12.馬鹿、は承知の上だけれども(天恵7年5月中旬)
ヘッドフォンをしてひたすらにキーボードを叩く。BGMは、疾走感のあるポップ。盛り沢山の北海道インカレの翌日。久蓮はデータ解析のプログラムを組みながら、今後の練習に思いを馳せていた。
そんな久蓮の肩を叩いたのは、ドクターの先輩である唯だ。久蓮はヘッドフォンを降ろして、手は止めずに唯を振り仰ぐ。
「篠崎くん。後輩くんが来てるよ」
「後輩、くん……?」
扉の方を指しながら言う彼女に、久蓮は首を傾げた。心当たりは、ほぼ、ない。すぐ向かったほうが良いのだろうが、今取り組んでいるプログラムを走らせてしまいたいのだ。
「待ってもらうように言ってくるよ」
「入れてあげなさいな」
久蓮の心情を察した唯が踵を返そうとしたところ、教授から声が掛かる。いいのか? と、思わなくもないが、教授の許可が降りたなら問題ないだろう。久蓮は礼を告げてまた画面に没頭した。暫くすると、客人の気配がやって来た。
「声掛けても大丈夫だよ」
「えっ、でも……」
さらりと唯が告げる。
言い淀む声に、久蓮は目を見開いた可能性は有るとは思ったが。躊躇が前面に出ているが、その声は翔太だった。彼の躊躇に、唯は笑って宣う。
「大丈夫大丈夫。この子頭おかしいから」
「唯ちゃん先輩ひどっ」
さらりと吐かれた台詞に、思わず声を上げた。画面から視線を外さぬまま、だが。彼女の真意は、"篠崎くんは作業しながらでも会話とかは苦にならないから、気にせず話しかけていいよ" ――なのだけど、言い換え方が酷い。まあ、別に構わないのだけれど。
「よお、モモ。お前だったとはね。ということは、蒼のことか?」
話し掛け辛いだろうと、久蓮は先んじて声を掛ける。訪問者が翔太だと分かった以上、このタイミングで思い付く用件は一つだ。
振り仰いで表情を伺うと、案の定、首肯だ。そうなると、ながらで話を聞くべきではないだろう。久蓮は、彼に時間潰しをしてもらうことにする。デスクトップを軽く操作してYouTubeを開き、翔太の側に向けた。そしてまた、今まで弄っていたノートパソコンへと意識を戻して口を開いた。
「となると……ちょっと待ってな? この時間からここへ来たってことは、時間は有るだろ? 悪いけど、これ見ながらちょっと待ってて」
「なんですか?」
「今年の箱根ダイジェスト。お前、六連昴知らなかっただろ? それに映ってるから。青谷九区な」
「私も見たーい」
「どれ、僕にも見せてください」
「教授まで……どうぞ」
時間潰しついでに、あの"新入生" の実力を知ってもらえれば、正に一石二鳥というもの。
唯と野々口の言葉で、唐突に始まったプチ鑑賞会。その映像は、かなりの衝撃を与えたようだ。視線を向けなくても、翔太が惹き込まれているのがよく分かった。
「蒼みたいだなぁ」
「お、モモ、鋭いなー。似てるよな。アイツらのアグレッシブな走りは」
「ふむ。…もっと似ている人物を、僕は知っているんですがねぇ」
「……」
ぽつりと呟かれた翔太の言葉を、作業を進めながらに拾う。続いた野々口の言葉には、沈黙を返す。その視線は、こちらへと注がれていることだろう。
「六年前のインハイ五千メートル。僕は忘れられないんですよねぇ」
「六年前?」
「もう六年になるんだよな……昨日のことのようだ」
野々口の言葉に、久蓮の視界一杯に、当時の光景が広がった。その鮮烈な記憶は、もしも久蓮の頭脳がこうでなくても、容易く思い起こせるだろう。それほどに大切な、久蓮の宝物だ。
口の中で転がすように呟いた響きは、甘く自身の鼓膜を揺らした。
「観客が忘れられないのだから、本人たちはどれほどなのでしょう」
「昴サンに聞いてみたら?」
更に言葉を引き出そうとする野々口に、ちろりと視線を流した久蓮は、すぐに視線を画面に戻して告げた。
「彼、最近見ないんですよね。何処のチームに入ったのでしょう……」
