20.輝く瞳の先へ(天恵7年6月上旬)
そして、迎えた火曜日。
天気は快晴、久蓮の準備も万端だ。いつもは飲み薬で誤魔化す痛み止めだが、今日は注射の強力なもの。強力な分、感覚はどこか遠いが、それはそれ。痛みも遠いというだけで、十分だ。――今日は失敗できないから。
――――お、蒼。イイねぇ、気合十分じゃん。
練習開始前のグラウンドには、ばらばらと皆が集まりつつある。
そんななか、ふと蒼の姿が視界に入り、久蓮は口角を上げた。蒼は、めらめらと闘志を燃やしながら一人佇んでいる。そんな蒼に声をかけるべく、久蓮は向かっていった。
「オシオキ、一緒に走る?」
「え?」
「"王者" の元エースと戦れるぜ」
今日のメニューは、基本二百メートル・インターバルのスピード練としてある。そして、翔太のみ、千メートルのレペ二本という特別メニューだ――ただの千メートル二本ではないのだが、それは、始まってみてのお楽しみ、というやつだ。そしてそれらが終わった後にオシオキ――昴と久蓮のレースが控えている。
他の皆には見学に徹してもらおうと思っていたが、今の――復調してきた蒼であれば、今回のオレたちの勝負にもついてくることができるだろう。――折角走るのだ。昴も久蓮も、凡庸なレースにするつもりはない。今の自分達なりに最高のレースにするつもりだ。だから――腐っても、元・世代トップランナーとの勝負だ。それが蒼にとって貴重な経験になってくれればいいとの思惑もある。
「………何するんすか?」
首を傾げながら問うてくる蒼に、久蓮はにやりと笑ってその手のひらを、蒼の方に向けた。走るのは、五千メートル、と――そんな意味を込めて。
蒼はぱっと顔を輝かせて、――けれどもゆるゆると首を振った。
「今回は、やめときます」
「そう?」
「今回は、感じることに集中させてください。僕の、追い付くべき場所を、感じることに」
「ははっ。責任重大かよ。――オッケー、刮目せよ! ……なんてね」
蒼の答えが残念でないと言えば、嘘になる。久蓮はいつだって、強いライバルとの血が滾るようなレースを求めているのだから。けれど、そう答えた蒼の表情が真剣そのものだったので、久蓮は目を瞠った。そして、ふ、と相好を崩した。白い歯を覗かせるように、明るく笑む。
――――いいぜ? 見せてやる。自分も斯く在りたいと強く思うような、そんな光景を。蒼が目指すべきは、今のオレたちの姿の、その更に先――なんだからな。
責任は、重大だ。けれど、そんなことは解っていた。この青年を、あの暗闇の底から掬い上げると決めた、あのときから。
「そういえば」
「ん?」
「なんで、翔太は特別メニューなんです?」
「あー、それね。……八百メートル、一万メートルと走ったろ? だから――鉄は熱いうちに打て、ってね」
ふと思いついた。そんな様子で疑問を投げかけてきた蒼に、久蓮はにっこりと笑ってそう答えた。答えた言葉は、酷く曖昧だ。そんな久蓮の返しに、蒼は疑問符を浮かべている。大丈夫。焦らなくても、直ぐに解るさ。そう微笑みかける。
その勢いのまま、皆に集合をかけた。――そう。先ずは、皆の練習が始まるのだ。
*
それなりに忙しい部員全員が、珍しく揃っている、始まりの集合にて。範昭が皆に頭を下げた。いやに神妙な彼は、一昨日の夜、昴の思いもかけない姿を見たことで、色々と考えたのだろう。何故、昴が極北にいるのか、その理由を――。
「悪かった……! 俺が――」
「ノリちゃん」
おっと、危ない。言葉を続けようとする範昭を、久蓮は語気を強めて遮った。このまま、丸く収まってもらう訳にはいかないのだ。今は、少しピリピリした雰囲気のままでいてもらいたい。そうでないと、この後の演出が生きてこないから。
完全にこっちの都合で悪いね、と。内心で詫びながらも、久蓮は毅然とした態度を崩さない。罪悪感を脇へ追いやって、これからのビジョンを眼前に浮かべる。
「その話は、キミ等のメニューの後」
「だが――」
「ね」
