出会無想(六)
「私は、南町奉行所見回り同心・西村右京だ。覚えていないのかな?」
右京は、湧いてくる感情を押し殺し、出来るだけ静かな口調で尋ねる。だが、的場という男の出した回答は想像を超えていた。
「はあ? 知らんわ。ひょっとして、お前がこの下らん悪戯を仕組んだのか?」
言ったかと思うと、憤怒の形相でどんと地面を踏み鳴らした。ようやく、恋文が偽物であったことを理解したらしい。
右京はといえば、虚ろな表情で首を振るばかりだった。的場への恐怖など、毛ほどもない。この一年、自分たちはどれだけ苦しんで来たことか。どれだけのものを失ったかわからない。
だが、この男にとっては……妻のことも自分のことも、記憶に留める値打ちすらなかったらしい。
暗く虚ろな感情が、心の奥底から湧き出てくる。その感情は、右京の全てを塗り潰していく。今すぐ、この外道をぶち殺してやりたい。
だが、その前に聞かねばならないことがある。怒りの感情を押し殺し、静かな表情で口を開いた。
「お前ら青鞘組は、一年前に私の妻の千代に声をかけた。相手にされなかったことに腹を立て、空き家に無理やり連れ込み殴る蹴るの暴力を振るった挙げ句に、数人がかりで彼女を凌辱した。千代は顔と体に傷を負わされたが、一番の重傷は心だ。彼女は一年経った今も、笑うことも語ることもない。そのことを、あんたはどう思う?」
その時、的場の表情が変わった。口が開き、目線があちこち動く。どうやら思い出したらしい。
だが、動揺したのは一瞬だった。
「さあ、知らんな。身に覚えがない話だ。だいたい、俺がやったという証拠はあるのか? あるなら見せてくれ」
ふてぶてしい態度で、的場は言い放つ。
右京は、話しているのが嫌になってきた。目の前にいるのは、人間の形をした害獣だ。世の中に、害毒を撒き散らすためだけに存在している。しかも、知性も品性もない。善悪を判断することも出来ないらしい。これまでの人生で、何を学んで来たのだろう。
ひょっとしたら、こんな害獣を闇に紛れて始末することこそが、自分に与えられた使命なのではないか。その使命に気づかせるため、天は自分と呪道たちを会わせたのかもしれない。
そんなことを思いながら、無言で目を逸らし下を向いた。
的場は右京の態度を見て、怯んでいるものと勘違いしたらしい。さらに高圧的な態度になった。威嚇のつもりか、刀の柄に手をかける。
「わかったら、とっとと消えろ。お前のような雑魚、やろうと思えば一瞬で潰せるのだよ。だいたい、虫を踏み潰すことを気にしてたら、おちおち外も歩けん──」
「今、虫と言ったな。つまり、千代はお前にとって虫と同等の価値というわけか?」
右京が顔を上げ、鋭い口調で問う。
「だったら、どうした。もう面倒だ。お前、ここで死ね」
言った直後、的場は刀を抜いた。この男、人格は屑だが剣の腕は確かだ。真剣での斬り合いも経験している。奉行所の木っ端役人ごとき、恐れる必要はない。
「俺を騙して、こんな所に誘い込んだ挙げ句……嘘八百を並べたて、濡れ衣を着せようとした。だから斬った。これで、奉行所への言い訳は立つぞ」
的場の顔に、残忍な笑みが浮かぶ。彼は、自身の勝利を確信していた。剣の勝負なら、こんな奴には絶対に負けない。右京を斬り、さっさと帰ろう……としか考えていなかった。
だが、それは間違いだった。
右京の手が、さっと動く。あまりに速く、何をしたのか見えない。
次の瞬間、右手に何かが握られていた。
それが短筒だとわかった時には遅かった。銃声が響き、弾丸が的場の腹に命中する──
的場は激痛と撃たれた驚きから、その場に崩れ落ちる。
「短筒とは卑怯な……武士らしく剣で勝負しろ……」
痛みをこらえ、どうにか言葉を搾り出す。
右京は、くすりと笑った。
「あなたも、つくづく頭の悪い人だな。今の私はね、死事屋なんだよ。武士として来たわけじゃない。殺すのに、手段は選ばないよ」
言うと同時に、またしても銃声が響く。続いて悲鳴。的場の右手を、弾丸が撃ち抜いたのだ。手の甲は撃ち砕かれ、原型を留めていない──
「上手いもんだろう。あんたを殺すため、ずっと練習していたんだ。この距離なら外さない。でも、短筒はここまでだ」
口調そのものは平静であり、怒りは感じられない。だが、右京の顔には変化が生じていた。狂気の表情が、顔を覆っている。口元には、異様な笑みが浮かんでいた。憑かれたような光の宿る目で的場を捉え、ゆっくりと近づいて来ている。
「頼む! 殺さないでくれ! 許してくれ! 金ならやるから!」
的場は、恥も外聞もなかった。激痛のあまり涙と鼻水を垂れ流しながら、床に頭を擦りつける。
しかし、返ってきた言葉は冷たいものだった。
「千代は、許してくれと言わなかったのかい」
「そっ、それは……」
的場は、思わず顔を上げた。その途端、今度は左腕に激痛が走る。的場は悲鳴をあげ、反射的に転げ回っていた。
いつのまにか、右京の手には短刀が握られている──
「痛いかい。だがね、痛みは生きている証だ。死ねば、痛みも苦しみもない。全ての悩みから解放される」
右京は、再び短刀を振り上げる。
「あんたは、まだ生きているんだよ。生きている証を、存分に味わうんだ」
直後、短刀が的場の左手に刺さる。的場は喚き、這いずって逃げようとする。だが、動けない。
左手が、床に串刺しにされているのだ──
「逃げなくてもいいだろう。夜はまだ長い。本番はこれからだ」
