家族無想 一
「お、お鞠さん……それは?」
西村右京は、困った顔で尋ねた。
彼の前には、お鞠が立っている。いつもと同じく、そでなしの胴着を着て股引を履いた姿だ。ただし、いつもと違う点もある。今日の彼女は、両手に仔猫を抱えていたのだ。大きさは六寸(約十八センチ)ほどで、茶色い虎柄の毛に覆われている。おそらく生まれて間もないだろう。今も、みい、と不安げに鳴いている。どうやら、どこかで拾って来たらしい。この屋敷で飼うつもりだろうか。
右京は、苦りきった表情で空を仰いだ。既に日は沈み、暗くなりかけている。今さら、この少女を追い出すわけにもいかない。お鞠には、世話になっている。恩人と言ってもいいくらいだ。
しかし、今の状況で猫など飼えるのだろうか。
先ほどまで、右京は奉行所にて職務に励んでいた。とはいっても、実のところ同僚からの冷たい視線を逃れ、刻限まであちこちで油を売っていただけである。最近では、上役の村野もうるさく言って来なくなった。
そんな仕事を終え、右京は屋敷へと帰ってきた。と、門のところで出迎えたのはお鞠である。その手には猫を抱えていたのだ。
「ひょっとして、その猫を飼いたいのかい?」
尋ねると、うんと頷く。その大きな瞳は、飼ってくれと訴えていた。
しかし、ああわかったと安請け合いするわけにもいかない。なにせ屋敷には、千代という病人がいるのだ。病人の世話だけでも、手一杯の状態である。この上、生き物の面倒など見られるのだろうか。
戸惑う右京の前に、ひょっこり現れたのが正太だった。珍しく仕事をしていたらしい。
「いやあ、遅くなってごめんね。今から飯作るから……あれ、どしたの」
「いや、お鞠さんがな……」
言いながら、お鞠を手で指し示す。と、正太は笑った。
「かわいいじゃない。いいじゃん、飼ってやろうよ」
「しかしな、うちには病人もいるんだぞ」
右京の言葉に、正太は思案げな表情で仔猫を見る。と、その顔つきが一変した。何か思いついたらしい。
「だったら、こうしよう。あんたの奥方さまが、この猫を気に入ったら飼う。気に入らなかったら、俺が責任を持って捨ててくる。これでどう?」
「仕方ないな」
こうして、右京たちほ地下に降りた。さっそく、仔猫を抱いたお鞠が千代のいる部屋に入っていく。
右京は、固唾を飲んで見つめる。果たして、どうなるのだろうか。
だが、心配は無用だった。
「なー、なー」
木格子の中、千代は嬉しそうな顔で仔猫に手を伸ばした。そっと背中を撫でる。仔猫は、にゃあと鳴いて顔を擦り付けていった。千代と仔猫、お互い目の前にいる者が気に入ったらしい。
「奥方さまは、仔猫が気に入ったみたいじゃん。飼ってやろうよ」
軽い口調で言う正太だったが、右京はまだ不安そうだ。
「しかしな……大丈夫なのか?」
「あのさ、右京ちゃんは考えすぎなの。こういうのが家にいれば、みんなの心を癒やしてくれる。心の平和って奴だよ。これはね、馬鹿にならないんだから。ほら、夫婦喧嘩は犬も食わぬっていうじゃん。あれはね、可愛い犬がいると自然と喧嘩が少なくなるっていう意味だって、裏の爺さんが言ってたぜ」
訳知り顔でいい加減なことを言う正太に、右京は首を捻る。
「ほ、本当なのか?」
「いや、知らんけどさ。まあ、世の中なんかそんなもんだよ。さて、そうと決まれば飯だ飯。早く作らないと」
そう言うと、正太は炊事場へと向かう。右京はそこに留まり、ふたりの……いや、ふたりと一匹が仲睦まじく遊ぶ光景を眺めていた。
「なー、なー」
千代は、仔猫を優しく撫でている。仔猫も、千代のことが気に入ったらしく喉をごろごろ鳴らしていた。時おり、彼女の手にじゃれついている。
そのそばでは、お鞠がにこにこしながら座っていた。と、彼女は不意にこちらを向く。右京に向かい、勝ち誇ったような表情で千代と仔猫の戯れる様子を指差した。これならいいだろう、とでも言わんばかりである。
