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恋情無想 一

 夕暮れ時、奉行所での仕事を終えた右京は、家への道をのんびりと歩いていた。

 空には鴉が飛んでおり、時々かあーという声が聞こえる。周囲を行き交う人たちも、ほとんどが家に帰るところのようだ。民家の前を通れば、味噌汁を作っているような匂いも漂ってくる。家庭の温かい匂いだ。

 ついこの間までの右京には、家庭の匂いなど無縁のものだった。むしろ、家に帰るのは苦痛だった。出迎える者のない我が家。荒れ果てた庭。散らかし放題の屋敷。暗い地下室に行けば、千代の罵声が響き渡っていた。

 しかし、今は違う。




「よう、帰ったのかい」


 屋敷に帰ると、聞こえてきたのは正太の声だ。中は綺麗に掃除されており、台所からは美味しそうな匂いが漂ってくる。味噌汁の匂いだろうか。


「ああ」


 ぶっきらぼうな顔つきで言葉を返し、右京は草履を脱いだ。

 先日、右京は殺し屋の八郎とお菊夫妻に命を狙われた。それを知った正太とお鞠のふたりがなぜか発奮し、屋敷に寝泊まりするようになってしまったのである。用心棒のつもりだった、らしい。お鞠はともかく、正太は用心棒としては頼りないが、本人は俄然やる気であった。

 殺し屋の件は、ほろ苦い真相そして嫌な後味ともに決着がついた。しかし、ふたりが立ち去る気配はない。以来、屋敷に居着いてしまっている。

 右京としては、それが嫌なわけではない。むしろ、ふたりの存在はありがたくもあり、嬉しくもある。

 だが、彼らにも彼らの生活があるはずだ。これでいいのだろうか……などと思いつつ、右京は屋敷の中に入っていく。

 縁側を見れば、お鞠と千代が並んで腰掛けていた。お鞠は、入ってきた右京の方を向き片手を挙げる。喋ることの出来ない彼女なりの挨拶なのだろう。しかし、千代は右京のことを見ようともしない。ぼーっと庭を見つめている。もっとも、昔に比べれば遥かにましだ。

 不意に、千代が空を指差した。


「あー、あー」


 何を言っているのかはわからない。実のところ、言われているお鞠の方も、千代の言葉を完璧理解できているのかは不明だ。

 それでも、お鞠はにこにこしながら彼女の指差す方向を見上げている。そこに、何が見えているのだろうか。今の右京には、見ることの出来ないものがあるのかもしれない。

 これまでは、千代を地下から外に出すことなど出来なかった。何をしでかすか、予想もつかなかったからだ。暗い地下室の中で、ずっと閉じ込めておくだけだった。

 それが今では、こうして地下から出て来ている。お鞠がそばにいると、千代もおとなしくしていられるのだ。


 やがて外が暗くなり、空に星が出てきた時、お鞠がすっと立ち上がった。千代の手を握り、くいくいっと引く。戻るよ、という合図だろう。


「うー、うー」


 千代は不満げな声を出しながらも、お鞠の指示通りに動く。しぶしぶ立ち上がると、己より十以上も歳下の少女に手を引かれ、地下室へと戻っていった。

 ここ最近、千代の生活も変化している。昼間と夕方の二回、地下室を出て散歩するようになったのだ。散歩とはいっても、家の中と狭い庭を歩くだけだが、これでも彼女にとって大変な進歩である。以前は、地下室から出すことすら出来なかった。

 右京は、複雑なものを感じている。

 自分は人殺しである。死事屋の一員として、たくさんの命を奪ってきた。しかし、その死事屋に入ったことがきっかけとなり、自分と千代は救われた。

 もし、あのままだったら……妻を殺し自らも命を絶っていたかもしれないのだ。


「右京ちゃん右京ちゃん、そろそろ飯できるかんね」


 物思いにふけっていた右京に、馴れ馴れしく声をかけたのは正太だ。近頃は、どんどん口調がくだけたものになって来ている。今では、ちゃん付けされる始末だ。苦笑しながら、彼の方を向いた、


