因縁無想(二)
西村右京は、足を止めた。
屋敷の近くの脇道で、何者かが隠れている。いったい誰だろう。ひょっとして、あの子だろうか。
今は酉の刻(午後五時から七時)である。辺りは暗くなりかけており、人通りも少ない。そんな時に、奉行所の役人の屋敷をうろうろしている者といえば……考えられる人物はひとりだ。
「そこにいるのは、お鞠さんかい?」
そっと声をかけてみた。すると、おずおずとした態度で顔を出した者がいる。予想通り、お鞠であった。相変わらず、そでなしの胴着を着て股引きを穿いた格好だ。
なぜ隠れていたのだろうか? 右京は首を捻る。だが、すぐに理由に気付いた。このあたりは、武家屋敷も少なくない。そんな場所に、お鞠のような格好の少女がうろうろしていては、何を言われるかわからない。下手すると、下働きの下男や女中などに因縁をつけられるかもしれないのだ。いらぬ揉め事を避けるため、隠れていたのだろう。
そこまでして、自分に会いにくるとは……やはり、裏の仕事だろうか。
「仕事かい?」
そっと尋ねると、ぶんぶんと首を横に振る。では、何だろう。
ふと思い当たったことがある。ひょっとして?
「もしかして、千代に会いに来てくれたのかい?」
聞いた途端、今度は首を縦に振る。
右京は熱いものがこみあげるのを感じ、思わず涙しそうになった。彼女は、わざわざ千代と遊ぶために、ここに潜み待っていてくれたのだ。
この善意に、なんとか報いてあげたい。その時、ふと思いついたことがあった。
「ところで、君は字は書けるのかい?」
尋ねると、首を横に振る。
「よければ、私が読み書きを教えてあげようか? あくまで、君さえよければ、だけどね」
提案すると、今度は首を縦に振る。そう、この少女は喋ることが出来ない。ならば、読み書きを教えることにより、他人と意思の疎通をしやすくなるのではないか……右京は、そう考えたのだ。自分がしてあげられることなど、このくらいしかない。
「では、こっちに来たまえ」
そう言うと、右京は屋敷に入っていく。お鞠も、後に続いた。
右京は奥から、墨と硯と筆を持ってくる。文机の上に並べ、さらに半紙を置いた。お鞠は、その様子を興味深そうに眺めている。
やがて右京は、筆を手にした。半紙に、おまりと書く。
その半紙を指差し、お鞠の方を向く。
「これは、君の名前だ。おまり、と書いたのだよ」
すると、お鞠の表情が変わった。物珍しそうに、半紙に書かれた文字を見つめる。
「君も書いてみるかい?」
聞くと、お鞠はうんうんと頷く。右京はくすりと笑い、筆を渡した。半紙を机に載せ、文鎮で押さえる。
お鞠は真面目な表情で、慎重に筆を動かしていく。右京の書いた手本を見つつ、おまり、と半紙に書いた。見よう見まねにしては上手い。
「そうだ。上手いものじゃないか」
右京は、にっこり微笑んだ。その時、地下から喚くような声が聞こえて来た。次いで、どすんという音。千代が暴れているのだ。
どうやら、お鞠が来ていることに気付いたらしい。私だけ仲間外れにするのか、と言っているのかもしれない。
「やれやれ。千代が焼きもちを焼いているよ。君を独り占めするな、と怒っているようだ。悪いが、千代とも遊んであげてくれないか」
苦笑しつつ言った右京に、お鞠は頷く。二人は立ち上がり、地下室へと向かった。
地下牢の中、お鞠と千代は向き合って座っている。右京は、格子の向こうから二人を眺めていた。以前は、彼の姿を見るだけで喚き散らしていたのだが、今はおとなしい。これも、お鞠のおかげだろう。
「うー、うー」
千代は、しきりに何かを訴える。何を言っているのかはわからない。にもかかわらず、お鞠は微笑みながら相手をしている。
やがて、お鞠の手が千代の頭に触れた。伸ばし放題になっている髪を、優しく撫でる。
「あー、あー」
千代は、嬉しそうに声をあげた。こんな風に、誰かと触れ合う姿を見るのは一年ぶりだ。
右京は、不思議なものを感じた。この一年、誰ひとりとして千代の心を開くことは出来なかった。女中も、医師も、祈祷師も、彼女に近づくことすら叶わなかったのだ。
だが、お鞠は千代の心を開いてしまった。もし自分が死事屋とかかわらなかったら、どうなっていたのだろう。ひょっとしたら、今頃は千代を殺害した後に切腹でもしていたのかもしれない。
法を守る立場である自分が、法を破る側の殺し屋に助けられるとは、なんとも皮肉な人生だ。
・・・
夜の河原を、奇妙な二人連れ……いや、三人連れが歩いていた。
