22.変わらぬ二人(天恵7年6月上旬)
久蓮も昴も、さっとジャージを羽織っただけ。そんな短時間で、久蓮は終わりの集合を始めた。走り終えたばかりで疲れている翔太には悪いが、早く事を進めないと、無様に倒れてしまいそうだ。さっさと進めよう。
――――さて。三文芝居の始まりだ――。
*
「さて、皆、お疲れ様。今日はこれで解散なんだけど。――何かお話があるんだったよね? ノリちゃん」
「あ、ああ」
努めて威圧感を乗せて、久蓮は笑んだ。ともすれば、酷く芝居がかっているその仕草は、それでも皆には効果があったようだ。緊張感のある、張り詰めた静けさが、辺りに漂った。皆が、久蓮と範昭の出方を窺っているのが伝わってくる。やがて、久蓮の放つ圧に気圧された様子で、範昭が言葉を紡いだ。
「皆、この間は悪かった。昴さんも。……何も知らずに、勝手なことを言った」
「いえ、良いんです。そう思われても仕方ない態度でしたから」
そう言って謝罪する範昭は、元来優しい性格なのだ。皆を不安にさせてしまったこと、大して事情も知らないのに、昴に怒りをぶつけてしまったこと。そんなこと、範昭が気に病むことはないのに。悪いのは全部、――久蓮、なのだから。
それでも、今日はこれで収めてはいけないから。だから、昴は滔々と言葉を並べている。その意味するところは――来い、久蓮 ……だろう。
――――いいよ。そのケンカ、買ってやる。
「何も言わないままに、ここまで来てしまった。僕はもう、青谷にいた頃とは違うのです。あの頃は『夢のような栄光と瑞々しさに包まれていた』。けれど――」
「笑わせんなよ」
――――まーた、そんなマニアックな……。
ここにいる誰が、昴の言葉の出典に気が付くだろうか。それは、久蓮にのみ向けた、メッセージだ。久蓮は内心で溜息を吐いて、自分の事情を淡々と語り出そうとしていた昴の言葉を鋭く遮った。打ち合わせはしていない――要らない。目指す着地点はただ一つなのだから。
久蓮の鋭い口調に、昴がほんの僅かに口角を上げた。きっと他の誰にも気付かれないくらいには、僅かな変化だ。だが、なるほど――久蓮の返しは、彼のお眼鏡に適ったらしい。
「久蓮!」
「――ウチの副主将を不安にさせてくれちゃってまあ」
久蓮のあまりの当たりの強さに驚いたのか、範昭が悲鳴のような声を上げた。慌てて止めようとする範昭は、自分のせいで昴が謗りを受けるのは忍びない、と――そう考えているのだろうが――。
そんな範昭を、久蓮は片手で制した。気持ちは解る。でも、邪魔してくれるな。そんな明確な意思を持って、久蓮は凄みを含んで笑んだ。
「"期待しろよ" 。オレにそう言ったのはアンタだろ。――それに」
「……」
「ワーズワース、ね。『嘗て眩く煌めいた輝きが最早私の前から永遠に消え失せたとしても、それが何であろう。嘗ては、草は輝き、花は栄光に満ちていた。それが再び還らずとも、嘆くことはない。我々は、残されたものに力を見出だそう』――知ってて言ってんだろ? これは希望の詩だ」
ばちり。
ぴんと張りつめた静寂の中、昴と二人、鋭い視線を交わした。時間にして数瞬、皆が固唾を呑んで見守る中、昴が久蓮に瞳で問いかける。
――――"どうだ?" 。
――――……上出来。
「……敵わないな、全く……」
ふ、と苦笑して、昴は零した。その反応に、久蓮は微笑む。当然だ。何のために、こんな三文芝居をしたと思っているのか。
ともかく、これまでのやり取りで、昴と久蓮が求めるだけの効果は充分あっただろうから。そろそろ、こんな芝居は終わりにしなければ。久蓮は皆へと向き直って、口を開いた。
「今のこのヒトのこと、知りたい奴は残ってきな。ここからは、エクストラ・ステージだ。――薬は、持ってきてんだよね?」
「ああ」
――――さあ。今日最後の勝負所だ。昴サンにとっても――オレにとっても。
*
僅かな準備時間の後、トラックの周りは再び部員たちで賑わっていた。知りたい奴は――だなんて、ワンクッションを置いたけれど。皆が皆、欠けることなく残ったようだ。
当然か。客観的にみて、気にならないハズがない。四年間、箱根駅伝の"王者"青谷学院大学の頂点――そして、学生陸上界の頂点に君臨してきたこの青年が、この地で初めてその実力を見せるのだ。
それでいい。まさにその為に、オレ達はこの舞台を用意したわけだ。じりじりと膝に居座って、思考に割り込む痛みも、疲労も。もう関係ない。
「まさか、また、こうして並び立つことになるとはな」
「思いもしなかったって?」
「全て、捨ててきた気でいたからな」
「現実が全てでしょ」
いつもの軽快なテンポで、会話を進める。万感の思いを込めて呟かれた言葉に、久蓮は棘を孕んだ言葉を返す。