「居ますよ、そこに」
「え?!」
天井を指しながらそう言えば、その意味を理解したのであろう野々口から、驚きの声が上がる。
「ええっ!?」
「――!!」
無言で頷けば、更に驚愕の声。そして、負けず劣らず、驚きに声を失っているらしい翔太の気配を感じる。混乱する二人を尻目に、作業完了のenterキーを押した久蓮は、珈琲を淹れるために席を立った。
*
「悪いね、お待たせモモ」
「突然来ちゃってごめんなさい」
翔太の前に珈琲カップを置き、自らの分を片手に、久蓮は席に着いた。目の前に置かれたカップから深煎りのコーヒーのいい匂いが鼻を掠める。ふわりと香る芳ばしさに、幾らか落ち着いたらしい翔太。
久蓮は静かに目を伏せて、翔太の切り出しを待った。
「おれは、蒼は走りたいんだと思うんです」
言葉を選びながら、翔太はゆっくりと切り出した。走りたいから、ここにいる。それなら、走ればいい。それだけのはずなのに、どうして、と。
「ははっ、ほんと、その通りだよ、モモ」
翔太は、正しい。走ればいいのだ。走りたいなら。そう、出来れば――それはどれだけ幸せなことか。半ば心折れながらも、そでれも諦めきれずにこうしてここに居る久蓮には、蒼の気持ちもまた、よく解るのだ。
「けどな、しがらみってのは多いものさ。蒼みたいな才能の有る奴なら尚更な」
「難しかったか? そうだなぁ――モモはフォワードだったろ? ゴールを決めたい。当然、相手ディフェンスは邪魔するよな」
ピンと来ていない、と顔に書いてある翔太に、久蓮は薄く苦笑した。なんと例えるのが解り易いか。少しの間、思案して、言葉を続けた。
翔太に解り易いといえば、やはり慣れ親しんだサッカーだろう。久蓮は、翔太の瞳を覗き込んだ。真摯な表情で首肯した彼に、久蓮は緩く微笑んで続けた。
「正当に守備する奴もいれば、ユニフォームを掴んで倒してでも止める奴もいる。同じだよ。そういう奴は存外居るものさ。敵でも――チームメイトでもな。蒼はそんな環境に嫌気がさして、走り止めるために極北へ来たんだろう」
「それじゃ、」
「それは違うね。きっかけは何であれ、結局のところ、蒼は自分で選んでここにいるのさ。――だから、モモは間違ってない」
引き込んだのは、悪いことだったのか、と目を伏せる翔太の思考を、即座に打ち消す久蓮。それは、紛れもない本心だった。翔太は、自信を持っていいのだ。そして――。
「支えてやって」
力強く頷いた翔太に、久蓮は柔らかく微笑んだ。翔太だからこそ、出来る支え方がある。それは、このチームで他の誰にも出来ないことだ。
「……久蓮さんも、蒼と同じ……?」
「オレ?」
沈黙の末、ぽつりと落とされた問いに、久蓮は僅かに瞠目した。
「オレは、違うね。オレはチームメイトには恵まれてたから。オレには勿体無いくらいだ、――今もね」
「久蓮さん……」
「それにオレは、走り続けるためにこそ、極北へ来たのさ」
久蓮の事情は、蒼とは違う。チームメイトとの軋轢で、走ることにすら疲れてしまった、蒼とは。
告げた言葉に、翔太が目を瞠った。蒼などより、自身の方がなお悪い。自身の望みの為に、皆を利用しようというのだから――。
*
――――これは、混乱させちゃったかね。
また夕方ね、と。そう言って翔太を送り出した院生部屋で、久蓮は溜息を吐いた。
桃谷翔太は単純だ。――いや、純粋、だろうか。久蓮のように走りたいと言って、それまで続けてきたサッカーを潔く捨てた、彼。久蓮の走りを、たった一度見ただけで。そんな真っ直ぐな彼は、本人さえ自覚しているか分からない蒼の心理を見抜いた。助けて、走りたい、という、その悲鳴を――。
「純な、子でしたねぇ」
ことり。己の後輩を送り出して仕事に戻った久蓮に、野々口が珈琲を淹れてくれた。深煎りのこの豆は久蓮のお気に入りだ。礼を告げて一口。
「その、純なアイツを、焚き付けてくれちゃって」
