16.覚醒の代償(天恵7年5月下旬)
自分が勢いよくゴールに飛び込んだ瞬間、競技場に歓声が響いたのがわかった。そのまま二、三歩進むが、久蓮はそこで足を止めてしまった。歓声もかき消す程に、左膝が激痛をもってその異常を訴えている。
――――あー……こりゃ、マズったねー。
解っていたことだった。今、蒼と競り合った結果、負荷に耐えきれない脚がどうなるのかなんてことは。それなのに、久蓮はそれ以上の力を出してしまったワケだ。――けれどこれは、想定より酷い。もう力を入れるにも抜くにも激痛である。記者や他大学のライバルたち、久蓮のチームメイト、そして何より、父親の前で、弱みを見せるわけにはいかなかった。
時間にしてほんの数瞬。けれども状況は悪化の一途を辿るばかりだ。膝のみならず頭痛もが久連を襲い、顔を顰める。
遅れてゴールした蒼がこちらへと近づいてきている気配を感じる。なんとか振り返って、視界に映った蒼は、熱に浮かされたような表情だ。情熱と興奮に包まれた、蒼のこの表情を見ることができただけで、このレースは意味があったと、久蓮は思う。
「ね、蒼。楽しかったでしょ?」
久蓮は彼ににやり、と笑いかけた。したり顔、けれど、本心から溢れた笑みだ。蒼は目を見開いた。
――――よしよし、響いたな。
久蓮は今回の思惑の成功を確信した。そして、――もうひとつ。観客席を振り仰ぐ。
「見たか? これが、お前らの主将だぜ。安心してついてこい!」
見据えるは、愛しい愛しい部員たち。ドン、と強く胸を叩いて、久蓮は自信だけを乗せて強く笑い、そして俯いた。呼吸が乱れ、視界が白く霞む。レース中の比ではない。もうとっくに、限界だった。まずい、倒れるワケにはいかないのに。
「はっ、……はあっ……」
ぐらり、と。 久蓮の意思とは裏腹に、堪えきれず倒れ込もうとする体を、誰かが支えた。
「……無茶しやがって」
「……さん、きゅ……」
聞こえてきた聞き知った声に、安堵が身体を支配する。憮然と呟かれたその声に、口の端に笑みを浮かべ、久蓮は昏倒した。絞り出された言葉が、届いたかは分からなかった――。
*
――――冷たい……。
違和感に、久蓮の意識は浮上した。気が付くと、久蓮は人気のない木陰に横たえられていた。先程感じた冷たさは、氷でぐるぐる巻きにされている左膝からくるものだった。
「久蓮……」
「気が付きましたか……」
範昭と昴が、安堵を浮かべながらこちらを覗き込むのを見て、久蓮は一抹の申し訳なさを感じた。
「蒼は乗り越えたよ」
久蓮がそう言うと途端に、心配そうな二人の表情はは呆れ顔へと変わる。そのまま暫し呆けた後、仕方ないと言うかのように、嘆息する。そう、そのくらいの感情を向けられていた方が、いい。心配などされては、罪悪感しか湧かないから。
「てめぇが走れなくなってんじゃねーか」
「いんや、変わんないよ」
ニヤニヤと笑みを浮かべ、不遜に言い放つ久蓮。彼らに通用するとは、思っていないけれど。でも、後悔は一切していないのだ。本当は少しばかり状況は悪化しているけれども、まだ、大丈夫だ。
まだ、大丈夫――何度、こうして言い聞かせてきただろうか、考えると嫌になる。結局、あの頃と何ら成長のない自分に。
「……」
「さんきゅです、そろそろ戻りましょ」
久蓮のこんな内心を察するはずもないだろうに、なにか言いたげな昴の視線が絡み付く。その視線の意味に気付かぬふりをして、久蓮は言う。ゆっくりと立ち上がり、そして見上げた空はただただ抜けるように青かった。
立ち上がった久蓮は、自然にやや後ろを――久蓮の状態を確認するためだろう――歩き出した範昭を引き連れて、ベンチへと歩みを進めた。
暫しの沈黙の後、舌打ち一つ、範昭から声がかけられた。
「おい、久蓮、てめぇな……。ありゃ、毒気強すぎんぞ」
先のレースの事だとは、考えずとも判った。ちらりと視線を投げると、こちらを睨みつける範昭と目が合った。
「モモの奴が、"おれの努力は無駄なのかな" ――だってよ」
「悪い悪い。……フォロー、サンキュね」
「チッ。……こっちの身にもなれよ」
範昭の視線は、外れない。範昭の頭にはきっと、かの後輩の顔が浮かんでいるのだろう。初心者の自分と、天才である蒼の差を目の当たりにして。
苦笑を零す。心配している範昭には悪いが、――想定内だ。へらりと言ってのける。それが、範昭の癇に障るのだということを、十分理解しつつ。どうしても、この男には、反久蓮派に立ってもらわなければならない。久蓮のしでかした全てが、皆に及ぼす影響――それを、いい方向へ持っていくための、範昭の役割は、間違いなく重大だ。
