8.瞼の先に映るは(天恵7年5月上旬)
<5000m結果>
1 岩本真平(2)14'52 中間のペース維持
2 如月 蒼(1)15'11 3000m手前から不自然に失速
3 清野範昭(4)15'15 後半の切り替え
4 夜神真矢(3)15'17 押せるペースのアップ
<1500m結果>
1 富樫裕也(2)4'09 突っ込みとスパート
2 御影大介(3)4'10 現時点でgood
3 清野範照(4)4'39 死にすぎ
4 桃谷翔太(1)4'40 ペース配分
*
今日の結果を部誌のノートへと書き込んだ久蓮は、膝に巻き付けていた氷を替えた。ジョグしかしていないにも拘らず、平時より熱と痛みの主張を増した己の膝に舌打ちひとつ、ノートパソコンに向き直る。
皆の帰った、人気の無い部室。そこでじっくりと脚をケアしながら、その日の皆の練習データを分析する、それが久蓮の常であった。今日の練習データを打ち込み、ペースや伸び予想、比較などのグラフを作っていく。久蓮自身は頭の中で完結するので、これは部員の皆のためのものだ。
「……それにしても」
今日の結果は、あまり良くない。大介以外、予想の下限で止まっている。久蓮は眉を寄せた。
かたりと物音が響いた。ちらりと視線を流すと、範昭がそこにいた。久蓮の常を知る範昭は、気になることがあるとこうして部室に戻ってくる。――勿論、ただ駄弁ったり、時間を潰していることも多いのだが。
――――蒼とモモのことかな。
このタイミングで来るということは、粗方あの新入生達の走りについて話しに来たのだろう。今日は二人とも、なかなかな走りをしていたから。そう当たりを付けた久蓮は、範昭が切り出すのを、分析作業を続けながら待った。
「もしかして久蓮サン怒ってらっしゃる?」
「何が?」
恐る恐るそう声をかけてきた範昭に、久蓮はノートパソコンに向けられていた視線を彼へと移した。付けた当たりとは異なる予想外のその問いに、きょとりと目を丸くしてしまった。
「止めたこと」
「やー、別にそれは」
なるほど、と、久蓮は視線をパソコンに戻し、入力を続けた。
今日のT.T. 、五千メートルのペースメイクを名乗り出た久蓮を、範昭がバッサリと切って捨てたのだ。元々、レースへの復帰は六月から、と範昭と話していたので、どちらかというと範昭が正しいのだ。
「そりゃー走りたかったですけど? これでもけっこー焦ってんのよ」
本心だ。無理を押してでも、久蓮としては今日、ペースメーカーをしたかった。けれど、脚のことを考えると走らないほうがいいとも思っていた。いつもの軽い調子のそれは、焦りを感じさせない声色として届いただろう。
走れていない自分への焦りは、勿論ある。けれど、いざとなれば、這ってでも勝ち切ってやるという意地がある。あの頃と何も変わっていないけれど、これまで久蓮は、ずっとそうやって勝利を手にしてきた。
久蓮の思いは自身のことよりもむしろ、部員達にここで一度いいペースを掴んで欲しかったと言ったところだ。ダメ元だったけれども。
「大体、ノリちゃん抑えすぎ。抑えすぎたまま落ちてるし。で、千五百メートルは死にすぎ」
「う……」
「ペースメイク要ったでしょ、やっぱ」
画面の表とグラフを弄りながら久蓮は苦言を呈する。言葉に詰まるばかりで何も言い返さない範昭。自分でも、反省点と捉えているのだろう。範昭が机上に置かれている部誌を手に取る気配を、久蓮は背中で感じていた。
この部誌、誰が呼んだか、通称・久蓮ノートという。練習や試合の結果、ラップ等のデータの他、コメント等も記載されている。久蓮としては、呼称は不本意だが、皆のために作成した記録だ、しっかりと確認してくれているのなら重畳だ。
「で? オレに言いたいことあって来た?」
範昭がノートから顔を上げた気配を感じ、久蓮は作業の手を止めずに問うた。
「あー、今日のことでな」
「だよね」
問いに是が返されると同時に口端を上げ、enterキーを叩いて久蓮は振り返った。漸く、視線が交わる。やりたかった作業は終わった。そのまま範昭に身体ごと向き直る。
膝に投げ掛けられた視線と寄せられた眉に気付かぬフリをして、続きを促せば。練習時を想起しながら、ぽつりぽつりと範昭は話し始めた。
*
「一年二人ねぇ」
話を聞き終えた久蓮は、小さく溜息を吐いた。範昭の話は、要約すると、アイツ等大丈夫か? 、と――これに尽きる。
今日のT.T. 、千五百メートルを選択した翔太は、初っ端から短距離もかくやのロケットスタートをかまし、そして盛大に潰れたのだ。なんとかゴールに辿り着いて、ゴール脇の芝生で目を回していた翔太。
