秘術無想 二
「あっ、そこそこ、そこいい!」
「ほう、ここかい。ここがいいのかい」
「い、いいよ! そこそこ!」
声の字面だけ見れば、色っぽい男女の秘め事の最中だと思う人間が大半だろう。
だが実際には、そこにいるのはふたりの男である。片方は拝み屋の呪道、もう片方は仕掛屋の隼人だ。隼人は、呪道の体を丁寧に揉みほぐしている真っ最中であった。
かつて、仕掛屋の鉄は按摩を表稼業にしていた。腕はかなりのものである。しかし偏屈な性格ゆえ、さほど儲かってはいなかった。当時、現物の鉄なる二つ名を持っていたが、貧しい貧乏人からは金を取らず、大根だの魚だのといった現物で治療してしまうところから付いたあだ名である。
だが、仲間の隼人が裏社会の抗争により目を潰されてしまう。それまで大道芸人をしていた隼人だったが、盲目になっては続けられない。そこで、鉄が手取り足取り按摩の技術を教え込んだのである。今では、師匠の鉄よりも上手くなってしまったのだ。
「お前みたいなのがいたんじゃ、按摩なんか続けられねえよ」
そう言って、鉄は按摩を廃業した。代わりに蕎麦屋を始めたが、上手くいっているとはいえない。だが、それでも按摩に戻る気はなさそうだった。
そして今、隼人は依頼を受けて慈愛庵を訪れていた。
先日、相作との死闘を制した呪道。だが、その肉体はひどく傷ついていた。相作の強烈な突きや蹴りを食らっており、翌日には歩くことすらままならぬ状態であった。幸いにも命にかかわる怪我はしていないが、早く治さないと仕事に差し支える。
そこで、隼人を呼ぶことにしたのだ。彼の知る限り、もっとも腕のいい按摩である。
「あんたも元締なんだから、自分で手を降す必要はないだろう。これからは、泰造さんに任せておきなよ。あの人に勝てる奴なんか、江戸にはいないだろう」
肩のあたりを入念に揉みほぐしながら、隼人が言った。だが、呪道は顔をしかめて首を振る。
「こっちにも、いろいろ事情があるんだよ。あいつだけは、俺が引導を渡してやらなきゃならなかったのさ」
そう、相作だけはこの手で片付けなくてはならなかった。彼を怪物に変えた一因は、自分にあるのだから──
「ところで、あんたは妖術や呪術にも詳しいと聞いたんだが、本当かい?」
不意に聞かれ、呪道は苦笑しつつ頷いた。
「まあな、一応は拝み屋の看板を掲げてるから、それなりに知識はあるよ。なんだ、呪って欲しい奴でもいるのか?」
「いや、そうじゃない。ただ、あんたなら呪術で相手を呪い殺せるんじゃないかと思ってね」
すると、呪道は急に真面目な顔つきになった。
「あのな、呪いってのはな非常に難しいんだよ。どんな効果が出るか、はっきりとはわからない。相手が死ぬこともあれば、すっ転んでかすり傷で終わることもある。しかも、呪術には代償が必要だ。流派によって、代償の種類も異なる。いけにえとして仔牛を捧げる所があったり、自分の体の一部を差し出す所もあるらしい」
「呪術にも流派があるとはね。知らなかったよ」
「いろいろあるんだよ。ただ共通することはひとつある。呪術にしろ妖術にしろ、使いこなすには修練が必要だ。俺も知識として知ってはいるよ。でもな、下手に手を出したらとんでもないことになる。呪術や妖術ってのは、本来なら人間が手を出しちゃいけない分野なんだよ。武術と同じさ。生兵法は怪我の元、ってな」
「なるほどな」
「だから、お前も余計なことに興味は持つな。そんだけ見事な技を持っていれば、大抵の奴は仕留められる。呪術なんか、失うものの方が遥かに大きいんだよ。その覚悟がない奴が、呪術だの妖術だのに手を出しちゃいけないのさ。俺たち拝み屋は、そういったことを知らせるのも役目なんだよ」
・・・
草木も眠る丑三つ時(午前二時前後)。
