無念無想 八
華のお江戸も、子の刻(午前零時前後)を過ぎれば人の出は少なくなる。
そんな中、三崎屋の主人・三崎文吉は、用心棒の川田小十郎を連れて夜道を歩いていた。
「まったく、龍牙会への付け届けも、いい加減にうっとうしくなってきたな」
「そうですね」
二人して、ぶつぶつ文句を言いながら歩いていた時だった。突然、三崎の足が止まる。
「なんだあれは?」
その言葉に、川田が提灯を高く掲げる。
五間(約九メートル)ほど先に、奇怪な格好の者が立っていた。頭から黒い頭巾を被り、口周りを黒い布で覆っている。袖を切り落とした黒い着物を身にまとっており、体は異様な大きさだ。肩幅は広くがっちりしており、胸板は鎧でも着込んでいるかのような分厚さだ。剥きだしになっている腕は、丸太のように太く逞しい。肩から腕のあたりには、瘤のような筋肉に覆われているのが見てとれる。
言うまでもなく、死事屋の泰造である。川田と三崎を仕留めるために来たのだ。
もっとも、彼らは迫る危機に気づいていなかった。
「な、なんだあいつは」
「下がっていてくれ。何があれば、叩き切ってやる」
言いながら、川田は刀の柄にてを伸ばす。その瞬間、泰造は襲いかかる──
勝負は……いや、勝負とは呼べないものだった。泰造の速い踏み込みに、川田は刀を抜く暇もなく、泰造の拳を顔面に受ける。それも、続け様に三発だ。
川田の頭蓋骨は陥没し、骨片が脳を破壊する。当然、生きてはいられない。川田は、ばたりと倒れる──
「ひ、ひいぃ!」
三崎は、慌てて逃げ出した、その時、塀から飛んで来た者がいた。お鞠だ。彼女は三崎の背に飛びついたかと思うと、首すじに短刀を突き刺す。
急所を貫かれ、三崎は一瞬で絶命した。
鼠の権六は、不景気そうな面で夜道を歩いていた。
この男、ついさっきまで博打場にいた。景気よく張っていられたのは、ほんの一瞬である。今はひたすら、懐の寒さに耐えて歩いている有様だ。
こうなっては仕方ない。また、例の手口で稼ぐとするか……などと思いつつ、提灯を片手に夜道を進んでいく。周囲に人影はなく、たまに虫や小動物の立てる音が聞こえる。
その時だった。物陰から、何者かがすっと現れる。誰かと思い、権六は後ろに飛びのいた。
しかし、よくよく見れば相手は同心である。
「あんた、私を狙っている者がいると言っていたよな」
言いながら近づいて来たのは、西村右京であった。
権六は顔をしかめる。確かに以前、この男に接触した。例の手口で、小遣い稼ぎを……と企てたのである。
しかし、右京は乗って来なかった。挙げ句、八郎とお菊は死んでしまったと聞く。恐らくは、この同心に返り討ちに遭ったのだろう。案山子などと呼ばれている割には、腕は立つらしい。
いや、そんなことはどうでもいい。まずは、目の前にいる男への対処が先だ。上手くごまかさなくてはならない。
「た、旦那……いやあ、ご無事でよかった。ところで、いい話があるんですけどね」
へらへら笑いながら、馴れ馴れしく近づいていく。もとより、いい話などない、適当な話を作り、丸め込み時間を稼ぐ。その間に、どうにかするのだ。
その時、右京は動いた。近づいて来た権六に、いきなり彼の背後を指を差す、
「おい、あればなんだ?」
「えっ?」
権六は、ぱっと振り返る。その瞬間、右京の腕が伸びてきた。背後から、首に腕を巻き付ける。そのまま、ぎゅっと狭めていく。狭められた腕は、首の気道と動脈を絞め上げていった──
何をされたか気づいた時には、どうすることも出来ない状態にあった。権六の意識は消え、体から力が抜けていく。
気づいた時、権六は見覚えのない場所にいた。どこかの物置小屋だろうか。明かりのための提灯以外は何も置かれていない小屋の柱に縛られ、立たせられている。
目の前には、西村右京が立っていた。
「だ、旦那、何を──」