右京は笑っていた。笑いながら、もう一本の短刀を取り出した。鞘を抜き、振り下ろす。急所をきっちり避け、痛みを感じる部分だけを狙っている。
やがて、彼の顔と手は返り血を浴び、真っ赤に染まっていった。
その様は、絵双紙に登場する妖怪のようであった──
・・・
翌日。
呪道は慈愛庵の板の間にて、ひとり座り込み丼飯を食べていた。今は辰の刻(朝の八時前後)である。こんな怪しげな場所に、朝から来る物好きもいない。そもそも、剣呑横町の住人たちは夜型が多く、この時間帯は寝ている。
呪道も、この時間には客など来ないだろうと思っていた。ところが、予想に反して外から声が聞こえてきた。
「早くて悪いけどさ、話があるから入るよ」
面倒くさそうな声と共に入って来たのは、お清である。相も変わらず、けだるい雰囲気で板の間に座り込んだ。
呪道は、思わず首を傾げた。この女が、呼び出してもいないのに自分から来るとは珍しい。いったい何事が起きたのだろう。
だが、お清の話はとんでもないものだった。
「あの西村とかいう奴、大丈夫なのかねえ。さっき、的場慎之介の死体を見たって奴と話したんだけど、両手両足の腱を切って動けないようにしてからの滅多刺しだって。しかも、最後には腹を切り開かれて、中から腸が四尺(約百二十センチ)近く飛び出てたそうだよ。あれは、一晩中もがき苦しんで死んだだろうね」
さすがの呪道も顔色を変えた。腸が四尺とは……恐らく、切り開いた腹から素手で掴み出したのだろう。人間、腹を引きずり出しても、しばらくは生きていられる。だが、絶命するまでに想像を絶する苦しみを味わうという。
もっとも、普通はそこまでやらない。裏社会において、殺し屋を生業としている者は、手早く仕留めることを重視する。一瞬で仕留めて、さっさと現場を離れるのが基本だ。
腸を引きずり出すような手間のかかることなど、好き好んでやる者はいない。それ以前に、人の腸を素手で掴み引きずり出すなど、裏の人間でもやれる者は少ないだろう。
西村右京が、そこまでの狂気を秘めていたとは。
「どうすんの?」
お清が、残された右目で呪道を見る。呪道は、くせっ毛の頭をぽりぽり掻いた。
「まあ、待て。右京は、的場たちに奥さんを凌辱されたんだ。その恨みが強すぎて、ちょいとやり過ぎたのかもしれない。とにかく、今は様子見だ。もし、あいつが狂っているようなら、俺が殺す」
・・・
「ありがとう。あなたのお陰で決着をつけられたよ」
右京は、深々と頭を下げた。
「そうですかい。よかったよかった。何があったかは、あえて聞きませんぜ」
答えたのは、牢の中にいる老人である。髪は抜け落ち、腰は曲がっていた。手足は棒きれのように細く、体からは嫌な匂いを発している。
中には藁で作られた茣蓙が引かれており、木製の格子が付いた窓からは陽の光が入るようになっていた。他は何もない。牢の中はかなり広いが、ひとりしか収容されていないようだった。
だが、それも仕方ないだろう。右京の目の前にいる老人は、もうじき死ぬのだ。
この老人、かつては有名な盗賊であった。猿の五助という名で、各地を荒らし回った。裏の世界でも、知られた存在だった。
しかし、今は牢の中で死を待つ身である。放蕩無頼の生活がたたり、いくつもの病を抱えている。もう、長くは生きられないだろう……と医者からも言われていた。
それ以前に、五助は十年以上前に盗賊を引退していた。市井の人に紛れ、一般市民として生活していたのだ。にもかかわらず、執念深い同心が彼を見つけ出し、半年ほど前に召し捕り牢に入れた。
そんな五助と右京は、以前から面識があった。道で会えば挨拶をする、という程度のものではある。、それでも、牢に入った際には、何かと気にか話をしに来ていた。時には、差し入れなどもしていたのだ。
ある日、牢に現れた右京に向かい、五助はそっと手招きする。何かと思い、しゃがみ込んで木格子に顔を近づけてみた。
老人は手を伸ばし、木格子に掴まる。どうにか上体を起こして、格子の向こう側にいる右京に顔を近づける。
そっと囁いた。
「奥さんの仇を討ちたくないですかい?」
「どうすればいい?」
聞き返した右京の声は震えていた。
「剣呑横町にいる拝み屋の呪道ってのが元締をしている、死事屋って連中がいます。そいつらに頼めば、最低五両で殺しを引き受けてくれるそうですよ。腕も確かです。まずは、拝み屋の呪道を探してみるんですね」
この老人がいなければ、呪道とは出会うことが出来なかった。仇を討つことも出来なかった。右京は、純粋なる感謝の気持ちから牢を訪れたのだ。
だか五助の方は、不気味な目で右京をじっと見つめている。ややあって、静かに口を開いた。
「あなた、変わりましたね。体から血の匂いがしますよ」
そう言って、五助は笑った。けけけ、という声が独房内に響き渡る。
右京は異様なものを感じ、思わず後ずさった。この老人は、何が言いたいのだろう……動揺しつつも、頭を下げる。
「では、失礼する。元気でな」
言った後、背中を向け立ち去ろうとした。すると、またしても声が聞こえた。
「西村さま、これだけは忘れないでくだせえ。人のお命いただくからは、いずれ私も地獄道……ですぜ」
その言葉にぎょっとなり、思わず立ち止まる。
五助の表情は見えない。が、けけけ……という妖怪のごとき笑い声が聞こえている。右京は背筋が寒くなり、逃げるようにそこを離れた。
五助の死を知らされたのは、それから二日後のことだった。