「君が言うから、あいつらに響くんだよ。ノリちゃん」
ただの天才ではない、範昭の言葉だから。
「……。かと思えば、てめぇは足ぶっ壊してまで荒治療、ときやがる」
――――そんなこと、今更大したことじゃないないのにね。
本心だ。鋭い目つきを更に研ぎ澄まし、己を見据える範昭を見る。その表情には、笑みを乗せたままだ。
「悪い悪い。大したことないってば」
「チッ。……こっちの身にもなれよ」
苦笑して、なんでもないことのように、へらりと笑ってみせる。
ちらり。久蓮の脚に視線をやり、そしてすぐに背けながら、範昭はそう吐き捨てた。久蓮が告げた言葉は、本心だ。……紛れもなく。同じ方向を、目指していけるのならば――目的を、達成できるのならば。いくら皆に嫌われようとも、構わないのだ。
*
「遅いですねぇ、蒼さん」
「ソレ、二人キリの時もやるの?」
「まあまあ」
「……」
相変わらず、違和感しかない昴のその口調に、久蓮は思わず半目で突っ込みを入れてしまった。この昴と相対してから、もう暫く経ったわけだが、未だに慣れない。ゆるゆると笑みを浮かべた目の前の先輩に、久蓮は肩を竦めた。すぐに素が顔を出すクセに、――と。
「ま、そのうち戻ってくるでしょ」
久蓮は諦めと共に呟いた。蒼は、いうなれば、頭を冷やしている。あの顔を見るに、そうそう経験してこなかった鮮烈な体験に浮かされて、心ここに在らずの状態でダウンをしているのだろう。そのうち、我に返って戻ってくるハズだ。
果たして、蒼はベンチへと戻ってきた。それは、もうすぐ一万メートルが始まろうかというときのこと。
「お帰りなさい。いかがしたか?」
「楽し……かった、です。僕も、そこに行きます。――絶対に」
「ほー」
昴が、柔らかく笑んで蒼に声をかけている。一言ひとこと噛み締めるように、素直な言葉を紡ぐ蒼に、久蓮の心は踊ってしまった。根は、素直な青年なのだ。ただ、辛い経験がその邪魔をしていただけ。
本当に、走った甲斐があるというものだ。蒼の様子を見ていると、心の底からそう思えた。例え、脚の状態が悪化していても。その膝の持つ熱が、じわじわと久蓮を侵食してきていても――。
「立ち位置は見えましたか?」
「今の僕からは、とても、遠い……。でも、いけるかどうかじゃない。そこにいきたいかどうか、ですから」
「やはり、"彼は、試金石でもある"……彼の慧眼というわけですか」
「試金石……」
「ええ。もう、六年前になりますか。ムーンベルクの雪沢コーチが、久蓮さんを見て、そう評したと。……又聞きですが。この話を聞いたときは、一番に輝く久蓮さんをして試金石とは、と思ったものです」
意識を遠くに向けて、そんなことを話す昴を、ぼんやりと見つめる。蓮介が、久蓮にそんな評価をくれていたとは、知らなかったが。
――――試金石、か。なら、オレの周りには、純金ばっかり……、だよ。
今もなお鮮明に褪せない彼らの顔が、浮かんでは消える。そもそも、純金の筆頭は、久蓮の隣で、蒼に昔話を語って聞かせているわけだが。
「すみません。単なる昔話です」
「僕は、足りたでしょうか」
「"心折れずに奴との競り合いを楽しめる者だけが、その先の世界を見ることが出来るのさ"。――大丈夫ですよ、君は」
「なにソレ知らない」
「北村が言ってたぞ」
「ふうん?」
黙りこんだ蒼の反応を、困惑からのそれと思ったのだろう。苦笑して言葉を付け足した昴に、久蓮は思わず突っ込んだ。自分の知らないところで、そんな会話がなされていたとは。
その先の景色――あの日、レースが終わった久蓮のところに、きらきらと目を輝かせて現れた、光。まさか、蓮介からそんな言葉を聞いているとは。――いや、当時、二人に接点があったとは思えない。きっと、蓮介がムーンの誰かと話しているのを、偶然聞いたというのが真相だろう。
――――やべ、
熱に溶け出した頭が、取り留めもなく回転を始めたのに気付いて、久蓮は慌てて思考を止めた。これは、よくない傾向だ。レースに集中しなくては。
久蓮はそう言い聞かせて、ウォッチを構えた。同時に、号砲が鳴る。一万メートル。選手たちは一斉にスタートを切っていく。よほどキラキラと瞳を輝かせて走る極北大の面々に、久蓮は先ほどのパフォーマンスが成功したことを察知して、安堵した。後は、皆のレースを分析して、今後のビジョンを描く――それが久蓮の役割だった。




