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善意無想(一)

 江戸と聞いて、多くの人々が真っ先に思い浮かべるのは……華やかな大都市であろう。美味しい食べ物、洒落た着物、着飾った美しい男女、時を忘れさせる様々な娯楽。それらは皆、江戸の光の部分である。

 それとは真逆の、普通の人には知られていない危険な場所も存在している。こちらは、子供の悪夢に登場しそうな人相の者たちがうろついており、血の匂いと腐敗と暴力そして殺気に満ち溢れている。町方の役人といえど、よほどのことがない限り足を踏み入れない。

 まさに江戸の魔窟なのだが、最初からそうだったわけではない。初めのうちは、住む家のない貧乏な者たちが、小屋を建て目立たず慎ましく暮らしていただけだった。

 ところが、あいつらが住んでいいなら俺たちも……とばかりに、その周囲に別の者たちも住み着いていく。食い詰めた浪人や前科者、町を荒らす盗賊や凶状持ちなどといった、昼の町を出歩くことの出来ぬ事情を持つ者たちが集まり、勝手に住み着いていく。お互いに人に言えぬ事情を抱えているため、何が起ころうが見て見ぬふりだ。結果、無法地帯のような集落が形成されてしまったのだ。

 こうした場所は、ほとんどの場合、上の人間の意向により存在自体をなかったものとされている。地図にも載っておらず、正式な地名すらなく、歴史からも存在を抹消されているのだ。まさに、江戸の闇を象徴している。

 そんな町が、江戸にはいくつかある。剣呑横町、非人街ひにんがい乞食こじき横町などなど。堅気の人間がうっかり足を踏み入れたら、身ぐるみ剥がされ放り出される……のはまだいい方で、身ぐるみ剥がされた挙げ句に肉鍋の材料にされてしまうこともあるという。

 そんな危険な場所のひとつ、剣呑横町にて……妙な若者が慈愛庵を訪れていた。


「呪道の兄貴! いるの!?」


 馴れ馴れしい態度で、呼びかける正太しょうた。頭にまげはなく、顔立ちには幼さが残っている。動きやすさを重視し、袖や裾の短い着物を着ていた。背は小さいものの、身のこなしは早そうだ。

 この正太、普段は江戸で萬屋よろずやを営んでいる。女郎の腰巻き洗いから祈祷師のさくらまで、頼まれれば何でもこなす。

 同時に、死事屋の情報収集も担当していた。軽薄そうな雰囲気を漂わせているが、優しい性格の持ち主でもある。それゆえ、町の底辺に潜む者たちからは、何かと慕われているのだ。したがって、情報も手に入れやすい。


「ちょっと! いないの!? 入っちゃうよ!?」


 返事がないことに業を煮やし、正太は戸を開けた。中にずかずか入っていく。と、目指す者をすぐに見つけた。


「なんだ、兄貴いるんじゃん! 返事くらいしてよ!」


 そう、彼の兄貴分である呪道は、板の間の隅っこで寝転がっていた。ちらりと正太を見たが、面倒くさそうに目線を逸らす。

 

「ああ! 今、面倒くさいから無視しようとしたでしょ!」

 

 正太は、どすどす足音を立てながら近づいていく。呪道の耳元に顔を近づけると、そっと囁いた。

 

「新しく入った奴ってさあ、町方の役人なんでしょ? 大丈夫なの?」


「どうだろうなあ。ま、しばらくは様子見だよ」


 のんびりした態度の呪道に、正太は首を捻る。


「呑気だなぁ。そんなんで大丈夫かい」


「大丈夫だよ。いざとなったら、俺が奴を殺すから……用はそれだけか?」


「いいや、それだけじゃないのよ。実は、仕事の依頼が来ちゃってさ」


 ・・・


 剣呑横町から、さほど遠くないところにあるのが満願まんがん神社である。こちらは剣呑横町とは違い、江戸の地図にもちゃんと記載されている。何をまつっているのかは知られていないし、人の出入りも少ない。二年ほど前までは、ここで二人組の大道芸人が芸を見せていたのだが……今は、商売をする者もいない。

 そんな満願神社から、男の罵声が響いていた。




「くぉら! この餓鬼が!」


 怒鳴っているのは、若い男たちだ。全員、十代後半から二十代前半といったところか。いずれも人相は悪く、目には凶暴な光を宿している。しかも、今はうまの刻(午前十一時から午後一時の間)だ。堅気の青年なら、仕事をしている時間帯である。真昼間から徒党を組んで、神社の周辺をぶらぶらしている……この時点で、彼らがまともな人生を歩んでいないことは明らかだ。