あのとき、久蓮を掬い上げる約束をくれた昴。不可抗力だったであろうに、"待つ" という約束を違えようとしていたことに、彼は罪悪感を抱いている。そんなもの、要らないのに。
充分だ。あの日の久蓮を、繋ぎ止めてくれただけで。それなのに、昴はもう一度、同じ舞台に立つことを決めてくれたのだ。そんなこの先輩に、感謝しないはずがない。だからこそ――。
「お互い貴重な一回、でしょ? ――本気で来いよ」
「……俺の台詞だ」
久蓮は挑発的ににやりと笑った。皆に、自分たちの実力を見せつける――けれど本当は、このレースへの思惑をさえも遠く。これからの十数分にただただ期待をしている――それだけだ。きっと、昴も。今日はまだ、あの約束が叶う日ではないけれど。昴と共に本気のレースを走る機会など、今後もう何度も訪れはしない。だから――。
交錯する視線に、あの日の焦熱が宿る。
「「さあ、行こうか」」
口角を吊り上げ、口を開く。二人分の音が空気を揺らした。強く吹き抜けた風が、始まりの時を告げていた。
次の瞬間、どちらからともなく、地を蹴って駆け出した。
久蓮はインコースに飛び出して、レースのペースを作った。昴はその真横にぴったりとつけている。ちらりと視線を遣れば、視線が絡む――あの日そのままに熱く燃え滾る興奮と歓びの色が揺れる、その瞳。ギラギラと熱い、光が交錯する。迸るのは、青銀と赤金の絡み合う焔。
――――変わんないねぇ、お互いに。……結局オレたちは四年前から、変わらない――変われないのだ。
久蓮は小さく苦笑を零した。
昴を振り落とそうとする荒いペースの乱高下。アウトコースの昴はしかし、ぴったりとついて離れない。早くも乱れる呼吸の下、久蓮の口角が上がった。当然だ。こんな程度の揺さぶりで、昴がどうにかなるハズはない。あっという間の一キロ、二分四十秒――。
「そんなモンなの? ――"最強" ってのは」
「舐めるなよ、久蓮。お前こそ、"帝王" の名が泣くぞ」
後先考えず――そんな、果敢な攻め。メニューの後だというのは、関係ないことだった。少しでも気を緩めれば、一気に勝負をつけられてしまう。それでも久蓮は、挑発的に言葉をかけた。ちらりと視界の端に映った部員たちは、息を呑んで此方を見据えていた。
――――でも、まだだ。まだ、足りないだろ――?
アウトコース側から、昴が抜きにかかり、さっと先頭が入れ替わる。久蓮は口角を上げ、離されることなくぴたりと斜め後ろをキープする。
抜き、抜かれ、また抜いて。二人ともが、お互いを引き離そうとする、本気の駆け引き。そこに一切の手抜きはない。出し惜しみなど、勿体無いことが出来よう筈もない――お互いが、この瞬間を心の底から楽しんでいるのだから。
*
乱れる呼吸は、最早どちらのものかは判らない。ペースは、じりじりと下降の一途を辿る。久蓮も昴も、万全ではない――あの頃とは違う、手負いの二人だ。一度気にし出せば止まらない。脳天まで突き抜ける膝の痛みは、一接地、一呼吸毎に久蓮の意識を揺さぶってくる。
ぱちり、と。横へと視線を投げれば、昴のそれと絡み合う。酷い酸欠なのだろう――真っ青な唇で、けれども昴はにやりと笑った。それでもこの"一瞬" に持てる全てを出すのだ。そんな意思を含んだ、揺らめく焔。
そうだろ、久蓮? ――そう、視線で問いかけられた。
「――当、然……!」
苦しい呼吸の下、途切れ途切れになってしまった返事だが、剥き出しの闘志だけは伝えることが出来ただろう。ちらりと犬歯を覗かせる、かつてよく浮かべていた好戦的な笑顔を向ける。
――――そう。こうして鎬を削り合うこの瞬間こそが、オレが求めて止まない"久蓮" なんだ。
いつも。いつもいつも、いつも。昴はそれを叶えてくれる。
一際強い痛みに、僅かに身体が傾いだ。久蓮は踏ん張って、倒れ込むのを防ぐ。酷い疲労と痛みで霞む視界に、昴の放つ赤金の光が揺れた。まだだ。まだまだ、勝負は終わっていない。久蓮がスピードを上げようとしたその一瞬先に、昴が渾身のスパートをかけた。即座に反応して追いすがる。
――――ああ、やっぱりこの人もまた――オレの希望の光だ。
昴の背から、意思が伝わってくる。今独りでは、限界なのならば――共に往こう、いつか見たあの光景へ。――と、そんな意思が。
込み上げる興奮が、全てを忘れさせる。意識に侵食してくる程の激痛も、酸素の回らない頭も、重くなる手足も――全て、どうでもいい。最高の瞬間を、最後の最後まで、――共に。それが、それだけが全てだ。
鍔迫り合いを続け、そして二人同時に飛び込んだゴールライン。時間にして、ぴったり十四分間のレース。張りつめた静寂が漂う中、久蓮はこの一瞬の余韻に浸った。




