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秘術無想 一

 西村右京は、足を止めた。

 五間(約九メートル)ほど先に、お鞠の後ろ姿を見かけたのだ。いつもと同じく、そでなしの胴着に股引姿だ。釣竿を肩に担ぎ、腰に魚籠びくをぶら下げ、とことこ歩いている。

 もう、夕暮れ時だ。日は沈み、鴉の鳴く声も聞こえる。恐らく、彼女も家に帰る途中だろう。それでも、呼び止めずにはいられなかった。


「お鞠さん」


 声をかけると、彼女はぱっと振り向いた。右京の姿を見ると、おおおとでも言っているかのような表情になる。

 右京は、思わず笑った。この娘は、本当に面白い。


「大漁かい?」


 尋ねると、うんうんと頷く。魚籠に手を入れ、小ぶりの魚を両手に一匹ずつ掴み上げる。とったぞ、とでも言わんばかりの表情だ。


「凄いね。ところで、暇はあるかい? 実は、そこの店で牡丹餅ぼたもちを買ったんだ。千代も、君と一緒に食べたいんじゃないかと思ってね」


 言いながら、手に持った包みを指し示す。途端、お鞠は激しく首を振った。もちろん、縦にだ。


「それはよかった。では、行くとしようか」




 右京とお鞠は、連れだって歩いて行く。片や奉行所の見回り同心、片や浮浪児のごとき見なりの娘。どう見ても、異様な組み合わせだ。見回り同心という職に就く者としては、褒められた行動ではないだろう。

 しかし右京は、誰にどう見られようが気にも留めなかった。この少女が、千代を救ってくれたのである。いや、千代だけではない。自分のことも救ってくれたのだ。

 仮に、お鞠とかかわることで同心を辞することとなっても、いっこうに構わないと思っている。その時は、本格的に裏の世界の住人になるつもりでいた。


 やがて、家の近くまで来た時だった。不意に、右京は振り返った。


「おい、そこで隠れてる奴。出てこい」


 鋭い声を発した。だが、何の反応もない。右京は、苛立った表情になる。


「出て来ないのなら、こちらにも考えがあるぞ。明日、お前の店に押しかけてやる。適当な罪名でしょっぴいてやるからな」


 その途端、物陰から出てきた者がいる。死事屋の正太だ。普段と同じ、袖の短い着物姿である。ざんぎり頭を掻きながら、上目遣いに右京を見ている。


「私に何か用か?」


 尋ねたが、正太は何も言おうとしない。時おり、鋭い目線を浴びせてくる。

 右京は首を捻る。目の前にいる青年が、自分を嫌っていることはわかっていた。町でばったり出くわしても、無言でぷいと顔を背ける、そんな間柄だ。したがって、遊びに来たというわけでないことはわかる。

 では、何用だろう。右京は、すっと間合いを詰める。


「何用か、と聞いているんだ」


 言った途端、正太は意を決した表情で口を開く。


「よ、用か、だと! お鞠を屋敷に連れ込んで、何してんだよ!?」


 さすがの右京も唖然となった。うろたえつつも言葉を返す。


「ちょっと待て。お前は何を言ってるんだ?」


「お、俺にはわかってんだぞ! 何も知らないお鞠を屋敷に連れ込んで、いかがわしいことしてんだろうが! 公職にある妻帯者が、若い娘を屋敷に連れ込んで好色に耽っていいのか!? この助平同心!」


 いきなりまくし立てられ、お鞠はきょとんとなっている。だが、右京の方は表情が険しくなった。


「私は、お前に誤解されても構わん。だが、その誤解はお鞠さんを侮辱することになる。それは見逃せんな」


 言いながら、右京は手を伸ばして正太の首根っこを掴む。ひっと悲鳴をあげたが、気にも留めず力ずくで引きずっていった。


「中で、お鞠さんが何をしているか見せてやる。さあ、来い」




 正太は、唖然となっていた。

 彼は今、西村の屋敷にいた、地下にある部屋に連れて来られ、木格子の前に立っている。

 地下牢の中には、異様な女がいた。伸び放題のぼさぼさ頭で顔は覆われ、着物は汚れている。おとぎ話に登場する山ん婆のようだ。身なりや顔つきや動きからして、普通の女でないことは馬鹿でもわかるだろう。

