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恋情無想 四

 江戸の町外れに、大きな剣術道場が建っている。広さはかなりのものてあるが、剣術に付きものの気合いや竹刀を打ち合う音などは一切聴こえて来ない。通りかかった人間が耳を澄ませば、ぼそぼそという声が聴こえてくる程度だ。たまに大勢の人間が出入りしているのを見かけるが、ほとんどが剣術とは無縁な見た目の者たちである。

 実のところ、その道場が江戸の裏の世界を仕切る『龍牙会』の会議場であることは、ほとんどは公然の秘密であった。裏の世界にいる者はもちろん、町方でも大半の人間が知っている話だ。

 今日は、そこて幹部たちの定例会が行われていた。もっとも、この定例会もほとんど名ばかりのものである。むしろ、何事もなく組織が運営されている……その事実を確かめるためだけに開かれている会議であった。

 そんな大した意味のない定例会も終わり、幹部の者たちは次々と外に出ていった。

 鉄もまた、皆から少し遅れて道場から出てきた。仕掛屋の一員である彼だが、同時に龍牙会の客分格でもある。定例会が開かれるとなれば、出ないわけにもいかない。

 そんな意味なし会議も、ようやく終わった。あくびをし、ぽりぽりと頭を掻きつつ歩き出す。

 その時、声をかけられた。


「あんた、仕掛屋の鉄さんですよね?」


 言われた鉄は、その場に立ち止まった。ゆっくりと振り向く。

 ひとりの女が、思い詰めた様子でこちらを見ている。年の頃は三十前後だろうか。何とも言えない愛嬌と色気がある。若い娘では、この雰囲気は醸し出せないだろう。


「ああ、そうだよ」


 いやらしい笑みを浮かべ、鉄は答える。この男、三度の飯と同じくらい女が好きだ。目の前に立っているのは、なかなかのものである。立てば芍薬すわれば牡丹というほどの美女ではないが、男好きのする容貌だ。一緒に床に入れば、抱き心地も良さそうである。着物の帯をさっと解いたら、ほどよく熟した美味そうな肉体が姿を現しそうだ。

 いやらしい場面を想像し鼻の下を伸ばしつつ、ゆっくりと手を伸ばしていく。

 しかし、彼女の言葉を聞いた瞬間、鉄の手は止まった。


「あたしは、お夏といいます。死んだ壱郎太の女房です」


 途端に、鉄の表情が変わった。でれっとした雰囲気が消える。

 鉄と壱郎太とは、さほど仲が良かったわけではない。そもそも、あの男は裏の世界で一目置かれる存在……というわけでもなかった。はっきり言うなら、鉄の方が格上ではある。

 それでも、顔見知りではある。同じ世界に生きる者、という意識もある。先日、命を落としたことも知っている。


「ほう、そうかい。で、そのお夏さんが、俺に何の用だい」


 尋ねると、お夏は勢いこんで語り出した。


「うちの人を殺した奴を──」


「鉄さん、その女の話は聞かねえ方がいいぜ」


 不意に、横から口を挟んだ者がいる。途端に、女の表情が変わった。


「と、藤堂さん!」


 女の声を聞き、鉄の顔つきが険しくなった。じろりと、新しく会話に加わった者を睨みつける。

 そこにいるのは、龍牙会の大幹部・藤堂であった。さらに、隣には北王会の幹部であり龍牙会の客分格でもある根本がいる。

 ふたつの組織の大物幹部ふたりは、鉄とお夏のいる位置から二間(約三・六メートル)ほどの距離を空けた場所にて立っている。鋭い目で、鉄とお夏を睨みつけていた。だが、鉄は素知らぬ顔で目を逸らす。

 やがて、藤堂が口を開いた。


「お夏さん、いい加減にしてくれねえかな。前にも言ったように、壱郎太さんは首が折れて死んでたんだ。あれは事故なんだよ。奉行所の方でも、そんな見立てだよ。事故で、どうやって仇を取るっていうんだ」


