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秘術無想 四

「やあ鉄さん、わざわざ来るとは珍しいな」


 慈愛庵を訪れた鉄に、呪道は意外そうな顔で声をかけた。もっとも、その表情は堅い。

 それも当然だった。まだ日は高く、人通りの多い時間帯である。普通なら鉄の店『坊主蕎麦』も営業しているはずだ。この男、いかつい風貌に似合わず妙にまめな部分がある。店も、よほどのことがない限り休まない。

 そんな男が、店を閉めて現れる……これは、よくよくのことであろう。



 一方の鉄は、渋い顔でずかずか上がり込んできた。板の間に腰を下ろし、おもむろに口を開く。


「いきなりで悪いがな、桔梗屋の裏金を運んでいた連中が襲われた。用心棒の浪人たちが殺され、金が奪われたらしい」


「ああ、その話かい。正太から聞いたよ」


「その件だがな、やったのは死事屋の人間なんじゃねえかって言ってる奴もいるんだよ。どうなんだ? もしお前が下手人なら、分け前よこせば口をつぐんでやる」


 言いながら、手のひらを突き出してきた鉄。お駄賃をねだる子供のような仕草だ。呪道は苦笑しつつ答える。


「分け前よこせって言われてもさ、俺は関係ないから。泰造も動いてないよ」


「だろうと思ったよ。お前は、そこまで大それたことをする男じゃねえしな」


 そこで、鉄の表情が険しくなる。


「となると、どこの馬鹿がやったかだよ。お前、あんなことやらかしそうな奴に心当たりあるか?」


「どうだろうな。唐手、中国の拳法、柔術などなど……江戸の片隅で、地をはい回るような思いをしながら、ひたすら腕を磨いている武術家は少なからずいるだろう。ただ、そこまでの凄腕に心当たりはないね」


 そう、江戸には多くの武術家がいる。しかし、そのほとんどが苦しい生活を送っていた。平和な時代ともなると、武術など学んで何になる……そんな考え方が主流になっていくのは当然だ。小さな町道場を持ち指導が出来るような身分の者はまだましで、ほとんどは他の仕事をしている。中には、その腕を活かし裏社会の住人に身を堕とす者もいる。

 しかし、そうした者たちの末路は哀れだ。武術家たちは、基本的に真面目な性格の人間が多い。ところが、裏の世界で様々なことを知るにつれ、どんどん堕落していく。飲む打つ買うにはまり鍛練も怠るようになり、挙げ句に野足れ死んでしまう。


