出会無想(三)
翌日、呪道は剣呑横町を抜け、商店の立ち並ぶ大通りを進んでいた。
ちょうど昼間の時間帯であり、人の通りも激しい。江戸の町が、賑やかになる頃だ。大急ぎで駆けていく者がいるかと思えば、しかめっ面で周囲を警戒しつつ歩いている者もいる。
そんな人混みの中でも、奇怪ないでたちの呪道は否応なしに目立っていた。
やがて、呪道は目指す場所に到着した。『坊主蕎麦』なる看板がかかっている店だ。さほど大きな店ではなく、数人入れば満員になるだろう。外からは、流行っているようには見えない。
呪道は、店の前で立ち止まる。そっと中を覗きこもうとした時だった。
「これはこれは、呪道さんじゃありませんか」
その声に、呪道は振り向く。
二間(約三・六メートル)ほどの距離を空け、男が立っていた。二十代半ばで背丈は並程度、どこの町にも、必ずひとりはいるであろう破落戸……といった風貌だ。その後ろには、十代とおぼしき少年たちがいる。全部で六人だ。呪道に対し、敵意むき出しの視線を向けていた。
残念ながら、呪道には見覚えがない者たちだ。
「あんたら、何の用だい? 雨乞いして欲しいのか? それとも、惚れ薬が入り用か?」
とぼけた口調で尋ねる呪道に、破落戸は目を細めた。
「俺は長脇差の政って者です。最近、龍牙会の一員にしていただきやした。以後、お見知りおきを」
そんな男など知らないし、興味もない。呪道は、肩をすくめた。
「長脇差の政? 知らねえな。悪いが、今は忙しいんだよ。また今度にしてくれ」
冷たい口調で言い放つ。すると、政の表情も変わる。
「あんた、ここがどこかわかってんのか? ここらはな、龍牙会の縄張りだぜ。挨拶くらいしろや」
凄んできた政に、呪道の口元が歪んだ。
龍牙会とは、江戸の裏社会にて最も大きく、表社会にも強い影響を持つ組織だ。大小さまざまな組織が、会の手足となって活動している。元締のお勢が声を上げれば、一刻も経たぬうちに百人が動くと言われている。
かつて呪道は、龍牙会に所属していた。それも、大幹部という地位にいた。言ってみれば、元締の片腕という立場である。お勢が怪我をした時など、元締の代理として会を仕切っていたこともあるくらいだ。
ところが二年前、呪道は元締の指示を無視して独断で動き、とある組織同士の抗争に介入した。そのことが他の幹部たちにばれ、会全体を揺るがす大問題となる。
主だった幹部たちと、元締お勢が協議した結果……呪道は、龍牙会からの追放という処分を受ける。
以来、呪道は龍牙会の影響力の及びにくい場所で活動せざるを得なくなった。それでも、裏の世界で一目置かれていることは変わらない。
同時に、彼を殺したがっている者も大勢いる──
「あのなあ、天下の往来を歩くのに、いちいちお前に挨拶しなきゃいけないのか? まあ、挨拶したら空から全裸の美女が降ってくるっていうなら、いくらでも頭下げてやるけどさ」
すました顔で言い返した呪道を、政は鋭い目でねめつける。
「調子に乗るなよ。お前、死にてえのか」
言ったと同時に、腰に下げた長脇差の柄に手がかかった。さらに、手下たちも血相を変える。呪道は杖を肩に担ぎ上げ、面倒くさそうに手下たちを見回した。
その時、店ののれんから顔を出した者がいる。
「やい、うるせえぞ餓鬼ども。人の店の前で何やってんだ。わざわざ商売の邪魔しに来やがったのか」
ぬっと現れ一喝したのは、身の丈六尺(約百八十センチ)はあろうかという坊主の男である。肩幅は広く、逞しい体つきだ。薄汚れた作務衣に身を包み、じっと政を睨んでいる。
この容貌魁偉な男、蕎麦屋の鉄の通り名で知られている。表稼業は蕎麦屋だが、仕掛屋という殺し屋稼業の一員でもあった。