ひとりは、腰に刀をぶら下げた侍風の男だ。もっとも、着物は古びている。ぼさぼさの伸びた髪を髷に結い、提灯片手に歩く様は食い詰め者の痩せ浪人といった風情だ。もっとも、こんな浪人はさほど珍しいものではない。
問題なのは、その後ろを歩く男だった。六尺(約百八十センチ)を遥かに超える長身であり、肩幅は広くがっちりしている。そでなしの胴着を身につけ、股引きを穿いていた。手には黒い手甲を付け、足にも脚絆を付けている。さらに、拳と足首の周りには布が厚く巻かれていた。
それだけでも充分に目立つ風貌だが、何より異様なのは顔だった。短く刈られたざんぎり頭から目の周辺にかけて、醜い火傷のような傷痕に覆われている。その傷のせいで、まぶたは完全にふさがれていた。
さらに、その大男は奇妙な女を背負っている。歳の頃は二十代、綺麗な顔立ちだが、髪は男のように短く刈られていた。大男が背負う袋の中にすっぽりと入っており、顔は出ているが手足は出ていない。
奇妙なことに、その袋は二尺強(約七十センチ)ほどしかなかった。女の体を全て収納するには、袋はあまりに小さい。
河原を歩いていた三人だったが、不意に大男がたちどまった。
「梨乃介、止まれ。誰かいる」
ぶっきらぼうな大男の言葉に、浪人は立ち止まる。
すると河原の草むらより、五人の男が姿を現す。全員、黒い衣を着ており、抜き身の短刀や鎌などといった得物を手にしている。彼ら三人を見る目には、あからさまな敵意があった。
中のひとりが、おもむろに口を開く。
「梨乃介……まさか、本当に舞い戻って来ているとは思わなかったよ。お前も、よっぽど命知らずなんだな」
その言葉に、浪人は面倒くさそうに首を縦に振った。
「この浦部梨乃介さまに、何の用だ?」
「お前、頭おかしいんじゃねえか? 江戸に戻って来ないことを条件に、命を助けられたんだぞ。龍牙会の掟を忘れたのか?」
「そういや、そんなこと言われたな」
涼しい顔で答える梨乃介。黒衣の男たちは、顔を見合わせた。
「忘れてたってわけか。哀れな奴だぜ。物忘れの激しい頭のせいで、命を落とすことになるとはよ」
言うと同時に、全員が動いた。じりじりと迫っていく。
すると、梨乃介はふふんと鼻を鳴らした。
「お前ら龍牙会は、相変わらずおめでたい連中だな。俺が、何の策もなく江戸に戻ってくるわけねえだろ」
そう言った後、梨乃介は大男の方を向いた。
「相作、頼んだぞ。全員殺っちまってくれ」
「いいのか?」
相作が聞き返すと、梨乃介はうんうんと頷いた。
「ああ。構わないから、全員殺せ」
面倒くさそうに答えると、梨乃介は後ろに下がる。
黒衣の男たちは、相作を睨みながら徐々に距離を狭めていく。両者の距離は、今や三間(約五・四メートル)まで縮んだ。
その時、背負われている女が何か耳打ちする。
直後、相作が動く。一瞬で間合いを詰めていった──
空気を切り裂く音と共に、相作の回し蹴りが放たれる。まぶたが完全にふさがれ見えていないはずなのに、相作の足先は寸分の狂いなく敵の首を捉える。
それは、金棒で殴られるような一撃であった。蹴りで首をへし折られ、男は崩れ落ちる。状況は、一瞬にして変化した。男たちは、一斉に大男めがけ襲いかかる──
だが、相作の動きに迷いはなかった。続いて放たれたのは正拳突きだ。石のように硬い拳が、敵の顔面に炸裂する。顔の骨が陥没し、男は仰向けに倒れる。
ほぼ同時に、別の男が接近していた。伸びてきた手には、短刀が握られている。狙い違わず、相作の腹に突き刺さる──
だが、刃は弾かれた。胴着の下に、鎖帷子を着込んでいたのだ。男はへまをしたことに気づき、すぐさま短刀を振り上げる。鎖帷子で覆われていない首に、刃を突き立てるつもりだ。
しかし遅かった。正拳に続いて放たれた膝蹴りが顔面に炸裂する。その一撃は顎の骨を粉砕し、男はばたりと倒れた。
その時には、二人が相作の背後に回っていた。凄まじい形相で鎌を振り上げる。
すると、背負われていた女が動いた。両腕を、袋からすっと出す。異様な形だった。肘から先が無く、前腕の有るべき部分に短筒らしきものが括り付けられているのだ。
女は向きを変えず、背中を反らせて後ろを見る。腕も一緒に動く。銃口は、今まさに襲いかからんとしている者へと向けられた。
完全に想定外の事態を前にして、二人は愕然となった。一瞬、動きが止まる。
この状況において、一瞬の動きの停止は致命的な過ちであった。直後、銃声が轟く──
銃弾により眉間を貫かれ、二人はばたりと倒れた。