家族無想 二
西村右京は、足を止めた。
三間(約五・四メートル)ほど先の十字路にて、睨み合う者たちがいる。どう見ても、平和に話し合う雰囲気ではない。
時刻はまだ昼過ぎであり、人通りも少なくない。にもかかわらず、道行く人に止めようとする気配はなかった。皆、素知らぬ顔で通り過ぎていく。
普段の右京なら、見なかったことにして素知らぬ顔で回れ右していたことだろう。だが、今回はそうもいかなかった。片側にいるのは、まだ子供である。幼い男の子と、その後ろに隠れる幼い女の子という組み合わせだ。
そんなふたりの前にいるのは、数人の若者たちである。全員、十代の後半から二十代の前半といったところか。まともな勤め人ならば仕事に精を出している時間帯だが、人相風体からして職に就いているようには見えない。一言でいうなら、町のごろつきという言葉がもっとも似合っているだろう。
そんな若者たちに、少年は怒鳴りつけている。
「謝れ! 志津に謝れ!」
「何なんだ、この糞餓鬼は……」
ひとりの若者が、面倒くさそうな表情で言うが、少年に引く気配はない。
「お前たちの方が、妹にぶつかって来たのだ! 謝るのはお前たちの方だ!」
「この野郎……いっぺんぶち殺さねえと、わからねえようだな」
低い声で凄み、つかつかと近づいていく男たち。このままでは、確実にただでは済まない。血を見ることになりそうだ。
右京は、前に進み出た。
「お前たち、何をしているのだ」
声をかけつつ、両者の間にさりげなく入り込む。すると、男たちの顔つきが変わる。
「あっ、これはこれは八丁堀の旦那。実は、この餓鬼が因縁をつけてきまして……」
「因縁ではない! この男が、妹にぶつかってきたのだ! しかも、妹を蹴飛ばした!」
怒鳴る少年。その後ろにいるのが妹らしい。見れば、鼻血が出ている。
「こいつ! まだ言いやがるか!」
ひとりの男が掴みかかろうとするが、右京が制した。
「やめろと言っているのだ。相手は子供だぞ」
「何を言ってるんですか。こういう餓鬼はね、きっちりとしつけなきゃ駄目なんですよ」
言いながら、なおも少年に近づこうとする。だが右京は、力ずくで押し戻した。
「お前の言い分はわかった。今回は、私の顔に免じて許してやってくれ」
「けっ、何が私の顔だよ。この案山子同心が」
小声で捨て台詞を吐いた者がいたが、右京は無視した。兄妹の手を引き、その場を足早に離れていく。
充分に離れたと見るや、右京は手を離した。にっこり微笑む。
「さあ、お前たちも行くのだ」
そう言うと、妹の前にしゃがみ込んだ。手ぬぐいを取り出し、鼻血を拭いてあげる。
「君は、志津というのかい?」
「は、はい」
「大丈夫か? 痛くないか?」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
志津は、ぺこりと頭を下げる。右京は少女の頭を撫でると、じろりと兄を睨んだ。
「お前は何をやっているのだ? なぜ逃げない?」
「ふ、ふざけるな! 悪いのはあいつらだ!」
兄は、憤然とした様子で言い返す。何と強情な子供なのだろう。右京は、思わず苦笑した。
「お前、名前はなんという?」
「坂之上太郎丸だ!」
元気よく答える少年の肩に、右京は手を置いた。
「そうか。では太郎丸、よく聞くんだ。世の中は、善が勝ち悪が負けるほど単純には出来ていない。ましてや、先ほどは妹が横にいた。喧嘩になれば、志津が巻き添えになっていただろう」
「何が言いたい?」
「お前の行動は間違っていた。あの状況では、妹を連れてさっさと逃げる。因縁をつけられたら謝る。それが正解だ」
「なぜだ? こちらに非はないのに、なぜ謝るのだ?」
「お前は、本当に馬鹿者だ。ごろつき共を相手に、是非を説いて何になる。道端で吠えている野良犬を相手に、うるさいからといって是非を説くか? そんなことはしないだろう。先ほどの場合も同じだ」