さらに言えば、この男は仕掛屋の一員であると同時に、龍牙会の客分格でもあるのだ。そのため、江戸の裏社会においては、かなりの発言力を持っている。正面きって鉄と殺り合おうと考える者など、まずいないだろう。下手をすれば、龍牙会をも敵に回すことになるのだから。
案の定、政の表情が変わっていく。彼の手下たちも、明らかに怯んでいた。
「俺は今から、こいつと話をする。何か文句がある奴はいるのか?」
低い声で言いながら、鉄は呪道の肩に触れた。すると、政たちはかぶりを振る。
「い、いや、それならいいんだよ」
政たちは目を逸らし、そそくさと引き上げていった。
「いやあ鉄さん、助かったよ。あの野郎、何か知らんけど、やたらとつっかって来てさ」
呪道が苦笑しつつ頭を下げると、鉄は表情を歪めた。
「お前は、今でも有名人だからな。かつて龍牙会の大幹部だった呪道に頭下げさせたとなりゃあ、一気に名が売れる……そう思ってる馬鹿も多いだろうぜ」
「面倒な話だね。龍牙会のやり方に今さら口を出す気はないけどさ、政みたいな阿呆の見本をのさばらせといたら、会の評判は下がる一方だぜ」
冗談っぽい口調で言ったのだが、鉄はにこりともしない。むしろ、さらに不快感が増したようだった。
「お前がいなくなってから、龍牙会も変わっちまったよ。あんな馬鹿が肩で風切り、会の看板を盾に幅を利かしてやがる。もう、お勢の天下も長くねえな」
吐き捨てるような口調だ。表情も苦々しい。普段から、鬱憤が溜まっているのであろう。
呪道は、思わず苦笑する。鉄の言ったことは愚痴に近いが、あながち外れてもいない。龍牙会は確かに変わった。昔なら、政のような下っ端がこんな天下の往来で、つまらぬ揉め事を起こした挙げ句に会の名前を出したりしなかった。そんなことをすれば、上の人間に確実に焼きを入れられていたはずだ。下手をすれば、元締・お勢の用心棒である死門が直々に手を下すかもしれない。
ふと、死門の不気味な顔が脳裏に浮かんだ。異人特有の真っ白な肌、金色の髪、青く鋭い目、異様に高い鼻、ひょろりとした背丈……だが剣を握れば、あっという間に十人を片付ける腕前だ。呪道の知る限り、この男に勝てそうなのは……江戸でも、二人か三人くらいしか知らない。
「ところで呪道、俺に何か用か?」
ぽんと肩を叩かれ、呪道は我に返った。
「ああ、そうだった。実はさ、あんたに聞きたいことがあるんだよ」
「何だ?」
「南町奉行所の見回り同心・西村右京って奴を知ってるかい?」
「西村か。ああ、知ってるよ」
「どんな男だい?」
「一言でいうと、生ける案山子だな」
一瞬、何を言っているのかわからず、呪道は首を捻る。
「はあ? 何それ?」
「あいつは何を言われようが、表情ひとつ変えず右から左に聞き流すんだ。悪事を見ても、知らぬ顔を決め込んでさっさと消えちまう。あれくらい、やる気のない同心も珍しいぞ。案山子なみにしか役にたたねえから、生ける案山子ってあだ名が付いたらしい。陰でいわれてるだけかもしれねえけど」
「なんだそりゃあ」
呪道は、河原での右京との会話を思い出した。同心の身分でありながら、剣呑横町のような危険地帯にひとりで足を踏み入れる。挙げ句、裏の人間と直接対峙し殺しを依頼する。
まともな神経の持ち主とは思えない。狂気すら感じられる行動力だ。鉄の言う「生ける案山子」という印象とは、結び付かない気もする。
「その西村の奥方だが、青鞘組に襲われ気が触れちまったってのは本当かい?」
「本当さ。あれはひでえよ。奥方も必死で抵抗したんだがな、ぼこぼこに殴られ蹴られ嬲られ、挙げ句そこらへんの乞食連中にまで犯させたんだとよ。胸糞悪い話さ」
