出会無想(四)
「あ、あなたは……何を言っているんだ?」
右京は完全に動揺していた。声を震わせ、視線をあちこち泳がせつつ、どうにか言葉を搾り出した。
その目の前にいる呪道はというと、不敵な表情を浮かべている。
「何を言っているんだ、って、聞いたままだよ。俺たちの仲間になれば、五両で青鞘組を皆殺しにしてやる。こんな得な話はないぞ。龍牙会なら、百両出さなきゃ引き受けないだろうな」
「私は役人だぞ。役人を仲間に入れてどうする?」
言い返したものの、声の震えは取れていない。この男、まだ動揺している。裏の世界の事情について、あまり詳しく知らないのだろうか。
裏稼業には、役人が紛れ込んでいることも珍しくない。特に、かつて江戸中を騒がせた鳶辰率いる辰の会と仕掛屋との抗争では、とある役人の存在が明暗を分けた。もっとも、その事実を知っているのは呪道と、他には数人だけだが。
「あんた、何もわかってないんだな。役人が仲間にいれば、俺たちみたいな稼業にとって大助かりなんだよ。その十手をちらつかせりゃ、入れないはずの場所にも入れる。俺たちじゃ知り得ない情報も知ることが出来る。しかも、あんたは顔もいい。その面を活かしてもらう局面もあるだろうな」
したり顔で、呪道は語った。
右京の方はというと、下を向いて足元をじっと見つめている。顔には、苦悶の表情が浮かんでいた。悩んでいるのは明白だ。
もっとも、呪道にはわかっていた。今すぐは無理としても、右京は必ず落ちる。時間はかかるだろうが、悩んだ末に仲間になることを選ぶはずだ。
呪道という男、伊達に若くして龍牙会の大幹部の地位にいたわけではない。腕は立つし、頭も切れる。口も上手い。人を見る目もある。心理戦も苦手ではない。目の前にいる男の心の動きを、完全に読みきっていた。
「それに、だ……どうせ殺るなら、てめえの手で仇を討った方がいいんじゃねえのかい」
ここで、切り札となる台詞を放つ。無論、呪道なりの計算から出たものだ。だが。全てが計算ずくともいえない。自らの手で仇を討たせ、生ける案山子から脱却してもらいたい……そんな気持ちもあった。らしくもない話だが、調べていくにつれ、右京に対し欠片ほどの哀れみと親しみとを感じていた。
右京はというと、無言のままだった。しかし、心に響いているのは明白だ。
ただ、ここで無理にごり押しをするわけにもいかない。こういった交渉事には、押すだけでなく、引くことも大切だ。
「まあ、いいよ。あんたにも、考える時間は必要だろ。とりあえず、三日待ってやる。よく考えて決めるんだな──」
「いや、悩むことではない。私は、あんたの仲間になる」
呪道が言い終わる前に、右京が口を開いた。その表情は真剣そのものであり、強い覚悟すら窺える。普段の表情が嘘のようだ。
さすがの呪道も、右京の変わりっぷりに圧倒されていた。まさか、こんなに早く腹を括るとは。この同心が、仲間になるという選択をするだろうとは読んでいた。ただし、悩みに悩んだ挙げ句……という展開からだと思っていた。
「おいおい、こんなに早く決めちまうのかよ」
思わず出た言葉に、右京は強く頷いた。
「もともとは、自分で手を降すつもりだった。だが、全員を仕留められるかはわからなかった。奴らの中には、腕が立つ者もいる」
声を震わせながら、右京は語った。言葉の奥からは、悔しさが感じられる。
呪道は、この男が生ける案山子と呼ばれていた理由が、何となくわかってきた。右京は己を保つため、必死で全ての感情を押し殺し「案山子」として生きて来たのだ。
そうでなければ、押し寄せる負の感情に飲み込まれてしまうから。
「万が一、ひとりでも討ち漏らした挙げ句に奉行所に駆け込まれたら……私が罪人として捕縛される。そうなれば、残された千代は生きていられん」
右京の言葉は正直なものだった。仮に妻が殺された……という話ならば、彼は何のためらいもなく的場慎之介を殺しに行っていただろう。