「お前がぶつかってきたせいで、俺の着物が汚れちまっただろうが! どう始末つけんだよ! おら!」


 若者らが因縁を付けているのは、幼い少年だ。まだ十歳にもなっていないだろう。身に付けている薄汚れた着物は、この少年が裕福な身の上でないことを物語っていた。


「ご、ごめんなさい……」


 涙を浮かべつつ、子供は頭を下げる。だが、若者たちに許す気はないらしい。


「おい、お前の親はどこに住んでるんだ? こうなったら、親から金取り立ててやるからよ。でなきゃ、こっちは気がすまねえんだ!」


 言いながら、若者は子供の髪の毛を掴む。そのまま引きずり回した。周囲には数人の野次馬が遠巻きに見ているが、止める気はないらしい。

 その時だった。 


「お前ら、何をしている」


 落ち着いた声とともに前に出て来たのは、逞しい体つきの中年男であった。背はやや高く、肩幅は広い。顔はいかつく、鋭い目つきからは意思の強さが感じられる。落ち着いた表情からは、自信と余裕が感じられた。どう見ても、ただ者ではない。


「な、なんだお前は!? 関係ない奴はすっこんでろ!」


 いきなり現れた者に戸惑いながらも、若者たちは態度を変えない。威嚇するような視線を闖入者に向ける。


「私は極限流柔術きょくげんりゅうじゅうじゅつ師範、本庄武四郎ほんじょう たけしろうだ。お前ら、こんな子供を相手に恥ずかしくないのか」


 低い声だった。若者たちを恐れている雰囲気はない。だが、若者たちも怯まない。


「んだと! お前に関係ねえだろうが! いい加減にしねえと殺すぞ!」


 ひとりの若者が、殺気立った表情で怒鳴り返した。すると、本庄の目つきが更に険しくなる。


「今、殺すと言ったな。それは、私に対する侮辱だ。もはや、関係ないとは言っていられん」


 言った直後、本庄は奇妙な形で構えた。

 伸ばした左手は前に出され、己の顔の位置の高さに構えている。右手は、鳩尾みぞおちのあたりに置かれていた。体は左前の半身であり、重心は低くどっしりとしている。

 その姿を見て、若者たちは吹き出した。


「なんだお前、今から安来節でも踊る気か?」


 ひとりが言うと、周囲の者たちもげらげら笑う。だが、本庄は表情を変えない。


「お前らからは来ないのか。では、こちらから参る」


 言った直後、構えを崩さぬまま接近した。速い動きで、一瞬にして間合いを詰める。

 次の瞬間、左足が一閃──

 一瞬遅れて、もっとも手近にいた若者が倒れる。両手で腹を押さえ、うずくまったまま動かない。

 その姿を見て、彼らの表情が一変した。


「この野郎! 何しやがる!」


 殴りかかってきた男の拳を、本庄の左手が払いのける。直後、強烈な正拳中段突きが放たれた。突きは、見事に若者の鳩尾みぞおちへと突き刺さる。

 杉板をも叩き割る本庄の突きをまともに受け、若者は崩れ落ちた。そのまま、ぴくぴく痙攣している──

 一瞬にして、場の空気は変わった。若者たちはようやく、本庄の強さを悟ったのだ。

 しかし、本庄の方は動き始めている。すっと近づき、今度は右足を振り上げた──

 鞭のようにしなる上段回し蹴りが、若者の側頭部に炸裂する。その蹴りは、一瞬で意識を刈り取った。

 若者は、銃で撃たれたかのようにばたりと倒れる。その目からは、光が消えていた。

 一気に戦意を失った若者たち。だが、本庄の方はお構いなしだ。獣のごとき勢いで、若者たちに襲いかかって行った──




 一刻もせぬうちに、勝負は決していた。若者たちは皆、地面に倒れ呻き声を上げている。本庄の方はといえば、息も乱れていない。まだまだ余裕がある。


「なんと手応えのない連中か」


 本庄は、呆れた顔つきで倒れた者たちを見下ろしていた。これでは、稽古台にすらならない。

 その時、子供が近づいて来た。


「お、おじさん、ありがとう」


 恐る恐る、という感じで子供は頭を下げる。すると、本庄はにっこり笑った。


「いいかい坊や、こんな弱くて卑怯な大人になったら駄目だ。心と体をしっかり鍛え、おじさんのように強い大人になるんだよ。いいね?」


「うん!」






 



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