11.塞翁が馬、とは言うけれど(天恵7年5月中旬)
六連昴との付き合いは、遠く六年前に遡る。
当時の久蓮は、ムーンベルク期待のルーキー――深松誠司に憧れて飛び込んだ陸上競技の世界で、突きつけられた無敗以外にはさしたる目標もなく、揺蕩っていた。憧れた色彩への辿り着きかたには、皆目見当がつかなかったから。
涼太郎や瞬、そしてチームの皆を焚きつけながら、漠然と勝利を追っていた、あの頃。けれど、そんな面白味の薄い日常を、切り裂くようにして、彼は現れた。
小さな画面に映し出された、一年前の彼――六連昴の勇姿に、久蓮はただ息を呑んで魅入られた。その衝撃は、さながら深松誠司を見た時のそれだ。走りを、心の底から楽しんでいるその姿が、とても――。
そして、邂逅の時はあっさりと訪れた。忘れもしないその年のインターハイ、五千メートル。それは今も尚、自身の最高のレースと胸を張れる。
その後、久蓮が高校を卒業するまで、なんだかんだと続いた関係は、ずっと久蓮の支えだった。久蓮を救った枷――あの約束も、全て――。
*
視界に映るその姿は、数ヵ月前とは変わり果てていた。テレビ中継で、大学に上がってからも幾度となく目にした、その姿とは――。
黒かった髪は染め上げられ、明るいミルクティーのような色をしている。眼光鋭かったはずの灰緑色の瞳は細められてその姿を隠し、眼鏡の奥で揺れているのみだ。
――――大学院デビュー……ってか?
ここに居る誰一人として、あんなにも有名なこの青年に気付かないとは、情けない。
――――って言いたいとこだけど、気付け、っていうのは無茶かね、これは。
まるで、別人である。何かありますと公言しているかのようなその姿に、久蓮は目を細めた。
「ホー。やはり君にはバレますか、篠崎久蓮、さん」
「なにその口調キモチワルイ」
「酷いな」
良く分からない丁寧な口調に、久蓮は反射的に突っ込んだ。作ったような柔らかさに、ぞわぞわと鳥肌が立つ。両腕を擦って目を細めている久蓮に、昴は目を開き、苦笑ひとつ。途端に昔の雰囲気を覗かせる彼に、久蓮は内心嘆息した。
――――やっぱり、演技か。カンタンに昔の口調出してくれちゃって。
しかし、この時期にこうして、こんなところに現れるとは。どうして、等と問いを投げたものの、久蓮はその理由に簡単に思い至ってしまった。ふるり、と震える身体をいなして、目の前の青年を見つめる。
状況の理解に苦しんでいる部員達を見回し、笑みを浮かべた昴は、ゆっくりと息を吸って言い放った。
「はじめまして、極北大学大学院生命科学院一年。六連昴、です」
よろしく。今日から、皆さんの仲間に加えてほしいのです。
にっこりと、昴が口にした、そんな言葉。唐突なその展開が、もたらしたのは暫しの沈黙。
――――いやいやいや。
久蓮が吐いた呆れ混じりの溜息だけが、しんとした場の空気を揺らした。それを皮切りに、漸く事の次第に気付いた面々は騒ぎ出す。この時ばかりは、久蓮は、皆の心情に心底同意した。
誰が思うだろうか。名実ともに、箱根の王者の座に、四年もの間君臨し続けていたこの青年が、こんなところに現れるなど。
「六連昴?!」
「って、あの?!」
――――人間万事塞翁が馬、なんて言うけどさ。
この展開は、望んでいなかった。
騒然とする面々――新入生二名を除く――の反応に、僅かに眉を下げた昴を見遣って、久蓮は再度嘆息した。
*
「どういうつもりです?」
「何がですか?」
あの騒動の後、解散の挨拶もそこそこに、久蓮は昴の襟首を掴んで競技場に程近いファミレスに入っていた。
昴の真意を聞き出すこと、それが目的だ。飄々とした態度で逃げさせはしない。皆の居る場で問われなかっただけ、親切だと思って欲しいところだ。そんな久蓮の意図を理解しているだろうに、構わず惚けてくる昴に、ジト目を向ける。
――――メンドクサいなー。……解ってるクセに。
「……。アンタ今頃ムーンかキヨタででも走ってんのかと思ってましたよ」