 そんな異様な女の前にいるのは、お鞠である。女を恐れるそぶりはなく、むしろ優しい目で見つめていた。


「うー、うー」


 女が、何やら話しかける。すると、お鞠はうんうんと頷く。話が通じているのだろうか。


「これ、どういうこと」


 頭に浮かんだ疑問を、誰にともなく口にしていた正太。すると、右京か口を開く。


「あれは、私の妻の千代だ。二年近く前、男たちに襲われた。青鞘組と名乗る旗本の息子たちだ。千代は殴られ蹴られ、大勢の男たちに乱暴された。以来、千代は笑わなくなった。理性も失ってしまった。私が近寄ると、獣のような声をあげ立ち向かって来る始末だ」


「そ、そんな……ひでえよ。ひど過ぎるじゃねえか」


 そう言ったきり、正太は黙り込む。その顔は歪み、やるせない表情が浮かんでいる。

 一方、右京は静かな口調で語り続ける。


「今まで、誰も千代に近寄ることは出来なかった。ところが、お鞠さんだけは接することが出来た。以来、お鞠さんは足しげく通って来てくれている。片手の不自由な千代の、身の回りの世話をしてくれるんだ。話し相手や遊び相手にもなってくれている。いいか、私のことを何と言おうが構わない。嫌うのも、お前の自由だ。しかし、お鞠さんの悪口を触れ回ることだけは許さん」


 その時、いたたまれなくなったのだろうか。神妙な顔つきで、正太は頭を下げた。


「ご、ごめんよ。あんた、いろいろ大変なんだな」


「わかればいい」


 そういうと、右京は階段を上がろうとした。が、足を止めて正太の方を向く。


「今から夕飯だ。お前も食べていくか?」


「えっ、いいの?」


「構わん。食卓はにぎやかな方がいいだろう。冷や飯で申し訳ないがな」




 やがて、着替えた右京は台所に立つ。包丁を握り、魚をさばき始めた。

 すると、横から正太が口を出す。


「あんた、不器用だな。人の腹かっさばくのは上手いけど、魚さばくのは苦手なのかい」


 その言葉を聞き、右京はじろりと睨む。その拍子に、包丁で指を傷つけてしまった。ほんのかすり傷だが、血は出ている。

 思わず舌打ちする右京。だが、ほぼ同時に正太も舌打ちしていた。


「ああん! もう、何やってんの! どいてどいて!」


 言うなり、ずかずか近づいていく。右京の手にある包丁を、引ったくるように掴んだ。


「料理は俺が作るから、あんたはそこで見てな」


「お前、作れるのか?」


 反射的に尋ねた右京に、正太はにいと笑う。


「俺は昔、女郎に食わしてもらってたことがあるんだ。そん時は、掃除洗濯に飯炊き、全部やってたよ。魚のさばき方なら、あんたよりずっと上手いぜ。任せなって」


「あ、ああ」




 薄暗い地下室は、のどかな空気に包まれていた。

 冷えきった握り飯と、正太の調理した焼き魚と味噌汁を、お鞠と千代は美味しそうに食べている。

 お鞠は、あっという間に食べ終えた。この少女、体は大きくないが大食である。食べるのも早い。

 やがてお鞠は、そっと千代の分の魚に箸を伸ばした。盗み食いをするのかと思いきや、身をほぐし丁寧に小骨を取ってあげている。いつもながら、お鞠の気配りには感心させられた。


「お鞠の奴が、こんなに気が回るとは思わなかったよ」


 見ている正太が、呟くように言った。

 やがて、ふたりは牡丹餅を食べ始める。いつものごとく、あっという間に食べ終わるお鞠に対し、千代はのんびり食べている。

 だが、千代の手が止まった。お鞠が食べ終わっているのを見ると、残った牡丹餅をふたつに割った。ひとつを彼女に差し出す。

 お鞠は、首を横に振り受けとろうとしない。すると、千代が悲しそうな顔になる。


「うー、うー」


 不満そうな声を発しながら、なおも牡丹餅の欠片を突き出してくる。お鞠は困ったような顔で、ちらりと右京の方を見た。

 右京は、にっこり微笑む。


「お腹いっぱいでなければ、食べてあげて欲しい。千代は、君と一緒に味わいたいのだよ」


 その言葉に、お鞠は頷いた。牡丹餅を受け取り、口に入れる。

 千代も、牡丹餅を口に入れた。嬉しそうにもぐもぐたべる。

 ふたりの姿を見て、右京は久しぶりに平和な気分に浸っていた、




 やがて、帰る時が来た。玄関で草履を履くお鞠と正太に、右京は声をかける。


「ふたりとも、今日はありがとう。また来てくれ。いつでも歓迎するよ」


 その言葉に、お鞠はうんうんと頷く。一方、正太は照れ臭そうに笑った。


「暇な時は、また飯作りに来てやるよ。あんた、すっげえ不器用だから。そのうち、包丁で自分の指でも落としかねないからさ」




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