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旅路の果て  作者: 灰猫
【第1章】春雷来たりて
11/29

9.篠崎久蓮、画策する(天恵7年5月中旬)

 しとしとと雨粒が音を立てる窓の外を眺めて、久蓮はそっと溜息を吐いた。


「こりゃ、今日も冷えるねぇ」


   *


――――ちょっと、硬いかな。


 スタートラインに向かいながらこちらに視線を寄越した範昭に、久蓮はにっこりと手を振った。途端に顔をしかめて視線を鋭くする彼に、苦笑が零れる。けれど、見違えて動きが良くなったその様子に、久蓮は満足と共に頷いた。

 号砲が鳴り、駆け出していく選手達を見下ろす。今日は北海道インカレ初日だ。極北ベンチでは部員達が応援に勤しんでいる。久蓮にとって、四回目のインカレ。それに結局、一度も出場出来なかったワケだが――そのことに関しては、別になんの感慨も湧かないとは。

 自身の斜め後方で若干俯きながら、身体を強張らせている蒼をちらりと見やり、久蓮は、眼下のトラックで行われる男子千五百メートルに意識を向けた。極北の面々がゴールし、ベンチが沸く。


「大介先輩ベストだ!」


 自己ベストをマークした大介の好走に、真平の喜色こもった声が響く。三着、入賞だ。


「ノリちゃん悪くないじゃん」


 ずっとスピードが課題だった中で、帝北の選手の一人に競り勝っての五着。滑り出しは好調だ、と久蓮は満足気に頷いた。


――――裕也(ゆうや)はもう少し、ガッツが要るかな。


 ラストで帝北、極教の両選手に競り負けた裕也に、久蓮は独り言ちた。二年生、富樫(とがし)裕也(ゆうや)は、皆よりも久々のレースだ。入部してからこちら、怪我で思うように走れなかった彼も、努力の末、こうしてしっかりと走ることができている。そうなれば、あとは、攻めの姿勢を身につけていけるといい。

 気になるのは、沸くベンチの中で、独り膝を抱える蒼だ。そんな彼の様子を再度ちらりと伺うと、久蓮は手元のノートへと視線を落とした。


――――なんて顔してんのよ、全く。


 思い詰めたその姿に、表情に浮かべぬままに内心で溜息を吐く。これは、まだまだかかりそうだ、と――。


   *


「ちょ、何でそんな真っ青な顔してんのさ……」


 もうすぐ、男子五千メートルが始まる。一層強まった雨足に迎えられ、選手達が続々とコース内に足を踏み入れていた。そんな中で、ただ一人蒼白な面持ちで重そうに身体を引きずる蒼に、久蓮は思わず突っ込んだ。

 ベンチのあるスタンド――ホームストレート正面から、第三コーナーと第四コーナーの間の位置へと移動していた久蓮は、凭れた植木に背を預け、その様子を見守った。


「こりゃ、どん底確定かね」


 ぽつり、呟く。彼がアップに向かった後、何があったのか。そんなことは、明白だ。このレースには、彼の元チームメイト、那須伊織も出場している。であれば、彼に何か言われたに違いない。

 眼下では、あまりの様子を見かねてか、範昭が蒼に近付いていった。思考に沈んだ彼に、範昭が声をかけている。部員想いな彼のこと、あんな状態の蒼を放っておく訳はない。――が。


――――ザンネン、逆効果なんですよ、それが。


 今の蒼は、自分の不調の原因を何処まで察しているか判らないが――恐らく、察していないだろうが――チームメイトの機嫌を損ねることを恐れている。範昭の心配も、今の彼にとっては恐怖だろう。範昭と言葉を交わすうちに、更に表情を硬くする彼を見て、久蓮は苦笑を零した。

