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旅路の果て  作者: 灰猫
【第2章】描く景色の先に
18/29

15.頂からの景色(天恵7年5月下旬)

 ついに、正念場――勝負の時がやってきた。

 今日は今シーズン二回目の記録会。集うは、もはやお馴染み、角山競技場だ。空は快晴。先に競技があるのは五千メートル、久蓮と蒼のみのエントリー。そして夕方に一万メートル。久蓮と蒼、そして見学の昴を除く全員が走る。

 自身のアップ開始前。久蓮は、範昭に歩み寄った。


「ノリちゃん」


 声をかけると、範昭は視線でその続きを促した。


「ねえ、ゴール地点、居てくんない?」

「あ?」

「じゃ!」


 凄むかのように、視線を鋭くする範昭の表情に、自身の意図が正しく伝わったことを久蓮は察した。範昭の了承の返事を待たず、一方的に話を切り上げた久蓮は踵を返した。背後から溜息が微かに聞こえ、久蓮は口元に笑みを浮かべた。

 遠くでアップをしている蒼を見遣る。動きは、――まあ悪くない。緊張にか強張った面持ちで走る蒼。久蓮は笑みを深め、ゆっくりとアップを開始した。


   *


 久蓮は、珍しく、怒りで己の感情を揺らしていた。

 煽って煽って、蒼の意識をこちらに向けさせてきた。無理にでも痛みに耐えて、己の鈍った身体を、無理矢理起こしてきた。全ては今日、この日のためだ。範昭に頼んで、レース後の保険もかけた。


――――それなのにさぁ。……オレの努力を、ムダにしてくれちゃって。


 ニヤニヤと、悪意しかない嗤いを浮かべて蒼を攻撃せんとするこの青年(クズ)は、久蓮の計画を邪魔する道端の石だ。コイツ――那須伊織が決定的な仕事をする前に、蒼から遠ざけなくては。ちらりと流し見ると、蒼は、かわいそうに、小さく身体を震わせている。

 久蓮は、自分の周囲の温度が更に下がっていくのを感じた。そんなことも察せない目の前の馬鹿は、尚も蒼に近づいてくる。この目は、とてもよく知っている。


――――コイツの好きにさせるかよ。


 那須がさらに言葉を続けようと口を開きかけたのを見て、久蓮はす、と蒼の前に出た。


「ウチの蒼に何か用か?」


 努めて笑顔を貼り付け、穏やかに。漏れ出る冷気は……。許せ、蒼、これ以上抑えられない。恐がってくれるなよ。


「アンタには関係無いだろ」

「いやいや」


 馬鹿が何かほざいている。その戯言を、軽く鼻で嗤ってやる。救い様がない馬鹿だな、那須伊織(コイツ)は。本人()がどう思っていようと、もう、とっくに――。


極北大(うち)の蒼、だから。……ああ、そっか――」


 手を出してくれるなよ、という意味を込めて。久蓮は笑う。けれど、この馬鹿は察せないだろう。この手の奴は粘着質だ。その執着の矛先を、蒼から外しておきたい。

 さも、今しがた思い至ったというような仕草で、久蓮は那須に近付く。小声で、囁くように。小さく嘲りの表情を覗かせて、煽る。


「オレ等と戦りたいのね。いいよ、オレ等の邪魔しないなら。ええと……()()()()?」

「……っ」


――――それだけで、ホラ。嗤いが消えた、怒りに燃えた目がオレを見る。やっぱり、馬鹿は扱い易いね。そうだ、オレだけを見ていろ。


 面白いように、自身の思惑通りに動いてくれるこの青年に、久蓮は笑みを深めた。


「やめな。――お前じゃ敵わないよ、伊織」


 怒りのままに、尚も詰め寄ろうとする那須に、皇が割って入る。ぞんざいに、久蓮の前から己の後輩を引き剥がす皇。

 先程、視線を合わせるだけで挨拶は済ませたはずが。わざわざ、動かせてしまったか。久蓮は、纏う怒気を霧散させた。皇は久蓮に向き直って、笑いかけた。


「やあ、探したよ」

「それは……悪かった」

「全くだよ。お陰で、悪魔に魂売ってしまったじゃないか」

「それでか」


 ()()()でさえ、四年目となる今年になってやっと久蓮の元へと現れたのだ。久蓮のことを探していたというのならば、それは余程難航したことだろう。

 苦笑交じりの久蓮の謝罪に、ほとほと困った、という仕草で、皇は言う。その言葉に応じつつ、久蓮はやはり、と思った。久蓮の読みは、正しかったのだ。皇のことは、高校時代から知っている。彼程の選手が簡単に()()()の誘いに乗るとは思えなかったが、やはり。罪悪感が甦る。先程の帝北の選手達の様子を見るに、皇はあの集団とは異質な考えで動いている。


「ま、今日はおこぼれでいいからさ」


 ちらり、蒼を見る皇。流石だ、と、久蓮は思う。久蓮が今日のレースに出る理由を、皇はよく理解しているようだった。彼は、久蓮の肩を軽く叩いて囁く。


「僕とも遊んでよ」


――――あぁ、レースはこうでなくちゃ。


 皇のその言葉に、久蓮は思わず、ニヤリと、笑ってしまった。さすがは皇だ。わくわくさせてくれる。踵を返し去っていく皇を見送って、久蓮は蒼に向き直った。


「いいか? 蒼。――オレだけ見てろ。今日は、()()に、勝つんだろう?」


 蒼が視線を返す。哀れなこの後輩は、自分が酷く傷付いた顔をしていることに、気付いてもいないだろう。少しでも、那須のことを忘れさせてやらなければ。久蓮は強い瞳で蒼に笑いかけた。