「君が、六連くんと如月くんばかり推すものだから、つい」
その口ぶりは悪びれなく。顧問として名を貸してくれてさえいる、駅伝ファンのこの教授は、いまだ久蓮のファンなのだと公言して憚らない。久蓮は溜息を吐いた。
「秘密って訳じゃないから、いいんですケド」
ただ、その話題に、過去に引き戻される自分が嫌なだけで。
走り続けるためにこそ、極北へ来たのさ、と。翔太に告げたそれは、紛れもない久蓮の本心だ。色々な言葉で、態度で武装した久蓮の根幹。
「……オレは、アイツらとは違う。オレは、アイツらを利用してるだけだ」
絞り出されて、落ちた、苦悩。作業の手を止め、ずるずるとデスクに伏せる。皆に告げた台詞だって、久蓮の本心だ。ただ、多くのことを語っていないだけで。
掠れた、情けない声だ。それぞれの事情を抱えて、この極北の地に流れ着いた彼らを、久蓮は自分の事情に巻き込んでいる。今度も上手くいく保証なんてないのに。あの人を、名実共に敵に回すのは初めてだ。どうなるか分からない。高校時代とは違う。それなのに――。
ぽんぽん、と。あやすように頭を撫でられる。
「全く、君は。馬鹿ですねぇ。あの顔を見ても、そう考えるとは」
呆れたような声色。
久蓮の心配とは、目標云々の話ではなく、もっと物理的な何かが起こらないかどうかなのだが。しかしその言葉だけで、少し肩が軽くなったのを、久蓮は感じた。体を起こして仕事に戻る。
「あれ、まだいたの。」
実験室から戻った唯が宣う。呆れた様子を隠そうともせずに、唯は溜息を吐いた。
「今日夜中からいるんでしょ? そんなだから悪い方向に考えちゃうんだよ。……まったく、さっきまでの先輩風吹かせてた君はどこに行ったの」
「だって、唯ちゃん先輩。カワイイ後輩があーして悩んでるんだから、先輩風のひとつも吹かせたくなるってもんでしょ。……てか、今日忙しいのは、唯ちゃん先輩の学会用のデータ出すためなんですケド」
「あー……ゴメン☆ 感謝してまーす」
久蓮が口を尖らせながら抗議すると、唯は苦笑した。
「そう言えば。近々走るそうですねぇ」
「今週末、ですね。記録会で五千メートルを」
さも、今思い出した、といったていで教授が切り出した。恐らく、翔太の口から語られた時から気になっていただろうに。……いや、確実に。久蓮の思考が浮上するのを待っていたために、このタイミングだったのだろうが。
秘密にしていたワケではない。ただ、積極的に話していくものでもないと思ったのだ。……いや、駄目か。何かと助力してくれている教授に、それは。
「如月くんの為ですか?」
――――蒼の、為?
「そう、とも言える、のか? オレの為だと、思ってましたが」
「……」
久蓮の自信なさげな返答は、笑顔で黙殺された。
「それは観に行かないといけませんねぇ。唯さんもどうですか?」
「時間による……けど、見たいですねー。カッコいい篠崎くん」
「ははっ」
ほくほくと話を進める二人に、突っ込み辛い久蓮は苦笑する。
「万全なんですか? 準備の方は」
ふと、纏う空気を真剣なそれに変えて、教授が問うた。
準備。……準備、か。正直、全くだった。たまに夜中に隠れて練習しているくらいだが、脚は相変わらずである。まあ、それこそ五年近く、痛くなかったことなど無いわけで、ちょっと走るぶんには問題ないだろう。問題は、今回のレースは"ちょっと走るぶん" では済まないことなのだが。
「教授なら、知ってるでしょう? ――"無敗の帝王は外さない" ……ってね」
努めて不敵な表情を貼り付け、久蓮は笑んだ。外さない。いや、外せないのだ。蒼を復活させるのは最低限。そろそろ、帝北大に挑む為の光明を皆に示さねばならないだろう。
――――結局のところ、助力は貰っても、寄り掛かることは出来ないのだ。オレという人間は。
自嘲混じりに肩を竦め、久蓮は先程のプログラムから返ってきたデータの検分を始めた。




