10.成功と計算外(天恵7年5月中旬)
昨日の強い雨が、嘘のような快晴。そんな本日、極北大の面々は北海道インカレの二日目を迎えた。
我がチームの二日目初めのレース、男子八百メートルを控え、久蓮はベンチにてプログラムを繰っていた。昨日のこともあり、より一層ベンチに居づらさを感じているのだろうか、蒼が独り、何処かへ向かおうと立ち上がるのが見えた。
――――さて。
独りにはさせるものか、と久蓮は笑みを浮かべた。
「あーお♡ お前はこーっち♡」
久蓮は立ち上がると、蒼へと向かう。
背後に立ち、努めて非常に甘ったるい声を出す。反応して振り向いた蒼に、がっしりと肩を組む。そのままズルズルと引き摺っていく。久蓮の強引な連行に大人しく従っていた蒼だが、観客席の裏通路に入ったところで、回していた腕を外された。
「逃げませんから」
「ん」
蒼の言にまろく笑み、すたすたと進んでいく。無言で付き従う蒼を引き連れて、目指すは、ゴール地点――即ちは、8八百メートルのスタート地点だ。
「よー、皆サン、元気してる?」
「久蓮さん!」
「先輩!」
緊張感漂うスタート前のそこで、固まって時を待つ自身の部員達に、久蓮は明るく突撃した。中でも先日の千五百メートルT.T.で大爆死したからか、翔太は若干青褪めたような固い顔をしており、思わず苦笑した。久蓮の姿を見て、いくらか表情を明るくした三人に、一人ひとり声をかけていく。
「モモ」
顔色の悪い翔太に、久蓮は悪戯っぽく、そっと耳打ちをする。
――――授けるのは、魔法の言葉。……なーんて、ね。
そして、黙ってその様子を見ていた蒼の背中をとん、と押した。蒼は、昨日の諍いを気にしている。そんな気まずそうな顔をするくらいに気にしてるならば。謝るのは今、でしょ――そんな意味を込めて。
「その……昨日は悪かった……。……頑張れ」
「うん!!」
そんな久蓮の意図は、しっかりと蒼に伝わったようだった。言い淀んだ挙げ句、気まずさから目を逸らして告げられた、そんな蒼の謝罪。それでも翔太は、満面の笑みで答えた。上出来だ。
コールがかかり、選手たちはトラック内へと向かっていく。彼の姿には先程までの不安はない。
「さんきゅ、蒼。おまじない完了、だ。――じゃ、行こうか」
歩いていく翔太の姿を視線に捉えたままに、久蓮は蒼に声をかけた。そのまま踵を返せば、小走りで追ってくる蒼の気配。それを背中で感じながら、魔法を現実にするために、久蓮は移動する。
「何て言ったんですか?」
「んー?」
パァン、と。蒼がそう問うたとき、号砲が鳴り響き、レースが始まった。一斉に走り出す選手たち。レースの立ち上がりを見た蒼が、ぽかんとした声を上げる。
「あ、れ?」
「――"集団の一番後ろで走れ"」
きっと、先のT.T.同様の、怒涛の突っ込みを予想していたのであろう。唖然とする蒼ににやりと笑みを流し、久蓮はタネを明かし始めた。瞠目する蒼を連れ、二百メートル地点の、少し手前の位置に陣取る。
「――そして、」
二週目に入った翔太が、バックストレートの終わりに差し掛かったところで、久蓮は再び言葉を続けた。彼が目の前を通過、――する。
「モモっ、いけーっ!!」
その声は、確かに届いた。はっとした様子を見せた翔太は、次の瞬間弾かれたようにスパートをかけた。
「"オレの声が聞こえたら、とにかく飛ばせ"。――ははっ、やっぱ、スピードは一級品だな」
翔太は、ぐんぐんと順位を上げている。この春、陸上を始めたばかりの彼が。やはり、翔太のスピードは、天性のもの。走り方を覚えて、鍛えれば、すぐに全国区の選手たちと渡り合えることだろう。そして――。
ちらり、と、久蓮は隣に立つ青年を視界に映した。痛快に疾走していく翔太を見つめる蒼には、羨望が色濃く浮かんでいて、久蓮はひっそりと笑みを深めた。
――――成功。
*
八百メートルの結果を見届けた久蓮は、一人ふらふらと競技場を歩いていた。残るレース、男子一万メートルの定刻までは、まだ少し時間がある。外周では、出場選手達がアップをしているところだった。行き交う選手達の外れ、いつもより早くにアップを済ませた真平の姿を見とめた久蓮は、彼に声をかけた。
「早いね」
「……ええ、まあ」
――――アレ?
