恋情無想 六
江戸の町は、ひっそりと静まり返っていた。辺りを暗闇が支配し、空には星が輝いている。そう、今は丑の刻だ。堅気の人間はは眠りについており、闇に生きる者たちが、本格的に動き出す時間帯である。
良玄もまた、闇に生きる者のひとりである。三人の手下を引き連れ、町外れの野原を歩いていた。周囲は草が大量に生えており、人の姿は見えない。
その時だった。草むらから突然、彼らの前に現れた者がいる。用心棒たちは、一斉に身構えた。
しかし、良玄が彼らを制する。現れたのほ、お清だったからだ。
「待て。この女は、俺の知り合いだ」
用心棒たちに言った後、彼女の方を向いた。
「どうした?」
「あんたに話があるんだよ。ちょっと、来てくんないかな」
そう言うと、背を向け歩き出す。
「お前ら、ちょっとここで待っていてくれ」
用心棒たちに言うと、良玄は女の後をついていった。
残された用心棒たちほ、所在なく立っていた。が、すぐに表情が変わる。
ふたりの男が、こちらに歩いてきたのだ。片方は、編笠を被った侍である。もうひとりは、黒い頭巾で顔を覆っている大柄や男だ。
「お前ら、何者だ?」
言ったのは、用心棒頭の鋼蔵だ。すると、答えが返ってくる。
「あんたらを、迎えに来たんだよ」
「何だと? どういう意味だ?」
聞き返す鋼造の前で、侍は編笠を投げ捨てる。
「死事屋、西村右京だ。地獄からのお迎えだよ」
言った直後、刀を抜いた。それが合図だったかのように、全員が一斉に動く──
用心棒の三人は、ほぼ同時に分散した。ひとりは右京に、ふたりは泰造へと突進してくる。この三人は、言葉を交わすことなく、一瞬の判断で相手の力量や攻撃する標的を見定めたのだ。
頭目である鋼蔵は、右京に襲いかかった。右京ほ刀を振るうが、鋼蔵は咄嗟にしゃがみ込んで躱す。しかも、避けると同時に飛びついてきたのだ。
防ぐ間もなく、右京は押し倒された。鋼蔵は、その体勢から馬乗りになる。右京は懸命にもがくが、上に乗った鋼蔵は離れない。
直後、拳が振り下ろされる。右京は、咄嗟に両腕で顔を覆う。しかし、相手は構わず拳の雨を降らせる。その威力は強烈であり、拳も石のように硬い。腕が折れそうだ。右京は、無我夢中で相手の腕を掴む。
次の瞬間、鋼蔵の顔が歪む。そのまま、ばたりと倒れる。
直後、鋼蔵の後頭部から刃を引き抜いたのはお鞠だ。彼女は、そっと後ろから忍びより、鋼蔵の延髄に短刀を突き刺したのである。
「お鞠さん、助かったよ」
痛みをこらえながら、右京はそっと草むらに身を隠す。まだ、戦いは終わっていない。
泰造は、拳を構えつつ相手の出方を窺う。
法鬼と鬼丸の方は、低い姿勢で構えている。どちらも動く気配がない。お互い、下手に動けば一瞬で仕留められる技量であることを見抜いているのだ。
だが、それは長くは続かなかった。不意に、法鬼が構えを変える。低い姿勢から、突然に両手を高く上げたのだ。
その動きに釣られ、泰造の目線が彼を捉える。と、その瞬間を見計らったかのように鬼丸が動いた。巨体に似合わず、滑るような動きで接近していく。
泰造はすぐに反応し、さっと動いた。鬼丸の体当たりをすかし、同時に拳を叩き込む……はずだった。
その瞬間に、法鬼が飛び上がる。上に飛んだ状態から、拳を振り下ろす。何の技量も修練も必要ない、素人にも出来る力任せの打撃だ。しかし、法鬼のような大男は、単純な力任せの攻撃でも凶器にすることが可能だ。
避けそこねた泰造は、法鬼の拳をまともに受けた。顔面に鈍い痛みが走る。泰造の太い首が衝撃を殺しているが、常人がこの打撃を喰らえば脳震盪を起こし意識を失っていたはずだ。
痛みに顔を歪める泰造に、今度は鬼丸が迫っていく。太い両腕を広げ、ぐわっと組み付きに来たのだ。
泰造は、とっさに自ら地面に倒れた。さっと横方向に転がり、間合いを離し瞬時に立ち上がる。数々の修羅場をくぐり抜け、身に付いた動きだ。
