表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/58

因縁無想(二)

 西村右京は、足を止めた。

 屋敷の近くの脇道で、何者かが隠れている。いったい誰だろう。ひょっとして、あの子だろうか。

 今は酉の刻(午後五時から七時)である。辺りは暗くなりかけており、人通りも少ない。そんな時に、奉行所の役人の屋敷をうろうろしている者といえば……考えられる人物はひとりだ。


「そこにいるのは、お鞠さんかい?」


 そっと声をかけてみた。すると、おずおずとした態度で顔を出した者がいる。予想通り、お鞠であった。相変わらず、そでなしの胴着を着て股引きを穿いた格好だ。

 なぜ隠れていたのだろうか? 右京は首を捻る。だが、すぐに理由に気付いた。このあたりは、武家屋敷も少なくない。そんな場所に、お鞠のような格好の少女がうろうろしていては、何を言われるかわからない。下手すると、下働きの下男や女中などに因縁をつけられるかもしれないのだ。いらぬ揉め事を避けるため、隠れていたのだろう。

 そこまでして、自分に会いにくるとは……やはり、裏の仕事だろうか。


「仕事かい?」


 そっと尋ねると、ぶんぶんと首を横に振る。では、何だろう。

 ふと思い当たったことがある。ひょっとして?


「もしかして、千代に会いに来てくれたのかい?」


 聞いた途端、今度は首を縦に振る。

 右京は熱いものがこみあげるのを感じ、思わず涙しそうになった。彼女は、わざわざ千代と遊ぶために、ここに潜み待っていてくれたのだ。

 この善意に、なんとか報いてあげたい。その時、ふと思いついたことがあった。


「ところで、君は字は書けるのかい?」


 尋ねると、首を横に振る。


「よければ、私が読み書きを教えてあげようか? あくまで、君さえよければ、だけどね」


 提案すると、今度は首を縦に振る。そう、この少女は喋ることが出来ない。ならば、読み書きを教えることにより、他人と意思の疎通をしやすくなるのではないか……右京は、そう考えたのだ。自分がしてあげられることなど、このくらいしかない。


「では、こっちに来たまえ」


 そう言うと、右京は屋敷に入っていく。お鞠も、後に続いた。




 右京は奥から、墨とすずりと筆を持ってくる。文机の上に並べ、さらに半紙を置いた。お鞠は、その様子を興味深そうに眺めている。

 やがて右京は、筆を手にした。半紙に、おまりと書く。

 その半紙を指差し、お鞠の方を向く。


「これは、君の名前だ。おまり、と書いたのだよ」


 すると、お鞠の表情が変わった。物珍しそうに、半紙に書かれた文字を見つめる。


「君も書いてみるかい?」


 聞くと、お鞠はうんうんと頷く。右京はくすりと笑い、筆を渡した。半紙を机に載せ、文鎮で押さえる。

 お鞠は真面目な表情で、慎重に筆を動かしていく。右京の書いた手本を見つつ、おまり、と半紙に書いた。見よう見まねにしては上手い。


「そうだ。上手いものじゃないか」


 右京は、にっこり微笑んだ。その時、地下から喚くような声が聞こえて来た。次いで、どすんという音。千代が暴れているのだ。

 どうやら、お鞠が来ていることに気付いたらしい。私だけ仲間外れにするのか、と言っているのかもしれない。


「やれやれ。千代が焼きもちを焼いているよ。君を独り占めするな、と怒っているようだ。悪いが、千代とも遊んであげてくれないか」


 苦笑しつつ言った右京に、お鞠は頷く。二人は立ち上がり、地下室へと向かった。




 地下牢の中、お鞠と千代は向き合って座っている。右京は、格子の向こうから二人を眺めていた。以前は、彼の姿を見るだけで喚き散らしていたのだが、今はおとなしい。これも、お鞠のおかげだろう。


「うー、うー」


 千代は、しきりに何かを訴える。何を言っているのかはわからない。にもかかわらず、お鞠は微笑みながら相手をしている。

 やがて、お鞠の手が千代の頭に触れた。伸ばし放題になっている髪を、優しく撫でる。


「あー、あー」


 千代は、嬉しそうに声をあげた。こんな風に、誰かと触れ合う姿を見るのは一年ぶりだ。

 右京は、不思議なものを感じた。この一年、誰ひとりとして千代の心を開くことは出来なかった。女中も、医師も、祈祷師も、彼女に近づくことすら叶わなかったのだ。

 だが、お鞠は千代の心を開いてしまった。もし自分が死事屋とかかわらなかったら、どうなっていたのだろう。ひょっとしたら、今頃は千代を殺害した後に切腹でもしていたのかもしれない。

 法を守る立場である自分が、法を破る側の殺し屋に助けられるとは、なんとも皮肉な人生だ。 


 ・・・


 夜の河原を、奇妙な二人連れ……いや、三人連れが歩いていた。

 ひとりは、腰に刀をぶら下げた侍風の男だ。もっとも、着物は古びている。ぼさぼさの伸びた髪を髷に結い、提灯片手に歩く様は食い詰め者の痩せ浪人といった風情だ。もっとも、こんな浪人はさほど珍しいものではない。

