17.虚勢、のち驟雨(天恵7年5月下旬)
快晴だった空に、じわりと雲が増えてきている。一万メートルが終了して少しした今、久蓮は、昴、蒼と共に、その結果を確認しにきていた。
正直、観戦したレースの記憶は、曖昧だ。膝の怪我が、熱を持って全身へと廻っているのを感じる。自分のレースの後、しっかりとケアできなかった事が、尾を引いているようだ。普段は使い放題の氷も、出先ではそうはいかない。思った以上に、あのレースは、膝の状態を悪化させたらしい。
「――っ、」
ずきり、と頭の先まで突き抜けた痛みに、久蓮は息を呑んだ。前を歩く二人に、気付かれるわけにはいかない。――先ほどもそうだ。周りにその不調を悟られないようにするのに必死だった久蓮は、レースの様子をその頭に記録するだけに徹した。観ておけば、後から分析できるのだ。
――――だから、今は。耐え、なければ……。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
記録が掲示してあるアーケード下には、一万メートルに出場していた範昭達も来ており、図らずも極大メンバーが勢揃いしていた。
――――マズい、隠すべき相手が増えたな……。
久蓮は、掲示板をちらりと見て、結果をその瞳に映した。メモの必要はない。一瞬見れば、十分――分析は、後日だ。部員達に意識を向けた久蓮は、レースを終えて尚、幾分生気の宿った瞳の彼等に、取り敢えず今日の成功を感じ取る。皆に労いの声を掛けて回る。けれど――。
――――なんともないって、言ったよね?
久蓮は、真平の様子を常に気にしながら、きらきらと声をかけてきてくれる皆の相手をしていた。蒼は、一先ずこのまま上手く抜け出していけるだろう。だが、真平の怪我は、――時間がない。全日の道予選は八月。期待しろと豪語する昴の復調も、未だ未知数だ。真平の欠員は勝利に暗く影を落とすだろう。
やはり、止めるべきか。久蓮は、彼に声をかけるために一歩踏み出した。
「――?!」
負荷がかかった左膝に、一層強い痛みが走り、真平に意識を向けて油断していた久蓮は膝から崩れた。同時に、突如視界が歪んだ。力を失った身体が、重力への抵抗力を失い傾いでいく――。
「……っと」
「……、……?」
――――何が、起こった?
反射で零れたような声がして、頽れかけた久蓮の身体が支えられた。ぐ、と引き寄せられる感覚に、霞んだ視界が揺れる。力が、入らない。久蓮にはその全てが、どこか遠くに感じられた。その視界に、暗い紫が映ったことだけは辛うじて解った。
暗い、紫――。その意味に、気付くのに、酷く時間を要した。
――――いや、違……っ、……この、人は……っ!
久蓮を支えていたのは、篠崎鉄人だった。視界に映った暗い紫は、帝北学園大学の、黒紫のチームジャージだ。
ようやく状況を把握し、びくりと身を固くした久蓮。掴まれた腕、その力は強く、今の弱った久蓮には、振り解く術はない。されるがままに引き寄せられると、鉄人は口元を嗤いの形に歪めて囁きかけた。
「それがお前の、新しい仲間という訳か、久蓮。お前にしては杜撰だな。病気持ちにトラウマ持ち、馬鹿に凡人共。それと怪我人とはな」
「――っ!」
「そいつらを引き連れて……お前はどこへ向かうんだ?」
――――バレている! 何も、かも……!!
ぞくり。背筋に走る恐怖。身体が、かたかたと震え出す。振り解けない。悪意のみが含まれたその声に。範昭と昴が割って入るまで、久蓮は、動くことも出来ず小さく震えていた。
*
今や空は完全に雲で覆われていた。風が強まっている。雨が近いのだろう。
今日のレースは、皆に大きな衝撃を与えたのだろう。未だ、部員達は久蓮を取り囲んで、今日の走りについて、きらきらと顔を輝かせて質問責めにしてくる。いいこと、なのだが。今の久蓮は、この体調不良を悟られないように、必死だった。そして、唐突に牽制を仕掛けてきた、あの人のことで――。
「解散すんぞ、お前ら」
皆の声が、なんと言っているのか、もう、よくわからない。反射で答えを返しているけれど、突っ込まれていないということは、正しい答えができているのだろう。
どこか遠くで、範昭の声が聞こえる。先ほどの鉄人の襲来、……久蓮の様子がおかしいことは、皆には悟られずに済んだらしい。範昭や昴に感謝だ。そうだ、そろそろ、集合を――。
「――は練……、――も通り。月……、の反――……、グは、今――止だ。……い――な? 久蓮」
「、うん」
耳鳴りが酷すぎて、範昭の言葉がうまく聞き取れない。何か話しかけられた言葉には、半ば反射で頷いた。聞こえる範昭の声が遠くに感じられる。ぐらぐらと視界が揺れて、世界がぐるぐると回っているようだった。正直、限界だ。熱が、上がり続けているのが分かる。立っているのがやっとだった。意識して、浅く呼吸する。気を抜くとすぐに息が荒く上がってしまいそうだ。
いや、今、自分は――まっすぐ立っているのだろうか――?