懇々と諭す右京に、太郎丸は何も言えずうつむいた。悔しそうな顔だ。
だが、右京はやめなかった。この少年は強情すぎる。いずれ、その強情さゆえ大怪我をするだろう。下手をすれば、命をも失いかねない。無駄かもしれないが、言うだけのことは言わねばならない。
「しかも、あのまま喧嘩を続けていれば、お前は確実に負けていた。手酷い怪我を負っていたはずだ。その上、志津も怪我を負わされていたかもしれん。あの時、兄であるお前の務めはなんだ? 鼻血を出している妹を、無事に家まで連れ帰ることてはないのか?」
その時、太郎丸の目から涙が溢れる。
「ち、父上は……」
言いながら、涙を拭った。顔を上げ、右京を睨みつける。
「父上は言ったのだ! 自分が正しいと信じるなら、決して引いてはならないと!」
怒鳴りつける太郎丸を、右京はじっと見つめる。この少年は、父の教えを忠実に守っているらしい。だが、その教えは江戸では通用しないのだ……。
ややあって、言葉を返した。
「それも間違いだ。人生では、自分が正しくても引かねばならない時もある」
そう、正しくとも引かねばならない時など、いくらでもあるのだ。でなければ、死事屋のような稼業が商売として成立するはずがない。
しかし、またしても彼の目から涙が溢れる。
「お、お前……ぢぢうえをぐろうずるぎが……」
太郎丸は嗚咽を漏らしながら、なおも言い返してくる。右京に向ける目には、消えることのない怒りがあった。妹は、そんな兄を悲しげな表情で見ている。
右京は、少年から目を逸らした。少年が泣きやむのを待ち、声をかける。
「家はどこだ? 送っていってやる」
「お前の助けなど借りない!」
憤然とした様子で言い返すと、妹の手を引き歩いていく。右京は、そっと後をついていった。
ふたりは、どんどん歩いていく。と、太郎丸が振り返った。後ろに突っ立っている右京を睨んだ。
「助けは借りないと言ったはずだ! なぜ付いて来る!」
「お前に付いて来ているわけではない。行く先が、たまたま同じだけだ」
素っ気ない顔で言い放つと、太郎丸は悔しそうに前を向いた。
「志津! 行くぞ!」
八つ当たり気味に怒鳴り、再び歩いて行く、本当に不器用で強情な少年だ。右京は苦笑しつつ、素知らぬ顔で後ろを歩いた。
やがて、町外れのあばら家に到着した。ここは、かつて商人の別宅として使われていた。しかし、今は住む者のいない空き家となっている。周囲には雑草が伸びており、虫や小動物のものらしい音も聞こえる。
太郎丸は、そのあばら家へと入っていく。続いて志津も入って行くが、途中で立ち止まった。そっと、右京の元に歩いてくる。
ぺこりと頭を下げた。
「ここで大丈夫です……あ、ありがとうございました」
「本当に大丈夫なのだな?」
心配そうな顔で尋ねる右京に、志津は頷く。
その時、右京は妙な気配を感じた。誰かが、こちらを見ている。
辺りを見回すと、がさりと音がした。同時に、草むらにて何者かが立ち上がる。
奇妙な男だった。頭をつるつるに剃り込んでおり、目は細く鯰のような髭を生やしている。体はさほど大きくないが、着物の裾から覗く前腕は太く筋張っていた。しかも指の付け根には、大きなたこが出来ている。
「お役人さま、ここに何の用です?」
男は、静かな口調で聞いてきた。言葉は丁寧だが、今にも襲いかかってきそうな雰囲気をまとっている。
「いや、特に用はない。町で、この子らがごろつき共に絡まれていたのでな」
右京が答えた時、志津が男の前に立つ。
「そうです。この方に助けてもらいました」
途端に、男の態度が変わる。愛想笑いを浮かべ、ぺこぺこ頭を下げ始めた。
「そ、そうでしたか! いや、これは失礼しました! ありがとうございます!」
「構わんよ。これも仕事だ」