 コールがかかる。レースが始まろうとしている。ここが、()()()だ――。


   *


 結局、号砲が鳴っても、蒼の調子は上がらなかった。いつも通り飛び出している皇と、少し離れて那須。その後ろに形成されている、第一集団に、蒼と久蓮はつけていた。ずるずると落ち、集団からこぼれかけていく蒼は、後ろから見て判る程、明らかに動きが軋んでいる。


「……全く」


――――やってくれたな。


 久蓮は小さく呟く。その恨み言は那須に向けられたものだ。初っ端から蒼と二人、楽しい勝負ができるのを、少しは期待していたのだけれど。……予定変更だ。まずは蒼を、この絶望の淵から掬い上げなければ。


「――手のかかる奴だ。蒼」


 一転、愛おしささえ含むそれは、蒼に向けられた呟きだった。とん。蒼の肩を軽く叩いて久蓮は注意を引いた。思い起こすは、去年のインハイ五千メートル、蒼の走りを瞼の裏に浮かべながら。

 ぱちり、と。目が、合う。自信だけを込めた笑みを蒼に向ける。


「言っただろ。()()()()()()()――って」

「久蓮さん……」


 そんな、死んだような(くら)い瞳を、いつまでもさせているなんて、許せない。

 アウトに膨らみ、一瞬で、蒼に並んだ。


――――インプット完了。


「オレに合わせろ」


 久蓮は蒼に告げる。今の久蓮のリズムは、蒼の為だけにある。今の蒼を、インハイのとき(絶好調)の走りに持っていくための。びりびりと走る膝の痛みは、無視だ、無視。徐々にピッチが上がってくる蒼に合わせ、久蓮はリズムの再編成を繰り返す。

 やがて、呼吸は整い、リズムはトップランナーのそれになった。第一集団は、もう目前まで迫っていた。


「さてと。そろそろ勝負の時間だな? さあ、来いよ。蒼」


――――オレ、高校ぶりのレースなんだ。楽しませてくれよな。


 漸くだ。久蓮は思わずと漏れた笑みを隠さず蒼に向けた。見開かれた蒼の瞳には、数瞬の後、光が灯る。言うやいなや、久蓮はぐんとペースを上げ、蒼の前に出た。すぐに蒼が抜き返してくる。ちらりと見た蒼の瞳には、いつの間にか焔が灯っていた。

 ぞくり、と。求めて止まない痺れが、久蓮の全身を駆け抜ける。


――――ああ、そうだ。オレはただ、このためだけに生きてる。


 抜き返す。また抜かれる、抜き返す。ぱちりと視線が絡む。


――――あー、もう。お前、最高。……久々だよ、そんな目をされるのは。


 久蓮は、瞳で蒼に語りかける。まだ、足りない。もっとだ。まだ行こう。邪魔はさせない。軋む己の脚にも、接地の度に脳天に突き刺さるような痛みにも――。

 残りはたった三周。僅かに久蓮の先を行く蒼の他には、帝北の皇を残すのみだ。けれど――。


「……あー、ピリオドだ」


 遣ってきたタイムリミットに、久蓮は内心で溜息を吐いた。小さく呟いた言葉は、きっと蒼には届いていない。ちらりと蒼を見やる。ギリギリの攻防を楽しんでいる、そんなギラついた表情の彼は、その実余裕なんて無いハズだ。この先は、まだ、早いだろう。


――――ケド、それじゃ困る。お前には、ここまで来てもらわなけりゃならない。だから……傍で、よく見てろ。お前の辿り着くべき場所はココだ。


「さあ、蒼。オレ、もう一仕事あるんだ。――おいでよ」


 ぐん、と、久蓮は一気にペースを上げた。今までとは全く異なる、ギアチェンジ。必死に着いてくる蒼に、やるな、と内心で感心する。みしり、と一層強く自己主張をする左脚に、僅かに顔を顰めた。


――――調子に乗りすぎ? そうかもね。……でも、今更止まれない。


「お待たせ」

「本当だよ」

「今日は前菜程度にな」


 皇に追い付いた久蓮は、笑う。呆れたように溢す皇と、久蓮の。今度は、勝ちを得るための、そんな勝負。じりじりと後ろへ消えていく蒼へ内心で語りかける。お前も、早く、来いよ? と。――聞こえるハズもないけれど。

 千メートル――四百メートルトラックを、たったの二周半の攻防。それは、本当にあっという間だ。蒼との勝負も、皇との勝負も、楽しいことは、すぐに終わりのときを迎えるものだと、最終の鐘を聞きながら久蓮は残念に思う。本音を言えば、全くもって、満足なんてしていない。久蓮の心は、もっと速く、もっと熱く――と、心を焦がす勝負を求めている。


「――っ」

「……」


 久蓮のスパートに、皇はついてこられない。この感覚も、いつものことだ。

 たった一人、先頭を走るこの瞬間、久蓮を襲うのは、何時だって喪失感と寂寥感だ。最後の最後まで、只管に勝負を楽しんでいたい。久蓮というランナーは、そんな人種なのだ。決して負けたいわけではないが。久蓮のその願望が叶ったレースは、ただ一度だけ。きっと、久蓮はあのレースに囚われたままなのだろう。共に在った、あの青年と共に――。

 軋む脚、鳴り響くように襲い来る頭痛――久蓮は最後の力を振り絞って、ゴールラインを割った。

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