無念無想 一
「西村、何をしている」
時間潰しのため、西村右京は今日も書庫にこもっていた。適当な書物に目を通し、調べ物をしている……ふりをしていたのである。ところが、いきなり声をかけられてしまった。しかも、聞き覚えのあるものだ。
仕方なく、笑顔を作り顔を上げる。この声の主は、上役の村野竹蔵だからだ。知らん顔は出来ない。
「少々、調べ物などをしておりました」
すました表情で答える右京を、村野はじろりと睨んだ。
「昼間から、こんなところで油を売っているのか。どうしようもない奴だな」
「申し訳ありません。すぐに外回りに向かいます」
真面目くさった顔で、すぐに書庫を出た。しかし、肩を掴まれる。
「ちょっと待て。まだ、話は終わっていない」
そう言うと、村野は顔を近づけてきた。小声で囁く。
「近頃、お前の屋敷を、薄汚い格好をした女がちょくちょく出入りしているという噂を聞いたぞ」
「薄汚い女?」
「ああ。釣竿を担いだ女が、お前と一緒に屋敷に入っていくのを見た者がいる。髪を短く切っており汚い服を着て、まるで乞食のようだったと言っていた」
お鞠のことだ、と気づいた。途端に、凄まじい怒りが体の裡より湧き上がってきた。我知らず、拳を握りしめる。
村野は、右京の変化に気付かず一方的に語り続ける。
「いいか、女遊びが悪いとは言わん。むしろ、お前にそんな一面があってくれてほっとしたぞ。まだ若いし、女遊びも必要だろう。しかしな、相手は選べ。妾にするなら、乞食はやめておくんだ。お前は同心なのだぞ。何なら、相応しい女を紹介してやってもいい」
その時、右京は口を開いた。
「彼女には、お鞠さんという名前があります。妾などではありません」
「はあ? お鞠さん、だと? お前は乞食女にまで、さん付けするのか? これは傑作だな」
はっはっは、と嘲笑う村野。だが、右京の表情が尋常なものでないことに気づいた。すぐに口を閉じる。
その右京は、人ひとり殺してもおかしくなさそうな形相で語り出した。
「高名な医師も、有名な祈祷師も、千代に近づくことすら出来なかった。しかし、お鞠さんは近づくことが出来た。今では、足しげく通い千代の面倒を見てくれています。話し相手にもなってくれています。名ばかりの医師や祈祷師などより、よほど尊敬に値する人です。そんな人に、さん付けをするのはおかしいことでしょうか? 違いますよね」
殺気すら感じられる声に、さすがの村野もたじたじになっていた。
「お、お前は何を言っているのだ?」
「聞かれたから、答えたまでです。私は今、何か間違ったことを言っていたのでしょうか?」
言いながら、右京は一歩前に出た。その時、両者の間に割って入った者がいる。須藤左分之助だ。
「村野さま、お話し中のところ申し訳ありません。西村殿、一緒に見回りにでも行こうではないか。ちょっと、貴殿に相談したいことがあってな」
言いながら、須藤は右京の手を掴み強引に引っ張っていく。
残された村野は、ふうと安堵の息を吐いた。
「い、今のはなんだ……」
生ける案山子、などと呼ばれていた右京。同心の中でも、一番の役立たずのはずだった。
しかし、今の姿は首斬り役人よりも凄みを感じた。何より、あの目……本物の殺気を帯びていた気がする。
一方、右京は半ば強引に外へと連れ出された。この須藤という男、大柄な見た目の通り腕力は強い。
その須藤のいかつい顔が、ぬっと近づいてきた。
「どうしたのだ? 先ほどは、村野さまに斬りかかりそうな顔をしておったぞ」
「いえ、何でもありません。少々、嫌なことを言われたので、ついかっとなり……」
面目なさそうに、頭を下げる。確かに、先ほどはどうかしていた。お鞠のことをあしざまに言われ、さらに嘲笑された。その態度に、本気の怒りが湧き上がっていたのは間違いない。
「何を言われたかは知らんが、短気は損気だ。いつもの貴殿なら、へらへら笑って済ませていたのではないか」
「そうでしたね。本当に、申し訳ありません」
答えた右京に、ごつい手が伸びてきた。彼の肩に手を回し、そっと抱き寄せる。
