因縁無想(五)
江戸の町外れに建っている、大きな剣術道場。そこが実際には、江戸の裏の世界を仕切る『龍牙会』の会議場であることは、公然の秘密であった。
普段、龍牙会が開く定例会には、少ない時でも十人前後が参加している。しかし、今日はひとりしかいない。
そのひとりは、仕掛屋の鉄であった。かつては現物の鉄なる奇妙な二つ名で呼ばれていた男も、今では蕎麦屋の鉄に変わっている。その名の通り、今は蕎麦屋を経営している。同時に、裏の世界でも名の知れた『仕掛屋』の代表者でもある。
今回、鉄は仕掛屋の代表者として龍牙会に呼び出されたのだ。広い板の間に、ひとりで座っている。その厳つい顔には、微かな緊張感が漂っていた。
ややあって、鉄の前に三人の男女が姿を現す。龍牙会の元締であるお勢と、用心棒の死門。さらに大幹部の藤堂だ。
「鉄さん、今日はわざわざ来てくれて──」
「堅苦しい挨拶は抜きにしようや。時間の無駄だ」
愛想笑いを浮かべ挨拶の言葉を述べようとした藤堂であったが、鉄はそれを一蹴する。彼の目は、元締のお勢に向けられていた。
「お勢さん、俺を呼び出した理由だが……あれだろ? 黒木屋の件だろう?」
鉄の言葉に、お勢は頷いた。
「わかっているなら、話は早い。そう、黒木屋の件だ」
黒木屋とは、江戸でもかなり有名な商店である。一応は堅気の店であるが、龍牙会とも付き合いが深い。お互い、持ちつ持たれつの関係を長く続けていた。
ところが……昨日、その黒木屋に強盗が入る。一家全員を皆殺しにした上、大金を奪われたのだ。しかも、惨劇の場には紙が貼られていた。
その紙には「龍牙会 鏖」と書かれていたのだ──
「黒木屋のような堅気の衆に手を出した以上、その報いは受けてもらう。そこでだ、この始末を呪道にやってもらうことにした」
お勢の口調は静かなものだった。が、鉄の表情はみるみるうちに変化した。
「ちょっと待ってくれよ。そいつは、どういうことだ?」
「黒木屋を襲ったのは、相作だ。手引をしたのは浦部梨乃介らしい。奉行所の役人たちも、躍起になって奴らを探していると聞く。だがな、これは龍牙会議の……いや、裏の世界の問題だ。決着は奉行所ではなく、裏のやり方でいく」
お勢の態度はにべもない。鉄は顔を歪ませながらも、さらに言葉を続ける。
「それはわかるよ。だがな、今の呪道は会とは無関係だ。なんで奴が──」
「この件は、呪道の責任だ。奴が相作に情けをかけて、江戸追放なんて甘い処分にしたから、こんなことになったんだろうが。関係ないとは言わせねえ」
口を挟んだのは藤堂だ。その途端、鉄は彼を睨みつけた。
「勘定屋は黙ってろ。俺はな、お前と話してるんじゃねえんだ。蔵で金勘定でもしてろ」
「んだと……」
藤堂は低く唸り、一歩前に出る。その途端、鉄は身構えた。
「やろうってのかい。遠慮はいらねえ、かかってきな。俺は今、無性に腹が立ってんだ。意気がる阿呆の背骨をへし折りたくてうずうずしてんだよ」
「この野郎……」
言った直後、藤堂の手が懐へと伸びる。だが、その動きは止まった。
彼の喉に、鋭い刃が突きつけられている。その刃は、死門の手に握られた細身の刀のものであった。いつ抜いたのか、いつ動いたのか、それすら悟らせず一瞬のうちに接近していたのだ。独特の形をした刀の切っ先を、藤堂の喉元に突き立てていた。
その状態で、死門は口を開く。
「双方とも、ここまでにしておけ。でないと、二人とも死ぬぞ」
その声は、ひどく冷めたものだった。しかし、この男の腕前を鉄はよく知っている。二人を一瞬で死体に変えるなど簡単なことだ。引かざるを得なかった。
「わかったよ。お前が相手じゃ、分が悪すぎる」
鉄は、苦笑しつつ両手を挙げた。すると、今度はお勢が口を開く。