「お前は、八郎が私の命を狙っていることを知った。そこで、私の所に来た。命を狙っている者がいる。知りたければ金を出せ、というわけだ。何と汚い手口なのだろうな」
権六の言葉を遮り、言い放つ右京。
「そ、それは……だ、旦那のことが心配だったからですよ」
「ほう。長い付き合いの八郎よりも、縁もゆかりもない私のことを心配したのか。お前は、変わった考え方の持ち主なのだな」
「えっ? 違うんですよ。八郎とあっしとは、ただの知り合いです。まあ、ご近所みたいなものぐぎゃぁぁ!」
言葉の途中、権六は凄まじい悲鳴をあげる。右京の短刀が、彼の足に刺さっていたのだ。
さらに、右京はぐりぐりと短刀を動かす。痛みのあまり、権六はじたばたともがく。だが、手足はきつく縛られている。動くことは出来ない。
右京は、冷ややかな表情で話を続ける。
「お前は、章吉という若者に三崎屋を襲う話を持っていった。その裏で、三崎屋に情報を流し金を得た。結果、章吉は用心棒に斬られ死んだ。さらに、それが原因で八郎とお菊が命を落とした」
言った直後、右京は短刀を振り上げた。今度は、腕に突き刺す──
権六は、またしても悲鳴をあげた。必死で暴れるが、体に食い込んだ縄は固い。
「章吉は、他人に褒められるような生き方をしていなかった。それは間違いない。死んだのも、自業自得の部分が大きいだろう。だがな、お前のやったことのせいで、死ななくてもよかったはずの人間がふたり、私の目の前で死んだんだ」
右京は、殺気のこもった表情で言い放つ。出来ることなら、このまま腹を切り裂き腸を引きだし、地獄の苦しみを味わわせたい。それが、今までの彼のやり方だった。
だが、そうなると外で見張る正太に余計な手間をかけさせることになる。あの男には、最近いろいろ世話になっている。あまり迷惑をかけたくない。
次の瞬間、右京は短刀を権六の胸に当てる。
心臓めがけ、一気に突き刺した──
・・・
その頃。
江戸の片隅にある寂れた屋敷の一部屋に、異様な男たちが数人集まっていた。
行灯の薄暗い明かりの下、全員が車座になり座っている。顔に浮かぶ表情は堅く、異様な空気が漂っていた。
「龍牙会とやらが、この江戸を仕切っているのかえ?」
奇妙な言葉遣いで尋ねたのは、ひときわ目立つ風貌の男である。長い髪をだらんと垂らした総髪で、髷は結っていない。着ている物は様々な色をちりばめた南蛮風の衣装だ。肌は白く、人形のような顔立ちである。美しいが、人間らしさが全く感じられない。
「そうです。もっとも、あれはもう終わりですな。屋台骨が、完全にぐらついています。大幹部の藤堂は、値段次第で親でも売る男。その藤堂が集めた者たちも、やはり金次第てどうにでもなる連中です」
答えたのは根本だ。いかつい山賊のような見た目の彼だが、この場においては常識人に見える。
「まったくだ。まさか百両で、幹部の座を買えるとはな。恐れ入ったよ」
言ったのは、疾風の又吉である。そう、この男はもともと北王会の人間である。今は龍牙会の幹部でもあるが、いざとなれば北王会に寝返る腹積もりである。
「まだるこし。面倒だし。さっさと皆殺しするよろ」
言ったかと思うと、脇に置かれていた青竜刀を振り上げた者がいた。髪を一部のみ残して剃りあげており、残った髪は長い三つ編みだ。いわゆる辮髪である。唐服を着ており、顔は凶暴そうだ。
「陳さん、もう少し待ってくれ。まだ、厄介なのが残っている」
根本が答えると、又吉が口を挟む。
「ひょっとして仕掛屋か?」
「そうだ。あいつらだけは、どうも得体が知れねえ。元締の正体が、未だ見えねえんたよ。それに死事屋もいる。呪道は、どう動くか読めねえ」
顔をしかめつつ、根本は答えた。すると、又吉はにやりと笑う。
「それなら問題ない。今、龍牙会にいる幹部らをたきつけてる。そのうち、仕掛屋や死事屋と小競り合いを起こすだろうよ。そうなりゃ、龍牙会も内側からがたがたになる。後は、俺たち北王会が漁夫の利を得るだけだ」