闇に紛れて、密かに進む奇妙な者たちがいた。全員が、編笠を被って顔を隠しているのだ。刀を腰にぶら下げ、油断なく周辺を見回している。
彼らは、表に出せない金を運ぶ者たちであった。全員が浪人者である。仕官の口利きと引き換えに、この仕事を引き受けたのだ。無論、礼金ももらえることになっている。
大きな店を構える商人にとって、奉行所の役人や名の知れた旗本らに便宜を図ってもらうための付け届けは、欠かせない行事である。大抵の場合、菓子箱などに詰めて渡すが、時に菓子箱には入り切らない額の金が動くこともある。そうした時には、夜の闇に紛れてひっそりと運ぶこともあるのだ。
今回もまた、そうした類いの金がひっそりと運ばれていく……はずだった。
「おい、なんだあいつは?」
先頭を進んでいた浪人が、提灯を高く掲げる。
六間(約十・八メートル)ほど先に、奇妙な者が立っている。逞しい体つきだ。背はやや高く、肩幅は広い。顔はいかつく、口の周りは濃い髭に覆われている。恐らく中年男だろう。
だが、顔色は異様に悪い。提灯の明かりの下でも、死人のように青白い顔色なのが見てとれる。
浪人たちは、思わず顔を見合わせた。
「貴様、何者だ?」
ひとりが声をかける。だが、中年男は無言のままだ。完全に無視し、道の真ん中で突っ立っている。
その態度が、浪人たちの怒りに火をつけた。腰の刀に手をかけ、つかつか近づいていく。
「我らは先を急ぐ身だ。お前と遊んでいる暇などないのだがな。どかぬなら、死んでもらうぞ」
ひとりが凄んだが、中年男は無言のままである。近くで見ると、さらなる異様さに気づく。
その瞳には、黒目がなかった──
「な、なんだこやつ」
上擦った声を出しながら、刀を抜いた者がいた。その行動は殺意からではなく、恐怖に突き動かされてのものである。闇夜の中、無言で突っ立っている中年男はあまりにも異様だった。さっさと消えて欲しい、その思いが刀を抜かせていたのである。抜き身の刀を見れば、いくらなんでも退くだろうと。
だが、その行動は間違いだった。抜き身の刀を見た瞬間、中年男は動く。がっちりした体からは、想像もつかない速さで間合いを詰めた。
直後、右の正拳突きが放たれる。拳は、浪人の胸に炸裂した。凄まじい衝撃で、一瞬にして胸骨がへし折れる──
次の瞬間、浪人はばたりと倒れた。粉々に砕けた胸骨が体内で破片となって飛び散り、内臓を傷つけたのだ。無論、常人には考えられない腕力の為せる技である。
浪人たちは一瞬、何が起きたのかわからず呆然となっていた。
だが、すぐに我に返る。全員が刀を抜き、切りかかって行った。
ところが、中年男は表情ひとつ変えない。浪人たちの斬撃を次々と躱していき、同時に正拳突きと回し蹴りとで反撃していく──
浪人たちは全員、一瞬にして倒れ伏していた。中年男の方は、何事もなかったかのように立っている。息も切らせず……いや、そもそも息遣いの音が聞こえてこないのだ。
金を運んでいた者たちは、既に逃げ去っていた。もちろん、金はその場に置き去りである。千両箱など担いでいては、逃げることに差し支える。彼らは、金より己の命を選んだ。もっとも、それは賢明な選択であろう。
やがて、その場にひとりの男が現れる。ぼさぼさの黒髪は結われておらず、口の周りは濃い髭に覆われている。顔だけ見れば河原乞食のようだ。
もっとも、顔から下は河原乞食も逃げ出すほどの異様さであった。腰回りに布を巻いているだけで、あとは裸である。その全身には、奇怪な紋様が書かれていた。さらに、手には象形文字のようなものが彫られた杖を持っている。
死人のごとき中年男と、紋様だらけの男が並んで立っている。それは、魔界に迷いこんでしまったかのような光景だった。