13.宵の静寂に溶ける(天恵7年5月中旬)
久蓮の携帯が着信を告げたのは、今日のミーティングで皆に振舞う夕食を作っている最中のことだった。
コトコトと、とろ火で具材を煮込んでいる。今日は、洋風にミネストローネだ。皆に、野菜をたくさん食べてもらおうという魂胆である。ちらり、とディスプレイに視線を投げると、珍しい名前が表示されていた。
「――はい」
「よお、久しぶりだな」
早くも若干懐かしく感じる声が、鼓膜を揺らした。最後に会ったのは、昨年冬前か。部活でほぼ毎日会っていたそれまでを考えると、かなり久々だった。
「佑介センパイ……。もしかして、真平に会いましたね」
「おま、……ったく、相変わらずだな。――そうだよ」
「人間、そうそう変われませんて」
昨年まで極大陸上部で久蓮と共にマネージャーを務めていた雪沢佑介は、現在医学部六年生だ。実習と国試の勉強で忙しい今年は部を離れ、学業に専念しているというワケだ。
彼の用事を先回りすれば、溜息交じりの肯定が返る。久蓮は苦笑して、かつて告げたのと真逆の言葉を嘯いた。佑介は、気付いているのだろう。呆れたような溜息が聞こえた。
この先輩は、現在病院で研修中の身だ。病院で、現場のいろはを学んでいる。つまり、そこで真平を見かけたのだろう。そうでもなければ、この先輩は敢えて久蓮には連絡を入れてはこないだろうから。
「気を付けてやれよ、アイツ。オレやお前みたいにならないように」
「もちろんそのつもりです。――結果、悪かったんです……?」
「いや。軽症らしい」
「そうですか……」
久蓮は、安堵の息を吐いた。自身を追って、極北の地まで来てしまった彼を、これ以上苦しめたくはない。真平は努力を重ね、久蓮の高校在学中とは見違える程に力をつけたのだから。
「アイツ、焦ってる。視野が狭くなった時が、危ないんだよ――解るだろ?」
「……痛い程」
真平と佑介が話したのは、そう長い時間ではなかっただろうに。それでも佑介は、真平の真意をよく汲んでいるようだった。
「お前も」
「オレは――」
「無茶すんなとは言わねぇ――後悔すんなよ」
ふと矛先を向けられ、否定を返そうとした久蓮に、佑介はからりと笑った。あの頃から少しも変わらない佑介の優しさに、久蓮は静かに眉を下げた。
「センパイこそ。大事な一年――応援してますよ」
「ったく、バーカ。オレがミスるかよ」
「ははっ。ですね」
しんみりとした雰囲気を吹き飛ばす言葉を交わし、笑い合う。佑介には、入学してからこちら心配をかけ通しだが。部を離れて尚気にかけてくれることには、感謝しかない。
*
夕方。極大陸上部一同は久蓮の自宅マンションに集まっていた。
恒例のミーティング、いつものようにレースの反省と分析を進めている、いつも通りの光景――けれど、そこに混ざる異質な存在に、皆どこか落ち着かず集中しきれていない。無理もないのだ。予想だにしない箱根のスターの登場、なのだから。
――――ダメだね、こりゃ。
分析のデータ自体は手元資料や"久蓮ノート" に残すので、まあいいのだが。全ての話題が終わった後、久蓮は溜息交じりに口を開いた。この雰囲気を作り出した元凶――六連昴に視線を向けながら。
「で? もっかい聞かせてもらえます?」
「極北大学大学院生命科学院一年。六連昴、です。皆さんと共に走りたく、極大陸上部の一員となるべくお邪魔しました。――よろしくお願いしますね」
「――って、さ」
久蓮の言葉に、昴はぐるりと皆を見渡してそう告げた。途端に騒めく面々に、久蓮は片手で顔を覆い、嘆息した。どんな事情があるにせよ、昴が加わるというのは喜ばしいことなのだが。
「ま、信じてやって。ジョーダンじゃないらしいから。――はいはい、議題は終わりー。あとは好きにね」
久蓮は半ば投げやりに皆にそう告げた。ミーティングの後は、いつも皆部屋に留まって、勉強や雑談をしている。
思い思いの時間を過ごす彼らの気配を感じながら、研究の続きをするのが久蓮の常だ。作業をする己の姿を見つめる昴に既視感を覚えながら、久蓮は手を進めていた。
*
「なんとも、ありませんでした」
真平がそう告げてきたのは、もう遅いからと皆を追い出した後のことだった。
人が捌け、久蓮と真平ただ二人となった室内は、静寂が落ちている。真平が息を詰めている。久蓮はそんな彼の瞳を覗き込んで、その真意を探った。
「本当に?」
「はい。溜まった疲労で炎症が起きたのだろう、――と」
久蓮の問いに、返ってくる答えは淀みなかった。その表情を、静かに見つめる。
――――嘘、じゃない。
けれど、大したことではないと思っている。だから、走れると。
「……信じるよ? それ」
「走れます」
揺らぎなく主張する真平に、久蓮は視線を数度往復させた。暫し黙してこれからのビジョンを描き直す。そんな様子を、強く見つめ続ける真平は、強い意志を宿していた。その瞳の中に、焦りの感情が滲んでいることに気付いた久蓮は、内心で嘆息した。