「そうか。ついでに聞くが、疾風の又吉って阿呆を知ってるか? 最近、龍牙会の幹部になったらしいんだがな、そいつがお前を目の仇にしてたぞ」


「いや、聞いたことないな。どんな奴?」


「うちの隼人くらいの背丈で、陰険な面してやがる。一言で表現するなら、ふてぶてしい猿って感じだな」


 さすがの呪道も、それだけではわからない。思わず苦笑し首を横に振った。


「それだけじゃわからないよ。それにさ、俺に恨みを持つ奴なんざ、江戸には掃いて捨てるほどいるからね。そん中のひとりだろうさ」


 軽い口調で答えたが、鉄の表情は険しいままだ。


「なら、いいんだけどな。どうも、あいつの態度はひっかかるんだよ」


 その言葉で、呪道も前からひっかかっていたことがあったのを思い出した。


「あのさあ、ちょっと気になる噂を聞いたんだけど。近頃の龍牙会は幹部が増えたって本当かい?」


「増えてるってほどでもないな。ただ、見たことも聞いたこともない奴が、いきなり幹部になってやがるのは確かだ。気にいらねえよ」


 鉄は、吐き捨てるような口調で言った。その顔には、不快な感情がにじみ出ている。

 一方、呪道は眉をひそめた。鉄の龍牙会への愚痴は、今に始まったことではない。ただし、今回は聞き逃せない部分がある。


「鉄さんよう、見たこともねえ奴が幹部ってのはどういうことだい?」


「言葉の通りだよ。集会に面を出してみれば、初めて見る顔が半分くらいいやがる。又吉ってのも、そのひとりだ」


 その言葉に、呪道は眉をひそめる。


「どういうことかねえ。龍牙会では、それなりに顔や名前の知られた奴でないと幹部になれないはずだったんだがな」


 そう、ある程度は名前を知られ人望もあり器量もある……そんな人間でない限り、幹部にはなれなかったはずなのだ。

 裏の世界でそれなりの顔である鉄が、見たことも聞いたこともない人間がいきなり幹部になっている……これは、明らかに妙だ。

 どういうことだろう、と思わず首を捻る。だが、鉄が簡単に答えてくれた。


「それは、お前が大幹部だった頃の話だろうが。どうせ藤堂の阿呆は、金さえ積めば誰でも幹部にするんだよ。あいつなら、稼げるとなりゃ猿回しの猿でも幹部にするだろうよ」


 ・・・


 その中年男は、異相としか言いようのない風貌であった。

 背はやや高く、肩幅は広い。顔はいかつく、口の周りは濃い髭に覆われている。だが、顔色は悪かった。死人のように青白い。

 中年男は闇の中で、無言のまま佇んでいる。その目は虚ろであり、どこを見ているのかは不明だ。




 そんな場所に向かい、数人の男たちが歩いてきた。何やら御機嫌な様子で、べらべらと大声で喋りつつ進んでいる。


「親分、あの若い女中は俺に気がありますよ」


 ひとりの若者が、自信たっぷりに言ってのけた。すると、全員が笑い出す。


「馬鹿言ってんじゃねえ!」


「前にも、そんなこと言ってたじゃねえか!」


 そんなことを言い合い、げらげら笑う若者たち。その中心にいるのは、ひときわ貫禄のある年輩の男だ。背丈はさほど高くないが、肩幅は広くがっちりした体格である。顔には、数箇所の刃物傷があった。

 この男、龍牙会の幹部である口入れ屋の征吉せいきちだ。会でも古株の男で、それなりの発言力がある。仕掛屋の鉄も、この征吉には一目置いていた。

 征吉は今夜、若い者を連れてあちこちを見回っていた。これには、ふたつの目的がある。ひとつは、手下たちへのねぎらいのためだ。もうひとつは、若い者たちの人間性や器量の見定めである。遊んでいる時こそ、人間の本性や器の大きさが見えてくる……これが征吉の持論であった。


「おい、なんだあいつは?」


 手下のひとりが、前方に佇んでいる中年男を指差す。


「安酒の飲みすぎで、頭が痛いんじゃねえか」


 別の若者が軽口を叩く。すると、中でもひときわ血の気の多い男が、つかつか近づいて行った。


「こら、道の真ん中で突っ立ってるんじゃねえ。邪魔だ」


 言った途端、中年男が顔を上げる。

 そのふたつの眼には、黒目がなかった──


「な、なんだこいつ」


 思わず呟いた時、その胸に拳が打ち込まれる。それも一発ではない。立て続けに数発、強烈な正拳突きが叩き込まれた。肋骨が砕け、骨片が内臓に突き刺さる──

 男は、胸を押さえ倒れた。だが、中年男はそれだけでは終わらない。無表情で、征吉らに襲いかかった。強烈な突きや上段回し蹴りが炸裂し、若者らは次々と倒れていく。

 その光景を見た征吉は、腰に下げていた長脇差ながどすを抜く。躊躇なく切りかかった。

 だが、中年男はいとも簡単に避ける。次の瞬間、上段回し蹴りが放たれた。

 顔面に回し蹴りをまともに食らい、征吉は意識を失い倒れる。ほぼ同時に、首めがけ中年男の踵が振り下ろされた──

 首をへし折られ、征吉は絶命した。中年男は、異様な顔つきでその場に突っ立っている。

 しばらくして、そこに現れた者がいた。ぼさぼさの髪で、身に付けているものは腰布だけだ。しかも、体には奇妙な紋様がいくつも描かれている。

 異様な男ふたりは、連れだってその場を去っていった。


 


 ふたりが去ってしばらくした時、茂みからそっと這い出して来た者がいた。作務衣を着て、左目に黒い眼帯を付けた女だ。

 この女、死事屋のお清である。彼女は、呆然した表情で呟いた。


「ちょっと待ってよ……あいつ、確かに死んだはずだよ」






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