 久蓮の位置からでは彼らの声は聞こえない。身を固くする蒼に、範昭は表情を曇らせながら、困ったようにガシガシと後頭部を掻いている。

何と言ったものかと迷うように視線を泳がせ、言い淀んでいるようだ。そして、蒼の肩を軽く叩き、自分のスタート位置へと向かって行った。

 ちらり。範昭の視線が久蓮へと寄越された。


――――悪ぃ、ミスった。


 そんな、含まれた意図を汲み取った久蓮は、苦笑して片手を上げた。

 号砲が鳴る。降りしきる雨をものともせずに、選手達が楕円へと飛び出していく。思考に沈んだままの蒼も、反射的にといった様子でそれに続いた。


――――けど、それじゃ流石に動きが悪すぎるよ。


 蒼の走りは、まるで油の切れた機械のそれだ。


「イップスみたいなもんだよなぁ」


 実のところ、久蓮としては、どちらでもよかったのだ。範昭のフォローの結果が蒼にどう受け取られても。蒼の状態が良ければ、その言葉は励みになるハズだった。悪ければ、その言葉は更にプレッシャーとなる。行き着く底が深ければ深い程、脱したときの衝撃は大きいだろう。


   *


 レースは早くも終盤に差し掛かった。

 東城皇と那須伊織――帝北大の二トップに喰らい付く真平。蒼はというと、更にペースを落とし、ずるずると下位に沈んでいった。本日二本目の範昭にすら競り負ける程の、大敗。漸くゴールしたその時点で、手元の時計では十五分十九秒。全盛期の姿は見る影もないその走りに、久蓮は憐れみを覚えた。

 このレースは、蒼の()()()だ。そう、ここからは、久蓮の仕事だ。


   *


 暗いアーケード下。レース後、ベンチに戻ってこなかった蒼はここに居る、そう予想した久蓮はそこに足を運んだ。果たして、そこには、彼以外の影も在った――翔太だ。一年同士の会話に割って入る気は、久蓮にはない。少し離れた場所で、待つことにする。

 久蓮の位置からでは、彼らの声は良く聞こえない。けれど、内容は察しが付く。翔太は、蒼の様子に、純粋な疑問を抱いているだろうから。どうして、走らないの? ――と。走りたいという願いを滲ませながら、走らない。今の蒼の姿は、翔太には、そう見えているだろう。


 事情を知らない翔太に全てを察しろ、というのは酷だ。だが、ハナの良い彼は本質を掴んでいる。走ればいいのだ。走りたいならば。蒼は何も悪いことはしていない。ただ、纏わり付いたしがらみを、振り解けないでいるだけだ。けれども、静かに核心を突く翔太の謂いは、今の蒼には少しキツいかもしれない。

 久蓮がそう憂いたとき、蒼の声が響いた。


「お前に何が分かる……!」


 諍いの気配に少々慌てて彼等の元へ向かえば、蒼は憤りのままに翔太の胸倉を掴んでいた。相対する翔太は、静謐を湛えてただ彼を見つめている。


「こらこら、そのくらいにしときなさいな」


 流石に、暴力沙汰は目も当てられない。意識を反らすため、敢えてまろい声色を出した。自身の声に反応して振り仰いだ蒼を見とめると、久蓮は翔太に意識を移した。手招きして彼を呼び寄せる。


「モモ、お前、明日があるんだから、身体冷やすな」

「せんぱい……」

「ベンチで暖まってな。すぐ行くから、さ」


 自身のレースが明日に控えていることを思い出したか。はっとした様子の翔太は、それでも蒼を気にして躊躇っている。そんな彼の頭をさらりと一撫でして、久蓮は続けた。浮かべた柔らかい笑みに安心したか、彼はベンチへと向かっていった。