鉄は、冷めた口調で語った。だが、その所業に怒りを感じているのは見てとれる。
呪道は、右京の行動力の源が何か、わかった気がした。裏の世界で生きていれば、鬼畜のごとき人間の所業を幾らでも耳にする。それでも、不快である事実に変わりはない。
裏の世界にも、暗黙の掟がある。数人がかりでひとりの女を凌辱するような奴らは、裏の世界では軽蔑されても尊敬はされないのだ。少なくとも呪道は、そんなことをしでかす連中とは絶対に組まない。己の肉欲を制御できない屑以下……そんな評価しか出来ない。
しかも右京の場合、変わり果てた奥方と共に生きていかねばならないのだ。秘めた思いも、相当なものだろう。
西村右京という男、信用してもいいかも知れん……などと考えていると、鉄がため息を吐いた。
「本当に、龍牙会は変わっちまった。青鞘組や、政みてえな屑をのさばらせておくとはよ。さっさと潰れちまえばいいんだ」
とんでもないことを、真顔で言ってのけた。もっとも、鉄の発言には頷ける部分はある。そもそも龍牙会のような組織は、調子に乗りすぎた馬鹿な悪党を粛清する役目も担っている。そうすることで、表と裏との均衡を保っているのだ。少なくとも、呪道が大幹部だった頃の会なら、青鞘組に対し何らかの手は打っただろう。
そんなことを思いつつも、呪道はなだめるように鉄の肩を叩いた。
「まあまあ。過ぎた日々を懐かしんでても仕方ないよ。これも、時代の流れって奴さ」
「時代の流れだあ? 乗りたかねえや、そんな流れによ」
言いながら、鉄は店の中へと入っていく。
「せっかく来たんだ。蕎麦くらい食ってけ。ちったあ、店の売上に貢献しろ」
それから二日後。
呪道は、大きな橋の下で右京と対峙していた。まだ陽は高い時間帯だが、周囲には誰もいない。
いや、ひとりだけいる。お鞠だ。彼女は少し離れた距離から、短刀を手に右京をじっと見つめている。妙な動きをすれば、すぐに襲いかかるつもりだ。
右京の方はというと、緊張した面持ちで呪道を見つめている。その緊張は、二人に対する怖さから来るものではなかった。
まず口火を切ったのは、呪道だった。
「あんたの依頼、引き受けるのは構わない。だがな、はっきり言って五両は安い。悪さ慣れした侍五人を殺るのに、五両は安すぎる。いくら俺たちでも、ちょっと二の足を踏んじまうな」
「だろうと思ったよ。そこで、あと二両用意した。ここには、七両ある」
言うと同時に、懐から小判の包みを出す。だが、呪道は首を横に振った。
「駄目だ。旗本の息子が相手なんだぜ。七両でも安すぎる」
「だったら、幾らなら引き受けるのか言ってくれ。何年かかろうが、必ず用意する」
思いつめた表情で、右京は近づいて来た。呪道は面倒くさそうに、両手を前に突き出す。待て、の仕草だ。
「ちょっと待てよ、男に迫られても困るぜ。俺には、そっちの趣味はないんだよ。それに、人の話は最後まで聞くもんだ」
その言葉に、右京の動きは止まった。だが、落ち着いてはいない。己の裡なる衝動を、必死で押さえ込んでいる……そんな雰囲気だ。
少しの間を置き、呪道は口を開いた。
「金は、五両でいい。その代わり、ひとつ条件がある」
「なんだ? 言ってくれ。私に出来ることなら、何でもする」
その途端、呪道はにやりと笑った。
「おっ、言ったね。その言葉、嘘はないな?」
「男に、二言はない」
言った右京の顔は真剣そのものだった。殺気すら感じられる。さすがの呪道も、若干ではあるが引いている。
「あんたは本当に、筋金入りの堅物なんだな。男に二言はないなんて、今どき将軍さまでも言わねえぞ」
呪道は、音もなく近づいていく。右京の耳元で、そっと囁いた。
「条件ってのは……お前が、俺たちの仲間になることだ」