14.孤高でも、例え嫌われようとも(天恵7年5月下旬)
――――苛立ってんなぁ。
ミーティング翌日。
程良く晴れて尚、透明感の残る、そんな夕暮れ。気持ちの良い天気とは裏腹に、今日も今日とて険しい顔でこちらを睨み付けている蒼に、久蓮は内心だけで苦笑した。
――――ま、苛立たせているのはオレ、だけど。
勝負だ、などと、煽りすら含ませて自信たっぷりに宣戦布告した――にもかかわらず、この一週間弱、久蓮は何食わぬ顔で緩いペースを守ってきた。
蒼は、今までより強度の高いものになって然るべき、と予想していたであろうに、この、相変わらずの久蓮である。久蓮が蒼含むAチームと一緒に走る貴重な機会、先日のロングの練習では、半ばムキになって煽る彼に、久蓮は苦笑してペースを守れと諭した。
記録会が明後日に迫る今日。
普段通りに翔太にアドバイスをしながら並走する久蓮は、蒼の鋭い視線が突き刺さってくるのを感じた。設定ペースが速いが故に先にメニューを終えたAチームの蒼は、ダウンをしながらこちらを見ている。いや、これはもう、睨みつけている、といった方が正しいだろう。
「熱烈だねぇ」
気取られない程に口角を上げ、久蓮は小さく呟いた。強い蒼の視線に灼かれて、焦げ落ちてしまいそうだ。
――――悪いね、蒼。
まだ今は、一緒に走ってはやれないのだ。皆の前で走りを晒すには、もう少し確信が要る。――不調を悟らせることなく走れる、という確信が。不本意ながら、そうそう何度も高い強度では走れないのだから、その一回は大切に――劇的に使わなければ。
絶対に、負けない。久蓮の思い通りにはさせてやるものか、と。そんな気持ちを全面に出した蒼はグラウンドの隅で、ガシガシと地面を蹴り、苛立ちを逃がしている。そんな様子を、ちらりと流し見ながら、久蓮は研究室帰りの昴と視線を絡ませた。
*
不調が発覚して以来、元々あった壁を更に分厚くした蒼に、部員達は声をかけあぐねていた。自分で作り出した状況とはいえ、久蓮はその空気に若干頭を悩ませていた。
しかし、そんな雰囲気をものともしない彼――翔太が、動いた。
「あお~! レポート教えて~」
「あ?」
練習後、足のケアをする蒼に、彼は情けない声を上げて泣きついた。思わず睨み混じりに返す蒼だったが、八つ当たりは良くないと思い直したのだろう。すぐに頭を振って調子を変えている。
「何のレポートだよ?」
「ドイツ語!」
「他所へ行け、僕はフランス語選択だ!」
反射で拒否の声を上げた蒼。くつくつと笑って遣り取りをただ見ている久蓮は、いつの間にか横に立っていた範昭にその頭をはたかれた。
「いてっ」
「なに楽しんでんだよ」
「アイツ等サイコーじゃん」
半目でこちらを睨む範昭に、久蓮はちらりと視線をやって笑う。改める気は更々無い久蓮の態度に、範昭は呆れたように溜め息ひとつ。二人は再度、かわいい後輩たちの動向を見守った。
同じクラスの奴はどうした、と拒否する蒼だが、翔太は引き下がらない。
「……はぁ。……で? いつまでなんだよ?」
結局、蒼が折れた。
「明日の朝イチ」
「はぁ? バカか!? ……バカだったわ……」
「ひどい~。あお助けて~」
反射で突っ込んだ後に、呆れと諦めを混ぜたような声色で問う彼に、翔太は即答している。蒼は一瞬、固まり、詰る。どうしてもっと早くやっておかなかった?!、と。バカ、という蒼の言い種に、翔太は抗議の声を上げたが、言うまでもなく黙殺していた。
溜息混じりに、課題とテキストを開いて唸り始めた彼等に、範昭は感心したように口を開いた。
「結局助けてやるんだな」
「根は良い奴なんだよね~」
久蓮はくすくすと笑いながら続ける。
「てか、てめぇに聞けば一発だろ」
それは、そうだが。それでは、二人のためにならないだろう。
「えー? 教えてやんない。今はね」
「……相変わらず性格悪ィな、てめぇ」
「はっはっは。でしょ♡」
――――この流れだと、オレにとっては誉め言葉だよ、ノリちゃん。
にんまり笑んで見せれば、範昭は半目になって吐き捨てる。
ともあれ、折角の、蒼と部員たちが交流する機会、潰すなんて勿体ないだろう。
選択外の第二外国語をそうそう直ぐに理解できるはずもなかったようで。結局、真矢と真平の第二外国語がドイツ語選択だったと知り、彼等に泣き付くまで、蒼は翔太と共に唸り続ける羽目になったようだった。
*
夜も更けたグラウンド。日中の温度は吸われ切って、透明な空気が漂う。風もなく、静かな夜だ。しんと張りつめたようなこの空気が、久蓮は好きだった。