「ありがとう。ところで、お前は家に帰らなくていいのか?」


「家? いいよ。どうせ帰ったって、誰も待ってやしないし」


「しかしな、お前も大変だろう」


 何の気なしに言ったのだが、途端に正太の顔つきが変わる。


「ちょっとお、もしかして俺たちがここにいたら迷惑だって、そう言いたいの?」


「ち、違う。そんなことを言っているのではない。むしろ、お前たちが来てくれて助かっている。ただ、私は貧乏同心だ。お前たちの好意に報いることが出来ん──」


「んなもん、気にすんなってえの。あんたから金取ろうなんて思ってねえよ。俺たちはさ、人様に言えない仕事をしてる者同士だ。助け合わにゃあよう」


 胸を張って偉そうに言う正太に、右京は思わず笑ってしまった。だが、そこで前から気になっていたことを思い出す。

 この際だ。ためらいつつも、問うてみた。


「ところで……呪道さんは、お前たちがここに来ていることを知っているのか?」


「知ってるよ。いろいろ手を貸してやれって言ってた」


「そうなのか」


 いい加減といおうか、はたまた器が大きいのか。呪道という男がわからなくなる。あれでも、昔は龍牙会の大幹部だったというのだ。

 まあ、いい。右京は、その場に座り込んだ。ぼんやりと庭を眺める。

 ついこの前まで、荒れ放題だった庭。しかし今では、雑草が綺麗に刈られている。ふたりが、庭の手入れをしてくれたのだ。


「ほいほい、飯できたよ。下に運ぼうぜ」


 正太の声が聞こえ、右京は立ち上がった。




 薄暗い地下室に、握り飯と味噌汁と焼いためざしの乗った御膳を持っていく。千代はご飯を手づかみで食べるため、彼女の分は常に握り飯にしてある。

 木格子の中だというのに、千代とお鞠は仲良く握り飯を食べている。時おり目を合わせ、無言で笑い合ったりもしている。

 かつては、食事を持っていっても吠えられるだけだった。千代は凄まじい形相で右京を睨み、食べる時も警戒し目線を離さなかった。獣そのものだった。

 しかし、今は違う──


 改めて、人の情けが心に染みた。


 ・・・


 その夜。

 江戸の片隅に建てられた掘っ立て小屋にて、異様な者たちが集結していた。




 蝋燭の明かりだけが頼りの暗い室内で、四人の男たちがあぐらをかいて座っていた。うちひとりは、髷のないざんぎり頭だ。皆、一言も発しない。無言で何かを待っている、そんな様子だ。

 やがて、ひとりの男が室内に入ってくる。おそらく四十を超えているだろう。一見すると、どこかの商人のような物腰だ。この場には、似つかわしくない風貌である。

 商人風の男は座り込むと、懐から小さな紙包みを出した。部屋の真ん中に、ぽんと置く。

 すると、ざんぎり頭の男が前に出てきた。手を伸ばし、紙包みを開く。人差し指を入れ、中の粉末をそっと(すく)った。

 粉の付着した指を、ぺろりと舐めた。

 次の瞬間、目つきが変わる──


「どうかな、良玄(りょうげん)殿」


 商人風に問われたざんぎり頭の男は、薄ら笑いを浮かべつつ頷いた。


「こいつは上物だ。間違いない」


「そうだろうとも。ここまで上質の阿片を作るには、それなりの手間と技術が必要だ」


「どこで仕入れている? (おらんだ)か?」


 聞いてきた良玄に、商人は答える。 


「いや、違う。清国で作り、仕入れている。だがな、いずれ日本でも作れるようになる予定だ」


 その時、後ろに控えていた男のひとりが口を開く。


「龍牙会は、阿片を扱わないはずじゃなかったのか? 奴らに睨まれたら、厄介なことになるぞ」 

 

 すると、良玄は笑った。おかしくて笑ったのか、あるいは阿片のせいか。


「問題ない。大幹部の藤堂は、金さえ渡せばどうにでもなる。問題は額次第だ」


 言いながら、良玄は再び紙包みに指を入れる。今度は、粉の付いた指を鼻に近づけた。思い切り吸い込む。


「しかし、龍牙会の連中もいい加減うっとおしくなってきたな。そろそろ、お勢にも引退してもらう頃合いだ」






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