久蓮は溜息混じりに言葉を付け加える。このままでは話が進まない。久蓮はこの男と今、心理戦をしたい訳ではないのだ。今日はもう、いろいろと疲れた。
久蓮が挙げたのは、いずれも強豪実業団チーム。"王者"青谷学院大で主将、そしてエースを張っていた昴ならば、少なくとも、極北大で院生なんぞやっているよりかは、よっぽど想像に難くない姿だろう。
「研究、したかったんですよ」
「――嘘ではない、か」
ぽつりと、久蓮から視線を離さずに落とされた、言葉。絡ませる視線に鋭さが混じる。昴の答えに、暫しの後、断定の形で加え吐き出した久蓮の台詞は、きっと間違いなく、正解だ。
「でも、真実でもない。――だよね」
「……」
「まあ、いいや。……走りはウソをつけないですから」
「怖いな」
強く、強く、静かに。久蓮の瞳が、昴を射る。誤魔化すことは、赦さない。適当な言葉を並べられるくらいならば、こうして沈黙を守られた方が、いくらかましだった。
視線を切って、久蓮は言う。昴が極北にいる――そんな異常事態の答えは、きっとすぐに見えてくる。久蓮に隠し通せるほどに些細な事情ならば、きっとこの青年はここにはいない。真顔で告げたその言葉に、ぽつりと素の呟きを返して苦笑を浮かべる昴。君が言うか、と、声にこそ出されていないが、そう詰られているように久蓮は感じた。
――――こんな展開は、望んでなかった。
なぜならば、昴はもう、あの時の昴ではないのだから。昴は、久蓮が極北に居ることを知らなかった。知っていたら、とっくにコンタクトを取っているハズだ。つまり、彼が極北に居ることは、陸上とは関係ない。
あれだけの成績を残しておきながら、実業団に進まず極北大に来た昴が、入部するには些か中途半端な五月中旬にこうして、かつての彼とは変わり果てた姿で現れた。何か事情がありますと公言しているのと変わらない。
つまり、何らかの不調で陸上を諦めるために、戻れない道を選んだものの、久蓮を見つけてしまった昴は、こうしてここに立っているのだろう。一度は反故にしかけた、約束を果たすために。
――――オレが追い付く、ハズだったのに、なあ。
久蓮が大学三年間、走っていない間に追い付き、追い越した昴の記録を、自由を手にして塗り替える。そして、また、最高の勝負を――そう、願っていたのだが。
久蓮を見かけたから、こうしてここに立っているのだとすれば。極北の地での久蓮の走りは、昴の目にはどう写っただろうか。
彼の記憶に残るそれとは変わり果てた走りに――変わらざるを得なかった理由に、彼は何を思ったのだろうか。
――――傷の舐め合いだけは勘弁。
「――それで。どうすんのさ、アンタ」
「ん?」
それでも頼もしいということは、確かなのだ。昴がチームに加わってくれるというのは。そんな本音を隠して、投げ掛けた端的な言葉は、昴のこれからの事を問うている。
「あんな登場しちゃってさ」
「……」
「期待しちゃうよ? ウチの奴等は」
――――"六連昴" を求められて。今のアンタは、期待に応えられるの?
否が応でも、"青谷主将の六連昴" ――そのイメージは付いて回る。けれども、陸上を辞め極北にやってきた昴は、今も尚走れるのか、と。
どの程度、戦力に数えて良いのか、と。
「――お前は?」
「さあ。どうだろうね」
敢えて除外した、久蓮自身の意思。今の言葉に含まれた思いを、昴は目敏く見つけて問うてきた。久蓮は曖昧に笑う。
――――だって、期待しちゃうじゃん。ココから、掬い上げてくれるんじゃないかって。
「――しろよ」
「……」
――――やだ。
「俺に期待しろよ、久蓮」
かつての、六連昴がそこに居た。高校時代幾度となく共に走った、あの時の、昴が。無言のままに浮かべられた笑みが、久蓮に語りかけてくる。瞠目する久蓮を見て、昴は満足気に微笑んでいた。
――――"解るか? 久蓮。俺には、自信しかないぞ。お前と走るなら尚更な"。




