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無知無想(七)

 佐平は、目を開けた。

 ここはどこだろうか。目に映るものは、穴だらけの壁や埃まみれの床板だ。時おり、かさかさという音も聞こえてくる。住む者のいなくなった廃屋か、あるいは古くなった物置小屋か。


「ここはどこだ? 誰もいないのか?」


 思わず口にしていた言葉。すると、答えが返ってきた。


「この世と、あの世の境界線さ」


 言いながら、姿を現した者がいた。若い同心だ。確か、西村右京とかいう名前だった。先ほど、妙な暴漢に襲われた時に、どこからともなく駆けつけた。佐平の手を引き、その場から離れたところまでは覚えている。

 だが、そこからの記憶が途切れていた。何かが、首に巻き付いてきたような──

 その時になって、佐平は己の体の異変に気付いた。体が動かないのだ。立ったまま、柱に縛り付けられている。


「お、お役人さま、これはどういうことです──」


 途端に、鋭い痛みを感じた。何かと思い、下を向く。

 足に短刀が刺さっていた──

 思わず悲鳴を上げる。すると、右京は短刀を抜いた。左の太ももから、血が流れる。


「あんたを地獄に送る前に、ひとつ聞きたいことがある」


 言いながら、右京は顔を近づけていく。その端正な顔には、不気味な表情が浮かんでいた。


「あんたは、知恵遅れの人たちにやってもいない罪を着せていた。挙げ句、打ち首になった人までいた……無実の罪でね」


「はあ? そんなこと知らんな」


 言った途端、右京は短刀を振り上げた。今度は、佐平の左足に突き刺さる。

 痛みのあまり絶叫する佐平に向かい、右京はさらに語りかける。


「とぼけるなよ。あんたのやったことはわかってるんだ」


「ちょ、ちょっと待て。お前、正気か? 何が望みだ? 言ってみろ」


 声を奮わせながら、必死の形相で尋ねる佐平。一方、右京は冷ややかな表情だ。


「あんたのせいで、無実の人間が何人も死んだ。そのことを、あんたはどう思う? なあ、正直に言ってみてくれ」


 右京の問いに、佐平は顔を歪めた。迷うような表情が浮かぶ。

 次の瞬間、彼はにやりと笑った。覚悟を決めた者に特有の顔つきだった。


「じゃあ、正直に言ってやる。わしは、悪いことをしたとは思っていない。むしろ、いいことをしたと思っている」


「いいこと、だと?」


「そうだ。儂は、知恵遅れの者たちを役立てている。無能な穀潰したちを、世の中の役に立ててやっているのだぞ」


 答えた佐平の顔には、形容のしがたい感情が浮かんでいる。その目は、狂信者に特有の異様な光を帯びていた。

 右京は異様なものを感じつつも、質問を続ける。


「どういう意味だ?」


「わからないのか? あの知恵遅れどもは、何の役にも立たん。読み書きそろばんは言うまでもなく、雑用でさえ満足に出来ん。生きていることすら無駄だ。そんな連中と、金を稼げる有能な人間の命……どちらが大切か、考えるまでもないだろう」


「なるほど、無能な人間は死んでも構わない。むしろ、死んだ方がいい……と、そういう理屈なわけだな」


「そうだ。儂の言っていることは間違っているのか? 自分で獲物を取れなくなった獣は、飢えて死ぬ。自分で自分の食い扶持ぶちも稼げないような奴らは、死ぬのが道理だ。これは、儂が決めたことではない。自然の摂理なのだ」


 語る佐平の声は、熱を帯びていた。これまで見てきた悪党とは、根本から違った態度である。この男は、単に金目当てではない。己の信念に基づき知恵遅れたちを葬っていたのだ。ここまでくると、もはや信仰心と呼べるかもしれない。

 ややあって、右京は口を開く。


「あんたの言うことは、間違いではないのかもしれないな。それが、自然の摂理なのかもしれん」


 直後、いきなり短刀を振るった。佐平の左腕に突き刺す──

 廃屋内に、悲鳴が響き渡った。


「私の妻の千代は、一年前に侍たちに乱暴された。以来、心を病んでしまった。言葉が通じなくなり、獣のように吠えるばかりだ。私が近寄ろうとすると、意味不明なことを喚きながら掴みかかって来る有様だ。お陰で、地下牢の中で生活している」


 激痛で呻き声をあげ、手足をばたばたさせる佐平。そんな彼に向かい、右京は静かな口調で語る。


「そんな千代がね、こないだ一年ぶりに笑ったんだよ。お鞠という名の口のきけない娘がね、千代の心を開かせてくれたんだ。私は千代の笑顔を見て、久しぶりに幸せな気分に浸れた」