久蓮はここで一人、昼間は出来なかった、追い込みを行っていた。普段の練習で、皆に見せることはしないハイペース。彼等の前で、一キロ三分を切ったことは、まだ、ない。怪我を――悟られないために。
フォームならば、より脚に負担の少ないものに変えた。それでも、入部当初、当時のマネージャーであった雪沢祐介には、色々あってメニュー一本でバレたが。それから今まで、少しずつ、フォームを崩さずに走ることが出来るペースを上げてきた。
――――それでも。
久蓮は、徐々にペースを上げて、丁寧に己の状態を感じ取る。ペースはゆうに一キロ三分を切っている、現在一キロ二分四十五秒――。
――――流石に、……。
一層強く、その存在を主張する膝の痛みに、久蓮のフォームが僅かに軋んだ。それに、そもそも質を上げての練習をあまり積んでいない身だ。怪我とは関係なく、普通にキツい。
そんな苦痛は、珍しく、その表情にそのまま表れた。当然だ。今は、久蓮一人きり、隠す必要などないのだから。
――――まだ、いく。
まだ、耐えられる。もう少し、追い込みたい。今、走れるうちに――。
「そのくらいにしておきませんか」
スタートを切ろうと、脚に力を込めたその時、背後から声をかけられた。思わず、驚きに体が揺れた。他人が近付く気配に、全く気付かないとは、どれだけ集中していたのか。
振り返ると、そこには、ただ一人の先輩が、立っていた。久蓮は油断しきっていた己に苦笑する。苦笑と共に昴の視線を受け止める。彼は眉を寄せ、険しい顔をしていた。
「あはっ。……バレちゃった、――か」
*
「それにしても、……煽りますねぇ」
ダウンを終え、部室へと向かう、道すがら。隣を歩く昴は、今週の練習風景を思い起こしているのだろう。やや遠い目をした彼は、ぽつりとそう呟いた。脳裏に浮かぶのは、あの、蒼の様子だろうか。
「お陰で、オレしか見えてないでしょ」
自慢気な色を多分に含ませ、久蓮は笑った。先の不調はどこへやら、久蓮を鋭く睨みつける蒼の様子は、正に久蓮の狙い通りだった。荒れた蒼のフォローは、週の初めに久蓮の元を訪れた翔太に頼んでいる。
「嫌われ役は、お任せあれ♡」
「全く……」
にやりと笑むも、昴の反応は芳しくない。何かを言いかけ、それを飲み込んで零れた溜息に、久蓮は首を傾げる。
茶化して言ったそれは、それでいて久蓮の本心だ。世間一般に天才などと呼ばれる存在は、周囲から理解され難い。散々そういった視線を向けられ続けた久蓮は――最たるものは、他でもない我らが現副主将の、かつての反応だ――皆に寄り添うのが向いていないのは、重々承知だ。
久蓮は、圧倒的な力で皆に道を示すべきなのだ。――たとえ、嫌われようとも。そこには、多少の無茶もある。そこをフォローし、皆に寄り添うのが、範昭だ。
――――それで、いい。
「流石に、オーバーワークでは?」
いつもよりも入念に、アイシングをしている久蓮の横で、昴は補強やストレッチをしていた。咎める声は、心配からか。
「その脚……まだだめなんでしょう?」
「うん」
暫し沈黙。
「というより、もうダメ……かも」
「そんなに悪いのか?!」
「うん」
感情を抑えすぎて、平坦になった声。久蓮が浮かべた微笑には、諦念が乗ってしまっただろうか。昴には珍しい、純粋な驚愕。普段の丁寧な口調を保てていないその様子に、久蓮はやや意表を突かれた。
――――怪我の事、知ってたよね、昴サン。……ああ、そうか。
久蓮が昴と最後にあったのは、代表合宿。久蓮が高校三年生、昴が大学一年生の秋のこと――即ち、あれから四年だ。あの当時、久蓮の脚の状態が深刻なのは知っているが、未だにそのまま引き摺っているとは知らなかった、ということか。
「四年位ずっと、こんなん。これでも、良くなった方だケド」
「医者は?」
「こっち来たとき、手術すれば何とかなるとも言われたケド……。あの人がいつ現れるか分からなくて、ね」
久蓮がそう付け加えると、昴は眉を寄せる。
このまま行ったら、ダメだと分かっているけれど。常に明日起こるかもしれなかったそれに、どうしても抵抗する術を手放せなかった。――それだけだ。何度も、何度も、考えた。ただ、どうしても、逃れるビジョンが浮かばなかったのだ。だが、こうして多くの希望が集った今は――。
希望と絶望が、同時に襲い来る細い細い、綱を渡る、そんな心持ちだ。気を抜くと震え出しそうな、体を強張らせる。
さらり。頭にふわりとした感触が乗る。昴に撫でられたと気付いたのは、それが己のよく知る感覚だったからだ。
ちらりと流し見た昴の表情には、真剣な思案が浮かんでいた。それは久蓮を酷く安心させたのだった。




