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旅路の果て  作者: 灰猫
【第2章】描く景色の先に
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18.回顧、拘泥、追憶(天恵7年5月下旬)

 思考を塗り潰すような暗闇の中、眼前に()()()の手が迫る。その手が久蓮に与えるものは、()()()()――それだけ。そして、それが全てだ。

 久蓮が久蓮であるために出来ることは、"勝ち続ける"こと――それだけ。そして、それが全てだ。


 思考が溶ける、最も苦手な感覚に、身体がガタガタと震え出すのを、抑えることができない。いつの間にか、――もしかしたら、最初からかもしれない――深層心理に刻まれた恐怖と無力感が、久蓮を苛んでその足を竦ませる。逃げ場のない行き止まりの沼の底で、それでも消えなかった久蓮の望みは――。

 走りたい――それだけ。そして、それが全てだ。


 藻掻いて、足掻いて、そんな久蓮に、世間は気付けば、"無敗の帝王" などという仰々しい二つ名を付けた。そして辿り着いた、ここは、このレースは。三回目の都大路。独り追うのは、先頭――銘華の東城皇、……のハズだ。


――――()()()


 身体に走る激しい痛みの中、いつの間にか綯交ぜになった目的と手段に、抜け出せない苦痛。自分が()()に立っているのかすら曖昧なまま、久蓮は荒い呼吸を押さえることに汲々とする。


――――違う、このレースの結末を、オレは知っているじゃないか。


 目の前に、()()()の後ろ姿が現れる。肩越しに振り返ったその口元は、嗤いの形に歪んでいた。色彩を失ったモノトーンの視界の中、見つめる久蓮は本当に久蓮か?

 突如、一層強く走った激痛に、抗えなかった身体が傾ぐ。敗北――それの意味するところは、久蓮の"(せい)"の終わりだ。


――――嫌だ、……っ。


 久蓮はただ必死に手を伸ばした。光の中心に立つ二人の青年へと。


――――深松サン、っ、昴サン……!


 伸ばされた、手が――。


   *


「久蓮……!」

「……!、……?!」


 ――何かを掴んだ。

 何が、どうなったのか。久蓮は、咄嗟に判断出来なかった。意思に反して荒く揺れる呼吸は、正しく酸素を肺へと運んではくれない。過呼吸だ、と、どこか遠くで、冷静な自分が分析する。止め方なら、識っている。けれども、それは収まってくれない。掴んだ何かを握り締め、裸眼なのだろう、ぼやけた視界に現状を把握できないまま耐えていると。

 さらりと、よく覚えのある感触が頭を撫でた。久蓮を落ち着かせるようなその動きに委ねれば、徐々に収まる呼吸と震え。


「久蓮、」


 優しい手付きで、いつもかけている眼鏡がかけられた。

 ようやく慣れてきた目を向ければ、柔らかく明るい色の髪が、持ち主の動きに合わせて揺れている。手の主は、()()()()()()、六連昴だった。そこでようやく、久蓮は今、()()に居るのかを思い出した。


「……。極北主将の、篠崎久蓮、だ……」

「ええ、戻って来ましたか。――何か、食べられますか?」

「……ん」


 握り締めていたのが、かの先輩の手だと知った久蓮は、気恥ずかしくなり、視線を反らして手を離す。昴は、一瞬おや、と眉を動かしたものの、言及はせずにキッチンへと向かっていった。

 明かりがやや落とされたそこは、三年と少し、住み慣れた久蓮の部屋だ。閉められたカーテンの隙間から、夜の帳が顔を覗かせていた。ベッドから手だけ伸ばし、ベッドボードに置かれた自身のスマホを手に取ると、表示は二十三時四十分。記憶が途切れてから、まだ数時間だった。


   *


 ことり、と。硬い音を立てて、サイドテーブルに器が置かれた。

 昴が久蓮の寝室に戻ってきたのだ。置かれた粥の器からは出汁の良い匂いが漂い、減退した食欲を少しばかりそそった。見上げると、片手には、氷嚢。ベッドの傍らに椅子を運んで座ると、昴は久蓮の額に手を翳す。

 ひやり、と。常は久蓮と同程度の体温のハズの彼の手は、とても冷たい。その気持ちのよさに、久蓮は僅かに目を細めた。


「まだ大分熱いですね。食べたら、もう少し、寝てくださいね」

「……」


 そんな久蓮の様子に眉を寄せた昴が、そう言うのを、久蓮は呆と見ていた。


――――そういえば、なぜこのヒトは、ずっとここに居るのだろう?


