恋情無想 二
その日、お清は大通りを目的もなく歩いていた。
もとより彼女は、定職に就いていない。裏稼業以外には、何の責任も持たぬ身だ。自由なのは確かだが、その自由さと不自由さは表裏一体である。
結局のところ、今のお清は懐が寂しかった。何かいい話でもないかと、町をほっつき歩いていたのである。
犬も歩けば棒に当たる、という言葉がある。外を出歩けば、何かに当たる可能性が出て来る。ただし、それがいい話とは限らない。時には、思い出したくもないものに当たってしまうこともある。
「お清か?」
不意に声をかけられ、お清は振り返る。
ざんぎり頭に灰色の着物、鋭い目つき、痩せてはいるが強靭さを感じさせる体つき。
誰かはわかった。記憶の中から消し去りたい男だ。しかし、今目の前に立っている。懐かしそうな表情を浮かべていた。
「お前、お清じゃないか?」
男は、なおも聞いてくる。お清は、仕方なく頷いた。
「ああ、そうだよ。久しぶりだね、良玄」
お清の方は、作り笑いを浮かべる。正直、あまり会いたくはなかった。
かつて彼女は、この良玄と恋仲だった。それも、ただの恋人同士ではない。二人は、幕府転覆をたくらむ秘密組織に所属していた。
お清は、一度見たものをほぼ完璧に記憶できる。それだけなく、記憶とほとんど変わらぬものを紙に描くことが出来る……という特殊能力があったのだ。絵も上手い。人相描きなどは、文字通り生き写しである。彼女はその能力を買われ、組織でも上の地位にいた。
今、彼女の前に立っている良玄もまた、組織でも上位にいる人間だった。もともとは医師だった。蘭学の知識があり、さらに裏の仕事も躊躇なくこなす男である。
当時、若かったふたりは理想に燃えていた。蘭学を学び、海外の情勢を知れば知るほど、日本との差をまざまざと思い知らされる。このままでは、日本は欧州の列強たちに支配されてしまうだろう。
日本の夜明けを迎える為には、まず国を開かなくてはならない。ところが、この国を支配しているのは旧態然とした考えを捨てられぬ、頭の固い老人たちである。このままでは、いつまでたっても変わらない。
そこで、お清たちは過激な手段に走る。結果、想定外の事態が起きた──
「今、何をしている?」
良玄の問いに、お清は無表情で答える。
「別に、何も」
「そうか。お前ほどの女が、もったいないな」
その言葉には、偽らざる本音が感じられた。だが、お清はそれを無視する。
「あんたこそ、何してんのさ」
「まあ、いろいろとな」
答えた後、周囲を見回した。ややあって、笑みを浮かべる。
「どうだ? 久しぶりに、一緒に飯でも食わんか?」
その問いに対し、考える前に答えていた。
「ああ、いいよ」
ふたりは、近くの小料理屋に入る。向き合って座ってはいるが、両者の間には異様な空気が漂っていた。
「本当に何もしていないのか?」
まず口火を切ったのは良玄だ。
「そうだよ。あれ以来、何もかも嫌になっちまった」
お清は、冷めた表情で答える。あれとは、かつて彼らの所属する組織がやったことだ。
町外れにある一軒家。周囲に人気はなく、あとは井戸と物置小屋があるだけ。この家、実のところ幕府の要人がお忍びで通っていた愛人宅である。普段は、女がひとりで暮らしていた。
そこに、良玄は爆弾を仕掛けることにしたのだ。要人の護衛を務める侍もろとも、皆殺しにするつもりである。
ところが偶然にも、愛人宅に近所の子供が遊びに来てしまった。その子は、女と要人もろとも爆死する。幼子のちぎれた腕が、見張っていたお清の目の前に吹き飛ばされ、転がってきた。
しかも、その件がきっかけとなり組織は幕府に目を付けられる。徹底した捜査の末、主要人物のほとんどが捕われ、打ち首獄門の刑に処される。お清は、眼帯で変装し地下に潜った。結果、剣呑横町にて呪道と出会う。