 問題なのは、その後ろを歩く男だった。六尺(約百八十センチ)を遥かに超える長身であり、肩幅は広くがっちりしている。そでなしの胴着を身につけ、股引きを穿いていた。手には黒い手甲を付け、足にも脚絆きゃはんを付けている。さらに、拳と足首の周りには布が厚く巻かれていた。

 それだけでも充分に目立つ風貌だが、何より異様なのは顔だった。短く刈られたざんぎり頭から目の周辺にかけて、醜い火傷やけどのような傷痕に覆われている。その傷のせいで、まぶたは完全にふさがれていた。

 さらに、その大男は奇妙な女を背負っている。歳の頃は二十代、綺麗な顔立ちだが、髪は男のように短く刈られていた。大男が背負う袋の中にすっぽりと入っており、顔は出ているが手足は出ていない。

 奇妙なことに、その袋は二尺強(約七十センチ)ほどしかなかった。女の体を全て収納するには、袋はあまりに小さい。




 河原を歩いていた三人だったが、不意に大男がたちどまった。


梨乃介りのすけ、止まれ。誰かいる」


 ぶっきらぼうな大男の言葉に、浪人は立ち止まる。

 すると河原の草むらより、五人の男が姿を現す。全員、黒いころもを着ており、抜き身の短刀や鎌などといった得物を手にしている。彼ら三人を見る目には、あからさまな敵意があった。

 中のひとりが、おもむろに口を開く。


「梨乃介……まさか、本当に舞い戻って来ているとは思わなかったよ。お前も、よっぽど命知らずなんだな」


 その言葉に、浪人は面倒くさそうに首を縦に振った。


「この浦部梨乃介うらべ りのすけさまに、何の用だ?」


「お前、頭おかしいんじゃねえか? 江戸に戻って来ないことを条件に、命を助けられたんだぞ。龍牙会の掟を忘れたのか?」


「そういや、そんなこと言われたな」


 涼しい顔で答える梨乃介。黒衣の男たちは、顔を見合わせた。


「忘れてたってわけか。哀れな奴だぜ。物忘れの激しい頭のせいで、命を落とすことになるとはよ」


 言うと同時に、全員が動いた。じりじりと迫っていく。

 すると、梨乃介はふふんと鼻を鳴らした。


「お前ら龍牙会は、相変わらずおめでたい連中だな。俺が、何の策もなく江戸に戻ってくるわけねえだろ」


 そう言った後、梨乃介は大男の方を向いた。


相作あいさく、頼んだぞ。全員殺っちまってくれ」


「いいのか?」


 相作が聞き返すと、梨乃介はうんうんと頷いた。 

「ああ。構わないから、全員殺せ」


 面倒くさそうに答えると、梨乃介は後ろに下がる。

 黒衣の男たちは、相作を睨みながら徐々に距離を狭めていく。両者の距離は、今や三間(約五・四メートル)まで縮んだ。

 その時、背負われている女が何か耳打ちする。

 直後、相作が動く。一瞬で間合いを詰めていった──


 空気を切り裂く音と共に、相作の回し蹴りが放たれる。まぶたが完全にふさがれ見えていないはずなのに、相作の足先は寸分の狂いなく敵の首を捉える。

 それは、金棒で殴られるような一撃であった。蹴りで首をへし折られ、男は崩れ落ちる。状況は、一瞬にして変化した。男たちは、一斉に大男めがけ襲いかかる──

 だが、相作の動きに迷いはなかった。続いて放たれたのは正拳突きだ。石のように硬い拳が、敵の顔面に炸裂する。顔の骨が陥没し、男は仰向けに倒れる。

 ほぼ同時に、別の男が接近していた。伸びてきた手には、短刀が握られている。狙い違わず、相作の腹に突き刺さる──

 だが、刃は弾かれた。胴着の下に、鎖帷子くさりかたびらを着込んでいたのだ。男はへまをしたことに気づき、すぐさま短刀を振り上げる。鎖帷子で覆われていない首に、刃を突き立てるつもりだ。

 しかし遅かった。正拳に続いて放たれた膝蹴りが顔面に炸裂する。その一撃は顎の骨を粉砕し、男はばたりと倒れた。

 その時には、二人が相作の背後に回っていた。凄まじい形相で鎌を振り上げる。

 すると、背負われていた女が動いた。両腕を、袋からすっと出す。異様な形だった。肘から先が無く、前腕の有るべき部分に短筒らしきものが括り付けられているのだ。

 女は向きを変えず、背中を反らせて後ろを見る。腕も一緒に動く。銃口は、今まさに襲いかからんとしている者へと向けられた。

 完全に想定外の事態を前にして、二人は愕然となった。一瞬、動きが止まる。

 この状況において、一瞬の動きの停止は致命的な過ちであった。直後、銃声が轟く──

 銃弾により眉間を貫かれ、二人はばたりと倒れた。

 

 





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