「研究室、は?」

「大丈夫ですよ。()()で。……氷、換えますね」

「すみません」


 とんとん、とノートパソコンを叩きながら、昴は笑った。久蓮の意識がない間も、脚を冷やしてくれていたのだろう。冷たさで麻痺した脚は、同時に痛みもとても鈍い。

 手間をかけさせたことを謝れば、昴は苦笑して、久蓮の頭を撫でた。


「……うま」


 粥を一口、久蓮は小さく呟いた。昴は照れを隠すようにキーボードを叩いている。静かに流れるこの時間は、()()に溺れた久蓮に、ゆっくりと酸素を送り込んでくれるような気がした。


   *


「研究はどうです?」

「興味深いですよ。ただ、少し忙しいですが」


 布団に潜り、天井を見上げて久蓮は問うた。話題は何でも良かった。ただ、少し心細くなっただけだから。それでも、院生とはそういうものでしょう?、と。微笑む昴のそれは心からのものだ。

 昴の所属する研究室は、久蓮のそれの真上に位置する。研究の手法など、共通することも多い。正直、扱うのが動物か植物かといった違いしかないと言っても過言ではない。


「うちの教授が、会いたがってましたよ」

「光栄です」


 ぽつりぽつりと、続く会話。昴の低い声に、久蓮は再び眠気に包まれ始めた。


「ねえ、久蓮。僕は楽しかったですよ、――ずっと。()()()()()だけじゃない。レースでなくても、代表合宿も、合同合宿も」

「……」


 急に変化したトーンに、久蓮は昴へと視線を向けた。彼は、真剣な面持ちで、静かにこちらを見つめていた。思えば昴とは、今まで、何度も共に走ってきた。何度も、支えられてきた。こんな会話も、いつもいつも、久蓮のためにあるのではないかと思うほどに――。


「オレも、アンタがいたからいつも――」


――――夢を思い出すんだ。


 久蓮は抗わずに眠りに引き込まれる。


 そう、お互い様なのだ。昴がいたから、久蓮は、今ここにいるのだから。そんな思いは、彼に届いたのだろうか。微睡みの中で、昴が眉を下げて笑んでいた、――気がした。


   *


「ねえ、アンタさ、それ楽しいの?」

「ああ」


 自身の向かいに座り、自身を眺めていた青年――六連昴に、作業をする手はそのままに、久蓮はそう問いかけた。人の捌けたミーティングルームには、久蓮と昴、只二人の影だけが在った。


――――……、また、懐かしい夢を……。


 どこか遠い意識で、久蓮はそう思った。

 そう、この日は、愛知・長野合同の高校陸上強化練習会が開催されていた。会場は、久蓮の母校、ここ、深雪ヶ原高校だった。この日は、その二回目。

 練習会の流れは基本変わらない。開始前に簡単なミーティング、練習、最後に締めのミーティングだ。先程、練習会は解散となった。自校開催の久蓮は、普段の部活後同様に、ここで部誌を書いている。そして、前回に引き続き、他校の先輩であるはずが、そんな久蓮と共にここに居残っている昴へ、久蓮は問うたのだ。答えは、たった二音の、肯定だ。


――――"奇特な奴だな" 、そう思ったっけな。


「それも、お前の一部だろう?」


 部誌に記されていくそれは、今日の練習の分析。即ち久蓮の考え方だ、と。久蓮()眺めていたことへの問いだったのだが、微妙にずれたその返しは、態とだろう。


――――そう、こうして時を共に過ごして。


 あの夏の日の壮絶な出会い、それから幾度とない熱いレース、練習。それは青く赤く焔燃え盛る、激しい時間だったが。こうして対照的な静寂をも共に過ごしたのだ。二年間、幾度となく。その時間は、確かに――。


   *


 ぱちり。

 久蓮は目を覚ました。窓ガラスを打つ雨音に、ここだけが現実と切り離されているかのような錯覚に陥る。


「っ、……けほっ」


 時刻は十七時十分。つまり今は、あのレースから一夜明けた日曜日である。かなりの時間、寝ていたことになる。ひりつく喉に、久蓮はそれを実感した。

 明かりの落ちた部屋は薄暗い。他人(ひと)の気配は、ない。ベッドボードには、水の入ったペットボトルが置かれている。傍らには、メモ。そしてスマホを開けば、覚えのない、範昭宛てのLINE。察するに、部活の方は、昴が上手くやってくれただろう。


「流石。……敵いませんわ」


 いつの間にか、熱は随分下がったようだ。思考にかかる靄が晴れつつある。久蓮はパソコンを開き、締め切りの迫る、研究室の資料作成を進めることにした。雨音だけが響く室内の静寂は、もう久蓮を不安にさせたりはしない。

 己の後輩からの救難信号ともいえる電話が鳴るまでの暫しの間、静けさに沈むこの部屋で、久蓮はただ作業に集中していた。

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