「事故? おかしいじゃありませんか。他にも、数人の男たちが同じ場所で死んでたんですよ。みんな事故だとおっしゃるんですか?」


 負けじと言い返すお夏だったが、藤堂の方は平静だ。


「そういうこともある。それが世の中だ。いいかい、お夏さん……俺の言うことを聞かないのは、俺に逆らうってことだ。それは、龍牙会に逆らうのと同じことなんだよ」


 言った後、今度は鉄の方を向いた。


「鉄さん、あんたも同じだ。いいかい、客分格だからって調子に乗られちゃ困るんだよ。これからは、龍牙会と北王会が江戸を仕切っていく……わかるね?」


 その言葉に、鉄は大きな溜息を吐いた。


「そうかい、そりゃあ良かったなあ」


 言った後、お夏の肩に腕を回す。お夏はびくりとなったが、鉄は構わず語り出した。


「お夏さん、邪魔が入ったな。場所を変えようぜ」


 すると、根本がふたりを睨みつける。


「待ちなよ鉄さん。藤堂さんの言ったことが聞こえなかったのか?」


「知らねえよ。俺はただ、この姉さんを口説きたいだけだ。まさか、女ひとり口説くのも龍牙会の許可がいる、なんて言わないよな?」


 言いながら、薄ら笑いを浮かべ藤堂を見つめる。


「そうかい。わかった。好きにしな」


 不快そうに言い放つ藤堂に一瞥をくれると、鉄はお夏の手を引き歩いていった。

 ふたりの後ろ姿を、藤堂はじっと睨みつける。その目には、あからさまな敵意が浮かんでいた。

 そんな藤堂に、根本がそっと声をかける。


「なあ、藤堂さん。仕掛屋の連中には、そろそろ消えてもらった方がいいんじゃねえのか?」


「だがな、そうなると奴らの元締が動く」


「どうせ、はったりだ。仮に元締なる者がいたとしても、ひとりで何が出来る。俺たちが返り討ちにしてやるさ」




 一方、鉄とお夏は江戸の街中をすたすた歩いている。

 鉄の腕は、お夏の肩に回されていた。通すがりの者は、女好きの鉄がどこかで引っ掛けた女と歩いている……そんな、よくある風景と思うことだろう。事実、鉄の顔はにやけている。いかにも、これから起こる出来事を想像しているかのごとき表情だ。

 もっとも、内心は違っていた。


 やがて、ふたりは蕎麦屋へと入っていく。鉄が店主を務めている『上手蕎麦』だ。そこで、お夏を座らせる。鉄もまた、向かい合う形で椅子に座った。


「では、改めて話を聞こうか。いったい何があったんだ?」


 尋ねる鉄に、お夏は真剣な表情で口を開く。


「うちの人は、良玄と話をつけると言って、子分たちと一緒に出ていきました。なのに、子分や用心棒ともども道端で仏になってた……間違いなく、良玄に殺されたんです。なのに、龍牙会は動こうとしません。だから、仇討ちを仕掛屋さんに頼もうかと……」


「そうか。そりゃ、良玄以外にゃ考えられないよな」


 鉄は、訳知り顔でうんうんと頷いた。だが、その表情が変わる。


「ひとつ言っておく。俺は、仕掛屋であると同時に龍牙会の一員でもある。あんたの仕事を引き受ければ、同時に龍牙会を敵に回すことにもなりかねねえんだよ。しかもだ、俺は大幹部の藤堂から警告されちまった。これを無視するとなると、下手すりゃ客分格を取り消しの上、龍牙会を追放なんてことにもなりかねねえ。だから、俺はあんたの仕事を受けられないんだ」


 すると、お夏の顔が歪んだ。


「そ、そんな──」


 勢いこんで話し出そうとしたが、鉄は片手を上げて制した。


「おいおい、話は最後まで聞くんだ。仕掛屋は、あんたの仕事を受けられねえ。しかし、他の連中なら紹介できる。腕は確かだし、龍牙会とは無関係だ。藤堂が何を言おうが、奴らなら引き受けてくれるさ」


 途端に、お夏の表情が変わった。

 

「ほ、本当ですか?」


「嘘ついてどうする。今から、そいつの所に案内してやってもいい。ただし、そいつがいるのは剣呑横町っていう所だ。町方が、小便もらして逃げてくような連中の住みかだぜ。それでも行くのかい?」


「も、もちろん行きます!」





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