蒼は、ここ最近――恐らくは、練習が本格的になってきてからの、調子の低下が著しい。今日の五千メートルでは、最初こそ、苦しそうになんとか真平についていたものの、中盤の失速は顕著だった。
――――確かに、アレ見たら不安になるよねぇ。
練習の様子を思い浮かべ、久蓮は溜め息混じりに漏らした。
「どうすんだよ」
「まあ、モモは大丈夫だろうね」
「マジか? あの走り……下手すりゃ大ブレーキだぞ」
翔太について、範昭は心配そうだが、久蓮は余り憂いてはいない。あの猪と言わんばかりの突っ込み具合と、案の定一周を過ぎた辺りで潰れていった様子に、不安を覚えているのだろうが。なんといっても、翔太は、まだ陸上を始めて一月だ。この一月、久蓮は長距離ランナーらしいフォームは教えているけれど、レースの走り方については、まだ何も口を出していない。
「あいつには、ロングの出し切り方を教えればいいからね」
「あいつにか? そう上手くいくとは思えねぇんだが」
「そりゃ、身体に教え込むさ。――今度、もっとどギツいのセッティングするからさ」
敢えて簡単そうに告げた久蓮の言に、範昭は懐疑的な視線を寄越してくる。何せ、あいつはバカだから。そう考えているのが、ありありと久蓮まで伝わってくる。
そう言って肩を竦め、悪ぶった笑みを浮かべれば、範昭は顔を顰めて身震いした。
「えげつねぇ」
ひどい話である。久蓮には、何も、翔太だけに苦しい思いをさせる気はない。その時が来たら、自分も同じメニューを走るつもりだ――そうでなければ、意味はない。
それよりも、急務はあの、憐れなインハイ覇者である。
「ただ蒼はねぇ……」
「ああ、あいつ、どうした? 急に落ちてきたが……大丈夫か? 貧血か?」
「あー、いや、それは大丈夫。――あいつも、まぁ、なんだ、かわいそうな奴なのよ」
「こうなる可能性は考えてた。ただ……まぁ、オレも……ここまで根が深いとは思わなかったけど」
「難しい顔してたのはそれか」
「ま、ね。どうすっかなと思ってさ」
範昭は、彼の様子をあまり心配していないようだ。久蓮の憂いへ懐疑的とわかる視線が注がれる。その真意を読み取ろうとするように。あの症状だけみれば、そう感じるのも仕方ない。とはいえ、範昭の問いには、彼自身もそうと信じていない色が浮かんでいたが。
範昭にどこまで伝えるか、迷いの生じた久蓮は歯切れ悪く言う。どちらかというと、彼には皆のフォローを頼みたい。久蓮の思い付いた策は自分にしか出来ず、部員達にも影響を与えるだろうから。だから、敢えては事情は伝えないことにした。その方が、余程自然にフォローしてくれるだろう、と。
「アイツは、思い出させないといけないから難しい。拒まれたらアウト」
――――でも、勝算はある。
範昭に告げたのは、弱気ともとれる言葉。だが、久蓮は別に悲観している訳ではない。勝負の楽しさとか、走りへの渇望とか。蒼が封じ込めてしまったそれは、確実に彼の中に在る。
「大丈夫か? それ」
「ま、オレに任せてよ。ノリちゃん。――ひとつ、思い付いたことがある。……オレが間に合わないから、インカレはどん底まで落ちてもらうことになりそうだけど」
久蓮は、またしても悪い顔をして笑みながらに言い放った。そして声を落としてさらに呟いた。
インカレは、久蓮はまだ走れない。そこまでの準備はできていない。もちろん、蒼が自力で這い上がってくれるのが一番良いのだが、なかなか難しい事だろう。それの根深さを、久蓮は身を以て知っている。苛まれ、ただ耐えるしかない状況は過酷だ。久蓮と蒼は、ただその方向性が走りたくばか、走り続けるならばだったか――それだけの違いだ。
蒼が抜け出したいと願うならば、久蓮は全力で応えるだけだ。昏い鎖を粉々に打ち砕く程に、鮮烈な経験を用意しよう。
「……」
久蓮の言葉に、三年前の鮮烈な記憶を思い起こしたか、ぞわぞわと走る怖気に身震いする範昭がいる。そんな範昭の姿に、思わず笑みが溢れる。あんなズタボロだった三年前の久蓮ですら、こうして範昭の記憶に残るならば。三年間力を蓄えてきた今、蒼の心ひとつ掴めないハズがないのだ。
――――掴んでやるさ。
そのときの光景を視線の先に浮かべながら、久蓮は口角を上げた。
*
〈インカレ出場種目(1種目3人)〉
800m 御影(3)、富樫(2)、桃谷(1)
1500m 清野(4)、御影(3)、富樫(2)
5000m 岩本(2)、清野(4)、如月(1)
10000m 岩本(2)、夜神(3)
※競技順:(1日目)1500m→5000m→(2日目)800m→10000m