――――あー、ダメだわ、この態度……疲れる。
意識して冷気を漂わせながら、久蓮は笑顔で念を押した。気圧された範昭が小さく頷くのを見て、久蓮は話を進めた。
「とりあえず、練習――始めよっか」
いつもよりピリピリと張りつめた雰囲気で、皆がアップに散っていった――つまりは、全て狙い通りという訳だ。
「昴サン、モモ!」
「何でしょう」
「はーい!!」
久蓮は翔太と昴を呼んで、今日の流れを説明する。二人は、この後の通常メニューには参加しないからだ。特に翔太。この"特別メニュー"、その意図はまあ、おいおい理解してもらうとして。翔太がしっかりと久蓮についてきてくれなければ意味をなさない。
そんな久蓮の頬を、何やら熱い視線が灼いた。ちらりとその出所に視線を投げると、それは蒼だった。様子を窺う視線。ぱちり、と、久蓮は蒼へとウインクを投げた。大丈夫だって。思い切り走ってきな。そんな意味を込めて。
瞠目した蒼が、範昭に声をかけられているのを見届けて、久蓮は再び二人に向き直った。
*
「良い眼、してんじゃん」
翔太と共にアップをしながら、皆の走りを見ていた久蓮。記録を録り終え、走り終えた面々の元へと戻る。
声をかけた蒼は、膝に手を置いて荒く弾んだ呼吸を抑えつけている。メニューの最中、キラキラと輝いた顔をしていたこの青年は、きっともう大丈夫だ。走る楽しさを、思い出すことができたようだから。あとは、頂点まで駆け上がっていくだけだ。
「楽しかった?」
「はい」
躊躇なく是を返してきた蒼に、久蓮は笑んだ。
こんなイキイキとした表情を浮かべる蒼――あの春の日の様子からは、考えられない変化だ。その変化の一因が自分とのレースだということは、とてもとても嬉しいことだ。これからの成長が楽しみだ。
呼吸を整えている皆を、一人ひとり眺めながら、暫し待つ。
――――それにしても。これは……アウト、だよねぇ……。
久蓮は、努めて表情を変えぬよう意識しながら、真平を見遣った。
先程のインターバル。本人は必死に隠しているようだったけれど、隠しきれていないそのノイズは、間違いなく――怪我だ。インカレの後、病院に行かせて以降の練習では、久蓮の目から見ても気にならない程には普通に走っていた。メインメニュー以外の量を減らすことで、復活できるかと思っていたのだが。
こうして目に見えるまでに庇う程悪化するとは。正直計算外だった。
――――オレが甘かった。……そういうコトだ。
これは、アウトだ。真平は、もう一度病院に行かせなければ。今、少しの間走れなくなるのは構わない。けれど、後遺症が残るような――久蓮のように取返しのつかない状態にさせるわけにはいかないのだ。
――――真平が焦っているとすれば、それはオレのせいだ。……不甲斐ない、オレのせい。だからこそ、今のうちに――。
ダメだ、切り替えなければ。これから、正に正念場なのだから。久蓮は細く息を吐き出すと、新鮮な空気を取り込んで意を決した。先ずは、翔太だ。
辺りを見回し、皆が落ち着いたの確認すると、久蓮は蒼にストップウォッチを渡して言った。
「ヨロシク。ミスってもいいから」
とんとん、と自身のウォッチを叩きながら、短く蒼に告げる。自分でも録っているから、ミスは構わない。しっかりと数字と共に実感して欲しい――そんな想いが大きい。その言葉に蒼が力強く頷いたのを見て、久蓮は微笑んで皆に向けて言った。
「モモには説明したけど、モモは、基本オレに着いて走れば良い。ただし、離されるな。勿論、ラストは刺す気でいい。二本それぞれの感覚をよく覚えて、考えること。それがお前の役目な」
「はい」
「じゃ、皆は楽にしててくれ」
久蓮の言葉に皆が固唾を呑んで見守る中、やや緊張気味の翔太が頷き返した。ちょっと固いけれど――まあ、大丈夫だろう。すぐに緊張なんかはぶっ飛ぶさ。なんたって、それどころじゃないからな。
待っているのは、それはもう、鮮烈な経験だ。
――――さあ。勝負の時の、始まりだ。