「謝るなら、村野さまにだ。そんなことより、気分直しに飯でも食おうではないか。悩みがあるなら、言ってみろ。何なら、酒でも一献──」
言い終える前に、右京は手から逃れていた。
「い、いや……そんなことをしていると、また手抜きをしているなどと言われますので……」
そんなことを言いながら、さっと退散した。須藤は苦笑しつつ、腕を組んで右京の後ろ姿を見送る。
「つれない男だ。しかし、俺は諦めんぞ」
数時間後、右京は屋敷への道を歩いていた。
昼間の一件で、上役である村野に完全に睨まれてしまった。これでは、牢屋見回りに降格させられるのも時間の問題だ。
まあ仕方ない。牢屋見回りも悪くないだろう……などと思いつつ、屋敷へと帰っていく。
だが、想定もしていなかった事態が待っていた。
「ああ、やっと帰って来たんだね。じゃあ、やろっか」
軽い口調で言ってきたのは、萬屋であり死事屋の一員でもある正太だ。右手に草刈り鎌、左手には大きな麻袋を持ち、屋敷の前に突っ立っている。
その隣には、お鞠がいた。彼女も普段と同じ格好で、草刈り鎌と麻袋を持っている。
「お、お前たちは、何をしに来たのだ?」
唖然とした顔で尋ねる右京に、正太はすました顔で答える。
「何って、見りゃわかるでしょ。庭の草刈りだよ」
「私は、そんなことを頼んだ覚えはないぞ」
言った途端、正太は呆れた様子でかぶりを振った。
「あのさあ、この庭見てみなよ。草ぼうぼうじゃん。侍の屋敷じゃないよ、こんなの。だから、俺たちがやってやるって言ってんの」
言いながら、庭を指差す。確かに、雑草が伸び放題ではある。しかし、そこまでしてもらっていいのだろうか。
右京が言い返そうとした時、近所の家の奥方が通り掛かった。押し問答をしている両者を、怪しげな目で見ている。こいつらは何をしているのだ? とでもいいたげだ。
こうなっては仕方ない。右京は、ふたりを屋敷に入れた。すると、待ってましたとばかりに草刈りを始める。しゃがみ込むと、鎌で雑草を刈り取り、麻袋に詰めていった。
そんな正太とお鞠を、右京はただただ見ていることしか出来なかった。いつのまにか、このふたりが自分の生活の奥深くに入り込んできている。
不快、というわけではない。むしろ、その環境に心地好さを感じている。そんな自分に、戸惑いを感じていた。
そんなことを考えていた時、おかしな音が聞こえた。獣が唸るような声である。大きな音ではないが、お鞠の耳には届いたらしい。手を止め、右京に視線を送る。何が起きているか、わかっているのだ。
正太はというと、きょとんとした顔でふたりの顔を見る。
「ちょっと、どしたの?」
怪訝な表情で聞いてきた。右京は、思わず苦笑する。
「千代だ。お鞠さんが来たことに気づいたらしい。こういう所は、妙に勘が鋭いんだ」
答えた後、お鞠の方を向いた。
「すまないが、行ってあげてくれ。草刈りは、また別の日でいいよ」
ふたりは地下室に行った。お鞠は木格子の中に入り込み、右京は外にいた。
「うー、うー」
しきりに何かを訴える千代に、お鞠はにこにこしながら頷いていた。そんなふたりを、右京は微笑みながら見ている。
やがて、千代の機嫌も直ったらしい。
「あー、あー」
今度は嬉しそうな表情で、お鞠に語りかけていた。身振り手振りも交え、何かを伝えている。お鞠はうんうんと頷き、時おり頭を撫でる。
やがて、正太が降りてきた。両手にお盆を持ち、慎重に階段を降りて来る。
「飯が出来たよ。食おうぜ」
奇妙な光景だった。
薄暗い地下牢のごとき場所で、四人の男女が飯を食べている。もっとも、流れている空気は和やかなものだ。まるで家族のような雰囲気である。
不意に、千代の手が止まった。既に食べ終わっているお鞠の顔を、まじまじと眺めた。
手を伸ばし、お鞠の頬に触れる。何かをつまみ取り、少女に見せる。
見ていた右京と正太は、くすりと笑った。どうやら、頬に米粒が付いていたらしい。お鞠はというと、千代の手首を握り優しく上下に振る。ありがとう、といっているのだろうか。
「なんかさ、すっごく和むね」
正太が誰にともなく言うと、横にいた右京も頷いた。