「先日、相作が呪道の家を訪ねたところを見た……という者がいた。直後に、黒木屋が襲撃された。龍牙会の中には、呪道と相作が手を組んでいるのではないか、と言っている者もいる」
「お勢さん、あんたはそれを信じるのかい?」
鉄が鋭い口調で尋ねると、お勢はかぶりを振った。
「今回の件は、やり方が奴らしくない。呪道とは無関係なのは、私にはわかっている。恐らく、糸を引いているのは浦部梨乃介だ」
その言葉に、鉄は口元を歪める。
浦部は、もともと旗本の家に生まれた男である。三男坊ゆえに甘やかされて育ち、あちこちで悪さを繰り返していた。結果、龍牙会を敵に回してしまった。両親を交えた話し合いの末、家を勘当され江戸から放逐される。
その話し合いに同席したのも、呪道であった。
「だが、それがわからない者もいる。奴が糸を引いているか否かはどうでもよい、この機に呪道に全ての責任を押し付けて片付けてしまおう……という腹積もりの者もいる」
お勢は、淡々と語り続ける。鉄は、苦笑しつつも頷いた。
「なるほど、そういうことですか」
皮肉めいた口調の鉄だったが、お勢は顔色ひとつ変えない。それどころか、懐に手を入れ小判の束を取りだし、鉄の目の前に置いたのだ。
「三十両ある。今回は、私が自腹を切ろう。この金は、呪道に個人的に渡すものだ。鉄、お前から渡しておいてくれ。その上で、死事屋に言ってもらいたい。相作と浦部梨乃介を殺せ、とな」
「元締! それは──」
「私が奴に、餞別代わりの金を渡すだけだ。会の金は使わん。これなら文句なかろう。呪道が、調子に乗って江戸に舞い戻った愚か者をきっちり粛清した……これで、筋は通る」
「今頃になって、餞別ですかい。ものは言いようですな。ま、いいでしょう。万が一、死事屋が仕損じたなら、そん時は仕掛屋が奴らを仕留めますよ」
・・・
「浦部さん、相作さん、お軽さん、よくぞやってくれました」
根本忠雄は、深々と頭を下げる。山賊の親玉のような外見の割に、物腰は丁寧だ。
「いえいえ。お陰で、こちらの懐も潤いましたしね。実にありがたい」
答えたのは、浦部梨乃介である。彼はへらへら笑いながら、小判を懐に入れていた。
彼ら四人は、とある宿屋の一部屋にて顔を付き合わせていた。もっとも宿屋とは名ばかりで、その実態は阿片窟である。昼間から、阿片に酔った男女が徘徊している場所なのだ。
しかも、その宿屋があるのは……江戸でも屈指の無法地帯である。もともとは、誰のものかもはっきりしていない土地に、凶状持ちや無宿者や穢多非人らが集まり、勝手に掘っ立て小屋などを造り住み着く……その繰り返しにより、いつのまにか町らしきものが出来上がってしまったのだ。
人はこの町を、非人街と呼ぶ。
「俺は、押し込み強盗を生業にした覚えはないのだがな。あんな素人連中を殺しても、面白くも何ともない」
相作が、不快そうな表情で口を挟む。お軽はといえば、いつも通り彼に背負われている。無言で周囲に目配りをしていた。
「まあまあ、そう言わずに。これで、龍牙会も動くでしょう」
にこにこしながら、根本は酒の入った杯を差し出す。すると、相作は手を伸ばして受けとる。盲目であることを、全く感じさせない動きだ。
その時、浦部がにやりと笑った。
「その前に、ひとつやらねばならぬことが出来ました。今度は、死事屋を潰しますよ」
「死事屋?」
訝しげな表情の根本に、浦部は鋭い表情を浮かべつつ頷いた。
「ええ。かつて龍牙会の大幹部だった男、呪道が元締の殺し屋ですよ。つい最近、龍牙会の元締・お勢があたしらの始末を死事屋に依頼したそうなんですよ」
「ほう、そんな連中がいたのですか。初耳ですね」
「まあ、いまさら覚える必要もないでしょう。殺られる前に殺る……あたしらが、死事屋を潰しますから」
浦部が答え、相作が深く頷いた。