――――佑介センパイの言う通り、ってワケね。仕方ない。
「――分かった。ただし、ポイント練習以外は減らすこと。それと、ケアの時間を増やすこと」
「分かりました」
小さく溜息を吐いて、久蓮は静かに言葉を紡いだ。
本当は、痛みがある間は走って欲しくないが。そう言っても、目の前の後輩は納得しないだろう。それならば、こうした方が良いというものだ。それでも久蓮は、真平の様子に、嫌な予感を拭い去ることが出来なかった。
*
透き通った、夜を撫でる風が心地良い。
定例のミーティングを終え、久蓮は一人グラウンドへと歩を進めていた。今日はもう、走るつもりはないが。少し、身体を動かしたかったからだ。自己主張の激しい左膝は、歩けば更にその存在感を増している。
果たして、グラウンドには先客が居た。それは、先日姿を見せたばかりの、遅れてきた新入生だった。こんな時間に、独り、強度の高い――それでもかつての彼とは比べるべくもないが――練習をしているとは。その走りに、リズムではないノイズを感じ取った久蓮は目を細めて昴の元へと向かった。
ぜい、ぜい、ぜい。
暗いグラウンドの静けさを切り裂く異常な呼吸音。トラック脇に倒れ込んで己の呼吸が整うのを待っている昴。傍に置かれている審判台に背を預け、腕を組んで暫し彼を見つめる。久蓮が近付いたことに、昴は気付かない。それ程までに――。
「それ、だったのか」
低く抑えた静かな色で、久蓮は彼に声をかけた。ぴくりと、昴の身体が揺れる。その一言で、昴は声の主を確信した様子でこちらを振り向いた。
ぱちり。視線が絡んだ。どこかバツの悪そうな表情。
「知らなかった」
画面の向こうとは言え、ずっと、見てきたのに。呟きひとつを、低く、落とした。
「アンタ程の男が極北大来るなんて、何かある、とは思ったケド」
「聞かないで、は、くれないよな」
さわり、と夜風が二人の間を通った。
グラウンドに昴と二人きりという状況に、久蓮は既視感を覚える。かつて彼と競った時期。彼も同様に感じているのだろうか、口調が昔のそれに戻っている。
「あげられないね」
久蓮は苦笑する。
「オレは主将だからね」
そんな久蓮に、昴はひとつ溜息をつくと、ぽつりぽつりと話し始めた。
極度の、運動誘発性喘息。基本的に、運動によって起こる、昴は自身の症状をそう説明した。
「いつから?」
「大学三年の、夏」
「それでか」
皆にバレたのは、インカレ直後。不調自体は、二年のころから少しずつ感じていたという。昴のその説明に、久蓮は納得する。当時、昴が全くレースに出ていない時期が数ヵ月、あった。怪我かと思っていたが、まさか、そんな事態になっていたとは。
チームを背負って、一体どんな想いで走ってきたのか。そして、どんな想いで極北に来たのか。想像は、容易につく。久蓮には、選べない、辞めるという選択肢。その覚悟を揺るがしたのは。
――――オレ?
「走れるの?」
「走るさ」
真っ直ぐに昴を見つめながらに久蓮は問うた。その声には、隠しきれぬ心配を滲んでしまった。昴が、僅かに眉を寄せた。
視線を反らすことなく、昴は応えた。可能かどうか、ではなく精神論を唱えた彼の、その、真意は――。
――――俺のことは、気にしてくれるな、と。そういうコト……だよね。
「いいんすか?」
だからこそ、久蓮は問う。
「オレはアンタを傍観者にはさせられない」
「久蓮……」
そんなことを言われたら、久蓮は昴に期待してしまう。久蓮の目的を果たすための、最強のJOKERとして。悔しいが、今の久蓮には、そこに、昴自身の事情を考慮する余裕は――ない。
「あぁ。元よりそのつもりだ。俺がお前の前に姿を見せたその時から」
「――そう」
――――あぁ、どうしてアンタは、いつも……。
なんだそんなことか、と、昴は、晴れやかに笑みを浮かべ、頷いた。どうしてこの青年は、いつもいつも、久蓮の欲しい言葉をくれるのだろうか。久蓮は視線を外し、俯いた。そんなこの青年を、自分は。
嘲笑が零れる。
「……、……ごめん」
「望むところだ」
暫しの沈黙の後小さく絞り出したそれは、同時に昴の力が必要だという、久蓮の精一杯の救難信号だった。
力強く、告げられた台詞に、久蓮は思わず顔を上げ、昴を見つめた。彼はただ、自信に満ちた、いつかのような笑みを浮かべていた。
くらり、と既視感が久蓮を襲った。最後に会ったあの日、退くことも出来ずに壊れた脚を抱えて蹲っていた久蓮に、この男は言ったのだ。
――――"どうせ諦められないのなら、覚悟を決めろ。お前らしくもない。勝って、乗り越えたら、そのときは。また走ろう、あの一瞬の永遠を共に。それまで俺は、お前を超えた最強の座で、お前を待っている"。
――――結局、オレは。この先輩の力を借りることになるのか。
感じている安心感に身を委ねて良いものか判じかねて、久蓮は目の前の先輩から目を反らした。静寂。宵の静寂の中、昴が己を見つめている気配だけを、久蓮はただ感じていた。




