのは、これからの話だ。都合が良いことに、ここには、久蓮の事情を知る範昭と昴もいる。絶妙のタイミングだろう。
「で、これからなんだけどさ。蒼と昴サンで、そのビジョンを皆に見せ続けて欲しいワケ。見ての通り、また暫くはオレ、あんまり走れないからさ。――二人で高め合ってよ」
蒼と昴の顔を交互に見ながら、そんな言葉を紡いだ。
今の久蓮の膝――その状態は、暫くは、今まで通りのペースメーカーすらもできない程だろう。二週間後の週末には、クロカン合宿も予定しているが、ゆっくりとジョグをするのがせいぜいだ。けれど、時間は過ぎていく。こんな状態の久蓮なしでも、チームにはレベルアップしてもらわなければ。
「特に昴サン。――アンタ、今日のオレに勝ちきれないとか、全っ然、足りない」
「面目ない」
「ノリちゃんも、フォローお願い。勿論、レベルアップも、ね」
「……おう」
「ヨロシク」
昴には、厳しい言葉を。期待しろよ、なんて言ったからには、見合う力を見せてもらわなければ。元より、昴はそのつもりだろう。範昭は、レベルアップ、のところで若干身を竦めている。三年間、幾度となく出してきた鬼メニューの記憶が、脳裏を過ったのだろう。その反応に、久蓮はにっと笑ってみせた。――そして、俯いて、呟いた。
「……ごめん、さんきゅ」
「馬鹿が」
「気にするな」
この一言こそが、心から零れた本音だ。こうして弱気が巣食うのも、最早いつものことだ。範昭と昴が即座に突っ込みを入れてくるが、気にしないわけにはいかないだろう。こんなもの、全てが久蓮のエゴなのだから。
「ちゃんとダウンしていけよ」
そんな言葉を残して、範昭と昴は帰途についた。そんな背を見送り、久蓮はひっそりと溜息を吐いた。