右京は苦笑し、うんと頷いた。
「わかったよ。私の負けだ」
やがて、御膳を持った正太が地下に降りてくる。握り飯と味噌汁、それに目刺しと沢庵という簡単なものだ。右京は、檻の中に御膳を運び入れる。
ふたりと一匹は、寄り添い御飯を食べ始めた。その様子は微笑ましく、見ているだけで幸せな気分になれた。
「ほらね、俺の言った通りでしょ」
正太の言葉に、右京は微笑みながら頷いた。
・・・
その夜、町外れのあばら家に、奇妙な一行が泊まっていた。
ひとりは侍らしいが、着ている物はみすぼらしく顔も無精髭が目立つ。大小の刀を傍らに置き、虫食いだらけの畳にしゃがみ込んでいた。
隣には、頭をつるつるに剃り込んだ男がいる。体はさほど大きくないが、着物の裾から覗く前腕は太く筋張っている。目は細く、鯰のような髭を生やしていた。指の付け根には、大きなたこが出来ている。
その男が、侍風に向かいそっと語りかける。
「旦那、大丈夫ですぜ。いつでも寝てください。あっしが見張っております。かわりばんこで眠りましょう」
すると、侍はじろりと男を睨む。
「張助、お前はいつまで付いて来る気だ?」
「はい? 何を言ってるんです?」
「今の俺は、ただのお尋ね者だ。旦那と呼ばれるような人間ではない。俺たちと一緒にいれば、お前に迷惑をかけることに──」
「水くせえことを言わねえでください。あっしは、地獄の果てまでお供する覚悟です。旦那がいなかったら、あっしなんか野垂れ死にしていたかもしれねえんです」
張助と呼ばれた男は、血相を変えて言い返す。だが、侍はかぶりを振った。
「今は、俺の方が打ち首にされる身だよ」
そう言って、侍は笑った。その視線の先には、最愛の妻と幼い兄妹がいる。三人とも、奥の部屋で身を寄せ合い眠っていた。その光景は微笑ましい。その姿を見れば、母と子が眠っているものと誰もが思うことだろう。
だが、彼女たちは実の親子ではないのだ──
直後、侍の表情は一変した。張助の方を向き、静かに口を開く。
「もし俺に何かあったら、鈴たちのことをよろしく頼む」
「馬鹿なことを言ってると、旦那でも許しませんよ!」
張助の表情も変わっている。険しい顔つきで侍を睨みながら、たこだらけの厳つい拳を突き出した。
「前に言いましたよね……あっしは、絶対に旦那を死なせやしません。あっしは、先代の大旦那さまにそう誓いました。この誓いを破るつもりはありません。あっしのことが迷惑だとおっしゃるなら、この場で首を叩き切ってください」
低い声で凄む張助に、侍はまたしても苦笑した。
「わかったよ。すまなかったな。これからも、便りにしているぞ」
この侍、名を伊沢森之進という。もともとは、沼木藩の藩士であった。
ところが、ある事件から三人を斬り殺してしまう。その全員が、沼木藩の藩士である。しかも、立場は伊沢より上であった。これは、どう言い繕っても罪を免れることは出来ない。本人の切腹はもちろんのこと、御家断絶も免れないだろう。
だが、伊沢はそうしなかった。罪人として、藩から逃げることを選ぶ。妻の鈴、そして幼い兄妹を連れ江戸に逃げて来たのだ。
張助は、伊沢家に使える使用人である。もともとは唐国に住んでいたのだが、家族と共に乗っていた船が難破し日本に流れついた。
その後に両親が亡くなり、若くして天涯孤独の身となる。一時は渡世人の真似事などしていたが、先代の伊沢源一郎に拾われたのだ。幼い頃より生活を共にしていた森之進とは、主人と下男という関係を超えた固い友情の絆で結ばれている。
また、この男は幼い頃より両親に拳法を仕込まれていた。ごろつきの五人や六人程度なら、素手で簡単に倒せる腕前である。伊沢家の用心棒として、彼らの行くところにはどこにでも付き従っていたのだ。
その忠誠心は、森之進が追われる身となっても変わらなかった。