――――さて、正念場な訳だけど。


 再度、蒼へと視線を戻した久蓮は、そうと悟られないように静かに息を吐いた。


「――国体本戦。君の、高校最後のレースだ」


 ぽつりと呟く。蒼は久蓮の呟きにはっとして、こちらに鋭く視線を寄越した。背後から差す光が久蓮の影を、彼の表情へと落としている。

 まろさを削ぎ、徐々に硬く冷えたトーンで蒼に詰る。


「内容は、今日とそっくり――だね」


 ゆっくり、蒼の反応を確かめながら、言葉を続けていく。静謐と共に彼を見つめれば、蒼は目を離さずにこちらを窺っている。入部からこちら、敢えて告げてこなかったこと。彼の事情について、察しが付いているということ。久蓮は、それを今蒼に突き付けている。


「原因はおそらく、部内の――」

「――っ」


――――掛かったね。ホント、分かりやすい。


 反射的に息を飲んだ蒼に、久蓮は内心ほくそ笑んだ。


「なんだ、図星か。……情けねぇ」

「な、」


 蒼が久蓮の言葉に対して強く反応したことを確認し、声色を変えていく。努めて呆れたように、吐き捨てた。瞬間、声を失った蒼。


――――そうだ、(いか)れ、蒼。


「……。――っ、アンタに――」

「分からないよ。何も」


 震える声で、先程桃谷へ向けたものと同じ台詞を吐こうとする蒼。久蓮は無情にもそれを遮った。


「オレは君じゃない。君の通ってきた路は、オレとは全く違うものなのだから」

「なら――」

「それでも君はここにいる。それが全てだ」


 蒼は、言葉を失っている。確信と共に告げたそれは、蒼に刺さったのだろうか。決まりが悪そうに目を反らした彼に、久蓮は再度声の調子を変えた。


「それなのに、うだうだうだうだ……情けねぇレースしちゃってさ。バッカみたい」


 このセリフを吐くのには、多少、久蓮の私情を滲ませざるを得なかった。

 思わず戦ってみたいと心揺さぶられる、あんなにも煌めく才能が、こうしてくすんでいることが。そして、そんな彼に今すぐに身をもって道を示せないことが悔しい。彼の走りを曇らせた奴等の存在に、そしてそれに屈し、こうして燻っている蒼に怒りが沸く。そして何より、走りたいかどうか、そんなことで悩むことが出来ることが――。


――――心底、羨ましいよ。


 滲んでしまった、今の状況に不釣合な感情。けれどその、常になく揺れる己の声色は、蒼がこちらに意識を向けさせる切っ掛けになるだろう。

 案の定、蒼は困惑と共に久蓮に視線を寄越してきた。ちらりと、再度こちらへ投げられた蒼と視線が交わった。その瞬間、久蓮はいつかのような不敵な笑みを浮かべた。そう、正に、蒼がこちらを向くのを待っていた、と。蒼にそう見せるような笑みだ。


「そんなバカには、オレが()()()()()()やるよ。走るってのが、()()()()()()()()()を」


 久蓮は、不敵に笑い続ける。自分に、蒼に敗ける未来はないと確信しているのだと、只管に彼を挑発する。


「再来週、ここでオレと勝負しようか」

「! ……――やってやるよっ……!」

「はっは。精々楽しませてくれな」


 強い強い瞳でこちらを射抜く蒼に、久蓮は口角を上げた。挑発だということに気付いていながらも、溢れる感情を抑えられないのだろう。


――――そう、(いか)(いか)れ。そうやって、オレだけ見てな。


 うじうじと悩んで蹲っているよりも、余程良い。高校時代のしがらみなんて忘れて、これから来る勝負に意識を向けろ。ぎろりとこちらを睨み続けている蒼へ挑発的な笑みを投げ、久蓮は踵を返した。

 いつの間にか雨は止み、雲間からは、光が差していた。


   *


○北海道インカレ1日目

〈男子1500m〉

1着 柳沢於莵(4)帝北大

2着 宮田晃(1) 極教大

3着 御影大介(3) 極北大

〈男子5000m〉

1着 東城皇(4) 帝北大

2着 那須伊織(1) 帝北大

3着 岩本真平(2) 極北大

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