 そこで、右京は微笑んだ。本当に嬉しそうな表情だった。

 だが、その顔つきは一変する。


「千代の能力は、常人に比べ劣っているのは間違いないだろう。お鞠の能力もまた、常人より劣っている部分はあるかも知れん。しかし、千代とお鞠が私を幸せな気分にしてくれた。お陰で、私は鬼にならずにいられる。能力の優劣だけで人間を計るお前には、絶対に理解できないだろうよ。理解して欲しいとも思わん」


 言いながら、右京は再び短刀を振るう。今度は、右腕に刺さった。

 苦痛で呻きながらも、佐平は右京を睨みつける。たいした根性だ。いや、根性とはまた違うのかもしれない。


「だったら、お前のしていることはなんだ……紛れもない悪ではないのか。お前に、儂を責める資格があるのか」


 毒づく佐平に、右京は敬意に近い感情すら抱いていた。この男は死の間際にあってなお、命乞いの気配がない。殺されても、自身の行動を否定するつもりはないらしい。

 己の信仰の正しさを信じて、死に逝くつもりなのだ。


「そうさ、私は紛れもない悪だ。だがな、悪人でなければ出来ないこともある。例えば、お前のような法で裁けぬ巨悪を殺すのは……私のような極悪人でなければ、出来ない仕事だ」


 低い声で言い放ち、短刀を腹に突き刺す。

 佐平の悲鳴が響き渡った。


「遠慮するな。痛みは、生きている(しるし)だ。たっぷりと味わってから、地獄へ逝け」


 ・・・


 翌日。

 剣呑横町に住むろくでなしの面々がようやく目を覚ます巳の刻(午前十時から正午)、お清は慈愛庵へと入って行った。

 見れば、呪道は板の間にて、あぐらをかいて座っていた。握り飯と胡瓜きゅうりを両手に持ち、交互にかじりつつ床に置いた瓦版を読んでいる。

 ずかずか入り込んできたお清に、呪道は顔を上げて笑ってみせた。


「よう、いいところに来たな。この瓦版、ちょっと読んでみろよ。人の頭と犬の体した化け物が、吉原に出たんだってよ。すっげえ笑えるぜ」


 言いながら、へらへら笑う呪道。だが、お清はにこりともしない。


「そんなこと言ってる場合じゃない。西村の奴、またやってくれたよ。佐平の腹をかっさばいて、はらわたを引きずり出してたってさ。しかも、全身を二十箇所くらい刺されてたって話だよ。あいつ、完全に頭おかしい」


 憎々しげな様子で言ったが、呪道は笑っているだけだ。


「あいつがおかしいのは、今に始まったことじゃねえだろ。ほっとけ」


「あのさあ、呑気に構えてていいのかい? あいつを、このままやりたいようにやらせとく気?」


「構わない。右京のお陰で、ちょいと面白いことになっているんだよ」


「面白いこと?」


「そうさ。近ごろ裏の世界じゃ、死事屋に頭おかしいのがいるって、ちょっとした話題になってるらしいぜ。まあ当然だわな。殺すだけじゃ足らずに、腸まで引っ張り出すなんざ普通じゃねえよ。そんな気違いとは殺り合いたくねえさ」


 呪道の言うことは大袈裟なものではない。実際、死事屋のやり口はおっかない……という噂を、お清自身も耳にしている。

 裏の世界に生きる者といえど、理解を超えたような人間は怖いのだ。


「まあ、そりゃそうだけどさ……」


「それだけじゃない。お前も、仕掛屋と辰の会の抗争は知ってるだろ?」


「へっ? ああ、あれね。仕掛屋の元締が出て行って、全員殺したって聞いてるけど」


 仕掛屋と、辰の会の抗争……江戸の裏の世界に生きる者なら、誰もが知っている。江戸のほとんどを仕切るまでになっていた巨大組織の辰の会だったが、仕掛屋の構成員が殺された時、ついに元締が動いた。自ら辰の会に殴り込みをかけ、元締の鳶辰とびたつと用心棒たちを皆殺しにしたのである。

 竜牙会が仕掛屋に一目置いているのも、元締の存在ゆえだ。誰も見たことのない、謎の人物……だからこそ、皆が仕掛屋を恐れる。


「それな、半分は合ってるが半分は外れだ。仕掛屋には、切り札がいたんだよ。奴も同じだ。あの西村右京の存在は、死事屋の切り札になる……俺は、そう思っている」


「切り札? あいつかいが?」


「まあな。万一、奴の歯止めが利かなくなったら……その時は、俺が殺す」






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