良玄も、江戸を離れた。出島にて、さらなる蘭学の研究に励む……という言葉を最後に、ふたりは会っていなかった。
「あれは、誰のせいでもない。不幸な事故だ」
冷酷な表情で言い放つ良玄を、お清は睨みつける。
「不幸な事故、ね。あんたは、それで済ませられるのかい?」
「済ませるしかあるまい。なあ、よく考えてみろ。幕府のお偉方が私利私欲を追い続ける裏で、何人の人間が泣いている? 何人の人間が命を失っている? それに比べれば、ひとりの子供が死んだことなど、何だというのだ?」
すました顔で、すらすらと答える。この男は、罪の意識など微塵も感じていないらしい。
「なるほどね。それが、あんたのやり方かい」
「そうだ。ここで立ち止まってしまっては、何もならない。むしろ、死んでいった子供に気の毒だ」
「気の毒?」
お清の眉間に皺が寄るが、良玄は構わず語り続ける。
「ああ。このままでは、死んでいった者たちは犬死にではないか。彼らの死に意味を持たせるためには、我々がこの日本を変えていくしかない」
「ふうん。何だか、便利な頭してるね。要は、俺たちのやってることは正しい……そう言いたいだけだろ。自分を正当化するための理屈なら、いくらでも思いつける。さすがだよ。たいした学者さまだね」
皮肉以外の何物でもない口調で、お清は言った。良玄の表情が、僅かに変化する。
「お前はどうなのだ? それだけの能力を持ちながら、何も成さずに人生を終えるつもりか?」
「ほっといてよ。あたしがどう生きようが、あんたにとやかく言われたくないね」
吐き捨てるような口調だった。先ほどまでは、僅かに過去を懐かしむ気持ちがあった。しかし今、その気持ちは綺麗に消え去っていた。
そんな彼女に、良玄はなおも語りかける。
「それは違うぞ。能力のある者には、責任が伴う。お前は、優れた能力を持ちながら腐らせるに任せる気なのか」
そこで、良玄は口を閉じる。店に、新たな客が入ってきたからだ。それも、見回り同心である。まだ若く、二十代から三十代前半か。無駄肉は付いておらず、役者のようないい顔をしている。
だが、良玄はそれだけではないものを感じていた。この同心、かなりの修羅場を潜っている。良玄自身も、これまで血生臭い場面を切り抜けてきた。その勘が告げている。
この男、ただ者ではない──
不意にお清が立ち上がる。さっと同心の隣に座った。
「おや、西村の旦那じゃござんせんか」
媚びを売るような声音だ。同心は、隣に座った彼女をちらりと見る。一瞬の間を置き、口を開いた。
「なんだ、お前か」
ぶっきらぼうな口調だ。しかし、お清は構わずしなだれかかる。体を、ぴたりとくっつけた。
「冷たいんですねえ。ところで、こないだ頼んだ件は、どうなったんです?」
甘えるような声だ。普段のお清らしからぬ態度である。しかし、同心こと右京の態度は素っ気ない。
「待っていろ。頼まれたからと言って、簡単には動けん。役人を何だと思っているのだ」
ふたりのやり取りを見ていた良玄は、すっと立ち上がる。その場に金を置いた。
「お代は、ここに置くぞ。では、縁があったらまた会おう」
その言葉を残し、良玄は去っていった。
彼の姿が完全に見えなくなったのを確かめると、お清はふうと息を吐く。同時に、ぱっと右京から離れた。
「お陰で助かったよ。あんがとさん」
小声で言うと、冷めた表裏で頭を下げる。すると、右京も答える。
「別に、礼を言われるほどのことはしていない。私も今、ちょうど飯を食おうと思っていたところだ」
「そうかい。この借りは、いつか返すよ」
「返さなくていい。私は、何もしていないのだからな。ところで、今のは何者だ?」
不意に聞かれ、お清は口ごもる。
「そ、それは……」
「言いたくなければ、言わなくていい」