「かましてきますから」
「そ? 期待しとく」
ただの緊張と断ずるには、些か違和感を覚えるその反応に、久蓮は内心首を捻った。けれど、続いた言葉は、闘志に満ち溢れていた。やる気と決意に満ちた視線をぶつけてくるエースに、久蓮は口角を上げて応えた。
更衣室のある方へと向かっていく彼の背を見送りながら、久蓮は思考した。
「不安?」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと零す。
では、何に対しての、不安なのか。真平のあの、反応は、もしかして。自身の考えすぎだと、そう考える反面、どこかでそれが正しいと警鐘を鳴らす自分が居ることを、久蓮は自覚している。アップの切り上げが早かったのも、それに言及したときのあの濁し方も。
「……怪我……」
先の強い瞳を思い出す。決定的な証拠の無い今、止めたところで真平は納得しないだろう。思い過ごしならば良いと、久蓮は不安を打ち消すように、もう一人の出場選手、夜神真矢の姿を探した。
「主将」
「今からかな?」
果たして、真矢はやや外れの木陰に腰を下ろしていた。久蓮と同じく、もともとアップの量の少ない真矢は、いつもレースギリギリにアップをしたがる。今日も、これから動き始めるところのようだ。
「今日は、攻めてみな」
「結果潰れても?」
「オッケーよ」
真矢は、瞬間弱気な顔を出したものの、すぐに瞳に光を宿した。
元々ロング向き、一定ペースで押していくことは得意の真矢だが、この冬を越えて、どの程度通用する力を付けたのか、実感を持って欲しいところだ。久蓮は敢えて細かい要求はしないことにした。
「行けるとこまでいってみよっか」
黙したまま、強く頷いた彼に、久蓮はにやりと笑った。アップへと向かっていく真矢を見送り、久蓮はまた一人歩き始めた。
*
辺りに響く号砲を、久蓮は第二コーナーの辺り――千五百メートルのスタート付近で一人聞いていた。遂に、男子一万メートルが始まったのだ。
「しーんぺいせんぱーーい、ファイトー!!」
「真矢ーーーッ! ついてけッ!」
範昭や翔太の応援の声が、他校の声援に紛れてここまで微かに届いている。極北大の面々はスタンドにある自陣でまとまって応援しているようだ。皆から僅かに距離を開けて、静かにレースを見つめている蒼の姿もそこにあった。
「全く……」
その頑なな態度に、久蓮は苦笑を零した。まあ、独りどこかに行っているよりは、いい傾向だろう。久蓮は苦笑しつつ彼等を見やると、またレースへと意識を移した。
「て、か……これは、アウトだな。――右足首、か? くそ、気付けなかった……」
一見快調にレースを進めている真平を見て、久蓮は顔をしかめた。平時を装う彼の走りは、それでいて常と異なる。僅かにストライドが狭まり、リズムにも、常にない僅かな雑音が混じっていた。
既に五千メートルを過ぎ、レースは終盤に差し掛かっている。先頭は帝北の皇と、続いて那須、極教の悠、そして真平と続く。レース前の宣言通り、真平に引く気は無いようだ。久蓮は眉を寄せた。入賞の懸かった展開に、ベンチの声援にも熱が入っている様子だ。
「オレ、だよねぇ。無理させてるのは」
帝北大の二人に続き、悠に追いすがる真平は、彼をまくろうとラストスパートをかけている。久蓮は真平を迎えるため、ゴール地点へと移動した。
*
久蓮がゴール地点についたとき、悠に僅かに競り勝った真平が、三位でゴールしたところだった。チームのエースの快進撃に、極北ベンチは沸いている。
久蓮がいることに気付いて向かってくる真平に歩み寄り、ゼッケンを外す作業を手伝った。ぽん、と頭に手を置き、まずは己の後輩を労う。そしてすぐに僅かにトーンを下げて続けると、真平は小さく身体を揺らした。
「みゃーちゃんに競り勝つなんて、ホント、速くなったね」
「やり、ました」
「けど。――明日、病院行ってきな」
「っ、はい……」
酷くなってからでは、復帰に時間がかかってしまう。途端に落とされた肩に手を置き、久蓮は今丁度ゴールした真矢の元へと向かった。
手元の時計では、真矢のタイムは三十分二十一秒――自己ベストだ。
昨年晩秋、一万メートルを走る機会が少なく、彼の実力に記録が伴っていなかったので、今回のベストは、必然と言えば必然だ。それでも、しっかりと着実にいい記録を出してきたことは大きい。
「お疲れ、ナイスラン」
「主将……」
「いい走りだったよ。特に後半。流石の粘りだったね」
「何番でしたか?」
ゼッケンを外す手伝いをしながら声をかける。そうしてかけられた問いに、久蓮は目を瞠った。あの真矢が、自分の順位を気にするとは。
高校時代に、勝負に関して色々あったのであろう。入部当初の翳った瞳に揺れる恐怖は、自らに蓋をすることで隠されていた。この春、久蓮がそうさせてしまったとはいえ、嫌でも勝負を意識させる目標に、戸惑いと恐怖を抱いていた様子の真矢だが。いつのまにか、乗り越えつつある、のだろうか。
「六着」
久蓮は微笑んで答えた。
今回のレースで、少しは実感できるといい。真矢はもう、昔の真矢とは違うのだ、と。真矢のスタミナは、このレベルアップした北海道でも、通用する。そして、この武器を研ぎ澄ましていけば、もっとずっといい勝負ができるのだ。
「ダウン行ってきな」
「はい!」
ぽん、と労いの意を込めて肩を叩けば、真矢はしっかりと頷いてダウンへと向かっていった。
*
軽症ならば、良いのだけれど。
自陣に戻る道すがら、久蓮は計画を修正するために思考を巡らせた。駅伝には、八人の選手が必要。人数が八人ギリギリという現状、真平の欠員は、そのままチームの欠場を意味するワケである。
いずれにせよ、診断待ち、か。痛む頭を押さえながら、皆の元へ到着した久蓮は、顔を上げ――そこに在る違和感に思わず動きを止めた。
――――え。
瞠目する。
己の部員に紛れてそこに立っていたのは、自身の記憶からは随分様変わりした、けれども、久蓮が決して見間違えるハズの無い――。
「どうしてアンタがここにいるの?」
思わず眉を顰めて問う。彼は、決してここにいるハズもない、
「六連、昴――サン」
箱根駅伝の王者・青谷学院の昨年度主将なのだから。
*
○北海道インカレ2日目
〈男子800m〉
1着 宮田晃(1)極教大
2着 北市陞(3)帝北大
3着 桃谷翔太(1)極北大
〈男子10000m〉
1着 東城皇(4)帝北大
2着 那須伊織(1)帝北大
3着 岩本真平(2)極北大