しかし、相手も負けていない。泰造の動きに、すかさず反応する。泰造が立ち上がったと見るや、法鬼が飛び上がった。異様な跳躍力で間合いを一気に詰め、拳を振り上げ襲いかかる。
泰造は避けそこね、とっさに太い両腕で顔を覆う。ほぼ同時に、泰造の顔面めがけ拳が飛んで来る。こちらの両腕の動きが早かったため、かろうじて顔面への直撃は免れた。
泰造は転がりながら、どうにか間合いを離す。直後に立ち上がり、敵を睨みつけた。さすがの拳獣といえと、この大男ふたりを同時に相手にしては苦戦は免れない。その額から、汗が流れ落ちる。
一方、法鬼と鬼丸も険しい表情を浮かべている。これまで、侍だろうが武術家だろうが、一刻もかからぬうちに倒していた。
しかし、目の前にいる男はものが違う。ふたりがかりの攻撃に、どうにか対応しているのだ。しかも、あの拳の一撃は凄まじい威力を秘めている。まともに食らえば、前歯はへし折れ顎は砕ける。鼻に受ければ、鼻骨が折れ鼻血で呼吸困難に陥る。
となれば、下半身を攻めるか。低い部分を攻めれば、必然的に拳での打撃を食らいづらくなる。法鬼と鬼丸は、低い姿勢で構えた。そのまま、じりじりと接近していく。
その時だった。突然、草むらの中から立ち上がった者がいる。右京だ。抜き身の刀を振りかざし、無言で突進してきた──
さすがのふたりも、この状況は想定外だったらしい。法鬼と鬼丸の視線が、右京の方へと向けられた。
この隙を逃す泰造ではない。滑るような動きで、瞬時に距離を詰めて行く。あっという間に、三者は戦闘の間合いへと入っていた。
法鬼と鬼丸は、慌ててそちらを向く。だが、遅かった。
低く構えていた鬼丸の顎に、泰造の右拳が炸裂する。下半身の力を拳に乗せ、下から上方向に突き上げるような形の強烈な一撃だ。鬼丸は、上体ごと天の方を向かされた形となる。弾みで、脳は激しく揺れた。
さらに追撃する泰造。左の鉤突き、右の逆突き……高速の正拳連打が、鬼丸の顔面に打ち込まれる。速い上に、その一発一発が体重を乗せた強烈な突きだ。鬼丸の顔面は砕かれ、頭蓋骨の破片が脳へと突き刺さる──
一瞬の後、鬼丸の意識は途絶えた。巨体が、ばたりと倒れる。
ほぼ同時に、法鬼に襲いかかったのは右京だ。その刀が、大男の胴めがけ振るわれる──
異様な金属音が響いた。直後、右京は顔をしかめる。法鬼は、鎖かたびらを着ていたのだ。右京の刀は弾かれ、相手は無傷のまま反撃の体勢に入る──
しかし、法鬼の反撃は成らなかった。今度は、泰造の一撃が背後より放たれる。拳の一撃は、後頭部に叩き込まれた。
完全に不意を突かれ、法鬼の脳は揺れた。視界が歪み、前のめりに倒れる。
そこに、右京の刀が振り下ろされる。その切っ先は、法鬼の首を刺し貫いた。
ようやく戦いが終わり、泰造はしゃがみ込む。荒い息を吐きながら、右京を見上げた。
「お前、短筒はどうした」
「お清さんに貸したんだよ。にしても、慣れないことはするもんじゃないな」
右京は苦笑しながら、刀の刃にそっと触れる。暗くて細かい部分は見えないが、どうやら刃こぼれしたらしい。
「まいったな」
・・・
お清と良玄は、無言のまま歩き続けていた。やがて、良玄が口を開く。
「どこまで行くのだ? 話があるなら、ここらでもよいだろう」
すると、お清は振り向いた。同時に、懐から短筒を抜く。
良玄の顔が歪んだ。
「お、お前……どういうことだった?」
「あたしゃ、殺し屋なんだよ。あんたに死んでもらいたいって人がいるんだ。悪いが、死んでもらうよ」
「待て、俺を殺したら──」
言い終えることほ出来なかった。途中で、お清の短筒が火を吹く──
轟く銃声。直後、良玄はばたりと倒れた。お清は、彼の死体を見下ろす。
若かりし頃、日本の夜明けについて語り合った日々が脳裏に蘇る。あの時のふたりは、戦友であり恋人でもあった。
それが今では、殺す側と殺される側になってしまった。
「馬鹿だよ、あんたは」