守るべきものがある右京は、慎重に動かざるを得ない。裏の世界に生きるのなら、守るべきものの存在は命取りにもなりかねないが。
「そうだな。確かに、奴ら全員を仕留めるのは、ひとりじゃ厳しい」
「で、私はこれから何をすればいい?」
右京は、鋭い表情で聞いてきた。先ほどまでの、悩む青年の雰囲気は綺麗さっぱり消え失せている。
代わりに、復讐者の顔つきになっていた。
「今日のところは、おとなしく帰れ。後で、連絡する」
「わかった」
数日後。
陽は沈み、闇が空を覆う頃……編み傘を被り提灯を持った右京が、剣呑横町へと足を踏み入れた。念のため腰に刀は下げているが、着物はつぎはぎだらけのみすぼらしいものだ。傍から見れば、食い詰め者の浪人と映るだろう。
しばらく歩くと、目的の場所に到着した。
混沌とした雰囲気に満ちている剣呑横町の中でも、この『慈愛庵』は格別に奇妙な場所だった。一応は木造の平屋だが、入口には骸骨の頭を旗竿の先端に突き刺した奇怪なものが飾られている。看板の字も癖が強く、一見では読むことが出来ないだろう。
おまけに、戸口の周辺には不気味な人形や木彫りの妖怪のようなものが置かれていた。夜の闇の中で見ると、なんとも奇怪な風景である。さすがの剣呑横町の住人たちも、ここには近づけないようだ。
右京は戸の前に立つと、そっと声をかける。
「呪道さん、西村だ」
その声を待っていたかのように、すっと戸が開いた。
中にいたのは、お鞠だった。眉間に皺を寄せ、じっと睨んでいる。お前は好きになれないが、呪道の命令だから仕方ない……とでも言っているかのようだ。
「やあ、お鞠さん。呪道さんは中かい?」
尋ねると、お鞠はぷいと向きを変えた。すたすたと奥へ入っていく。愛想の欠片もない。未だに嫌われているようだ。
右京は苦笑しながら、後を付いていく。
中は、板張りの広い一室があるだけだ。例えるなら、剣術道場のごとき雰囲気である。表の禍々しい雰囲気とは違い、落ち着いた感じだ。ここでは、何の商売が行われているのだろうか。
思わず首を捻る右京を見ようともせず、お鞠は奥へと進んでいく。が、いきなり立ち止まった。
直後、しゃがみ込んで床板を外していく。すると、地下に通じる梯子が見えた。高さは、八尺(約二百四十センチ)ほどだろうか。
お鞠は、ここを降りろと手の動きで指示する。右京は、不安を覚えながらも地下に降りていった。
ややあって、お鞠も後に続く。
地下は一本道であり、五間(約九メートル)ほど先には強い明かりが見える。地下室があるらしい。恐らく、そこに呪道と残りの者たちがいるのだろう。右京は、真っすぐ向かっていった。
地下室に入った途端、右京は唖然となった。
中は板張りであり、意外と広い。少なくとも、どこかの貧乏長屋の一室より広いのは間違いない。行灯もあり、とりあえず視界は良好だ。
そして床の上には、呪道と……他に二人があぐらをかいて座っていた。
ひとりは、今までに見たこともないような体格の男だった。肩幅は広くがっちりしており、腕は丸太のように太い。恐らく、右京の足より太いであろう。袖を切った灰色の着物を着ており、頭は綺麗に剃り上げている。
だが、それよりも特徴的なのは……この男、肌の色が真っ黒だった。顔の造りも、和人とは明らかに違う。
もうひとりは、作務衣を着た女だ。虚無的な雰囲気を醸し出しており、年齢の判断がしづらい顔立ちだ。顔の色も青白く不健康そうで、目つきも冷たい。顔立ちそのものは悪くないのだが、能面のように表情の変化に乏しいのだ。
もっとも一番の大きな特徴は、左目に黒い眼帯をしていることだが。
江戸中の名だたる裏の組織を回っても、これほど個性的な面子を揃えるのは難しいのではないか。想像を遥かに上回る濃さに、右京は圧倒されていた。そんな中、呪道が立ち上がっる。
「右京、来たな。あんたのことは紹介してあるよ。遠慮しないで、こっちに来て座れや」