――――はやく、……。
*
「……蓮。――久蓮」
どれだけ、耐えただろうか。もう判らなくなった頃、久蓮は昴に声をかけられた。なんとか意識を手繰り寄せて、その言葉を聞く。
「帰れるか?」
「……ははっ、何を、大袈裟な」
――――ダメだ、完っ全にバレてるじゃん。
酷く心配そうな昴の言葉に、久蓮は苦笑して答えてみせた。だが、もう、限界なんてとっくに超えていた。ここから平然と帰る姿を、取り繕う気力など、欠片も残っていない。一歩でも動こうものなら、崩れ落ちてしまうだろう。
皆が帰ってから、ゆっくり――。
「もう誰も居ないぞ」
「……」
――――あ、ダメだ。
ぶつり。昴の言葉に、緊張の糸が切れた音を、久蓮は聞いた気がした。繕っていた表情が、抜け落ちた。
「本音は?」
――――ズルいよ、昴サン……、そんなの。
「……怠い。痛い、しんどい」
優しい低音に促され、飲み込んでいた本音が零れ落ちた。弱音を吐けば、張っていた気は抜ける。久蓮の身体は力を失って、支えをなくし倒れ込みそうになった。崩れ傾いだ身体は、昴が支えてくれたようだ。そのまま身体を預ける。
「熱いな……。……いつからだ?」
「わかんない。……一万、のときとか」
「凭れてろ」
「……ん」
ひやり、と、額に当てられた手のひらが、冷たかった。元々体温の低い昴の手だが、平時は久蓮の体温もそう変わらないはずだ。そんなことからも、今の体温の異常さを感じた。不調を意識すればするほど、苦しさは増す。荒く上がった呼吸を零して、久蓮は目をつぶった。
寄りかからせてくれるという昴の言葉に、久蓮は素直に従った。意地を張る気力もなければ、取り繕うべき部員たちもいない。頭上から降ってくる、彼が誰かに電話している声を聞きながら、久蓮はぼんやりと不安に沈んでいた。
「……あの人に、バレた。アンタが、いること」
溢れる不安そのままに、久蓮はぽつりと零した。
今日、鉄人は、明らかに牽制に来ていた。蒼が復調した今回のレースを見て、帝北大優位――その余裕を揺らがせたのだろう。
「不味いのか?」
「不味い。帝北の優位が揺らぐ」
久蓮の呟きを拾って昴が返した疑問に、きっぱりと答えた。
鉄人が、自身の優位を疑わない間は、こちらが手を出される心配は少ないだろう。そういう意味では、蒼が復調した時点で、何か揺さぶりがあることくらいは予想していた。想像以上に、自身の状態が悪かったタイミングだったので、必要以上に動揺してしまったけれど。――いや、それすらも、計算の上なのかもしれない……。
――――それだけなら、まだよかった。
蒼が復調したとて、精鋭揃いの帝北大と比べれば、極北大など脅威にもならないだろう。昴の存在を、知られていなければ。
極北大の皆も、久蓮が指摘するまでは、その存在に気付かなかったのに。もちろん昴自身の体調身体のこともあるが――こんな事態を防ぐために、昴には見学に徹してもらうつもりだったのに。
「……お見通し、……って、ワケ……」
くらりと、視界が揺れ、久蓮は瞳を閉じた。本格的に不味い。意識を、保っているのが――。
――――オレ以外の誰も、オレのせいで傷付けたくない。
「あおがあぶない、かも。せんぱいも、……」
――――きをつけて――。
最後の言葉ははらりと消え落ちた。最後まで、昴に届いただろうか。確認する間もなく、久蓮の意識はそこで闇に沈んだ――。