馴れ馴れしい口調で言いながら、大げさな動きで手招きする。部屋に漂う不気味さが、呪道の軽い感じと道化師のごとき身のこなしで少しだけ和らいだ気がした。
その時、お鞠が室内に入って来た。そのまま、すっと呪道の隣にに座り込む。
すると呪道は、右京の方を向いた。大男を指差す。
「この男は、泰造だ。辰蔵一家を殺ったのは、こいつだよ。見ての通り、力は熊並みで、動きも速い。殴られたら、顔がぐしゃっと潰れちまうぜ」
呪道が冗談めいた口調で紹介したが、泰造はにこりともしない。無言のまま、じっと右京を睨んでいる。右京は苦笑しながら、軽く会釈した。
「あなたは、異国の人のようだな。よろしく頼む」
声をかけると、泰造は微かに反応した。片方の眉が、ぴくりと動く。どうやら、こちらの言葉は理解できるようだ。
「ほう、知ってるのか。大したもんだ。普通の人間がこいつを見たら、妖怪だの物の怪だの叫ぶんだがな」
呪道の言葉に、右京は頷いた。
「昔、蘭学者に聞いたことがある。異国には、私たちとは違う肌の色を持つ人間がいる、とな。もっとも、実際に見るのは初めてだが」
「なら、話は早い。この泰造はな、船が難破して海岸に漂着していたところを、運よく親切な村人に助けられた。そして、俺に拾われたってわけさ。言葉は少しはわかるし話せる。ただし、仲良くなった奴としか話さない」
次いで呪道は、眼帯の女を指差す。
「この女は、お清だ。昔は学者だったが、いろいろあって俺たちの仲間になった。主に裏方の仕事を任せてる。知識も豊富だ。他にも、いろんなことが出来る。まさに多芸多才だね」
聞いた右京は、お清の方を向いた。すると残った右目から、はっきりとした敵意のこもった視線が飛んで来る。この女、役人が嫌いらしい。もっとも、裏の世界の住人は大なり小なり役人を信用していないのは間違いない。
だが、この女の場合は少し違う事情がある気もする。
まあいい、無理して全員に好かれる必要もあるまい。右京は軽く会釈し、再び呪道へと視線を戻す。
すると、呪道の表情が一変した。先ほどまでの、弛緩した雰囲気が完全に消えうせる。
「今回の獲物は、青鞘組だ。的場慎之介を筆頭に、村野俊介、田村芳太郎、神島源之丞、森田源吾の五人だ。金は五両、はっきり言って安い。が、この件をきっかけとして同心の西村右京が加入することとなった。これは、些細な銭金では換算できない価値があると思う」
そこで、一度言葉を止めた。室内にいる者たちひとりひとりの顔を見回した。
少しの間を置き、再び語り出す。
「的場はだな……右京、あんたに仕留めてもらう。知ってるとは思うが、奴は奥山新影流の免許皆伝という肩書を持つ剣の使い手だ。いけるか?」
「もちろんだ。むしろ、こちらからお願いしたかったくらいさ。この命に替えてでも、必ず仕留めてみせる」
真剣に語る右京に、呪道は苦笑した。
「いや、死なれちゃ困るから。とりあえず生きて帰ってくれ。で……残りの四人は、泰造とお鞠に任せる。いいな?」
呪道の言葉に、お鞠はうんうんと頷いた。一拍置いて、泰造も頷く。
「それとだ、今回は全額前金だ。ひとり一両ずつ持っていってくれ」
言いながら、呪道は五枚の小判を床に置いた。
まず、お清が手を出す。次いで泰造、お鞠、呪道と続く。最後に、一枚残された。
「右京さんよう、そいつはあんたの取り分だ。持ってってくれ」
呪道の言葉に、右京は表情を歪めた。
「私はいらん。あんたらで分けてくれ」
憮然とした表情で言葉を返す。すると、呪道の表情も変化する。
「あのな、いらんじゃ困るんだわ。こいつは、道楽じゃねえんだよ。それにだ、金も受け取らず人を殺すのは、ただの鬼畜だぜ。俺たちは鬼畜じゃねえ、死事屋だ。この稼業を本気でやっていく気なら、その銭は受け取ってもらうぜ」
その言葉には、有無を言わさぬ迫力がある。右京は何か言いかけたが、黙ったまま小判を手に取り懐に入れる。
すると、呪道は満足げな笑みを浮かべた。
「よし、俺は今から下調べと仕事の準備にかかる。みんな、ぬかるなよ」