無知無想(六)
闇が空を覆う亥の刻(午後九時から十一時の間)。
北町奉行所の定町見回り同心である川田源之助は、本日は夜勤である。とは言っても、この男は真面目に働く気などない。なにせ、放っておいても不労所得の入って来る身分である。暗い夜道を見回る気などない。
かといって、人目につくような場所にいては上司にばれる可能性もある。必然的に、人気がなくて過ごしやすい……という場所にいることになる。
それはどこかといえば、もぐりの売春宿であったり、やくざ者の仕切る賭場だったり、悪徳商人の倉庫だったり……彼は、こうした溜まり場を幾つも知っていた。
今日もまた、そうした場所のひとつに向かっていたのである。薄汚い路地裏を、十手にちらつかせながら歩いていた。
だが前から、奇妙な男が歩いて来るのに気づき足を止める。提灯を掲げてよくよく見れば、鳥の巣のような髪型をした若者だ。奇怪な模様の袈裟を来て首飾りをぶら下げ、手には錫杖を持っている。
江戸には、たまにこうした者がいる。歌舞伎者か、いかさま祈祷師か、いんちき霊媒師だ。いずれにせよ、こんな馬鹿に用はない。
しかし、向こうはこちらに用があるらしい。川田を見すえ、真っすぐ近づいてくる。
「お前、そこで止まれ。何者だ?」
川田が言うと、相手は足を止めた。
「俺は、拝み屋の呪道である。あなたは、神を信じるか?」
重々しい口調で言ったかと思うと、錫杖で地面を突いた。しゃん、と音が鳴る。
「はあ? お前は、何を言っているのだ?」
「だから、あなたは神を信じるか? と聞いているのだ」
無礼な物言いである。こんな若造に、ふざけた口の聞き方をされて黙っていられるほど、川田の気は長くない。
「そんなもの信じるか! ふざけたことをぬかすと、しょっぴくぞ!」
怒鳴り、十手を振り上げる。すると、呪道はにやりと笑った。
「ま、そうだろうよ。あんたは神なんか信じてないだろうな。なんたって、あんた悪人だし。でも、悪行も今夜で終わりだよ。今のうちに、念仏でも唱えとくんだね」
そう言うと、呪道はまたしても錫杖を振った。しゃん、と音が鳴る。
川田は、憤怒の形相で近づいていく。
「お前、いい加減に──」
それが、川田の最期の言葉となった。
抜き身の短刀を片手に、後ろから忍び寄っていた者がいる。お鞠だ。呪道の鳴らす錫杖の音により、川田は全く気づいていない。
お鞠は、素早い動きで一瞬にして飛びつき、延髄に刃を突き立てる。川田は、自身に何が起きたかもわからぬまま絶命した。
「だから言ったのに。俺は坊主じゃないが、仕方ないから念仏くらいは唱えてやるよ」
そう言うと、呪道はでたらめな念仏を唱え始める。お鞠は呆れたような目でちらりと見ると、付き合っていられないとばかりに姿を消した。
・・・
同じ頃、夜の江戸の町を、すたすた歩いていく者がいる。佐平と政造だ。ふたりは今日も、厄介な仕事を幾つも片付けた。昼間からあちこちの商店を回り、付け届けをした。さらに今まで、地元の有力者たちとの会合に顔を出し、お世辞を並べ立てて御機嫌とりに励んでいたのだ。
佐平の仕事は、表だけではない。裏の方にも深く足を突っ込んでいる。安全にやっていくためには、様々な方向に気を配らなくてはならない。そのためには、ご機嫌伺いは欠かせないのだ。
佐平は、裏の世界に生きる者たちの恐さをよく知っている。万が一、そうした連中を怒らせたらどうなるか……だからこそ、龍牙会を初めとする大きな組織には、付け届けを欠かさなかった。
用心深い佐平ではあるが、彼は知らなかった。自身が、どれだけの恨みを買っていたかを。
その恨みを持つ者たちが、死事屋なる小さな組織に依頼していたことを。
異変を感じ、ふたりは足を止めた。
五間(約九メートル)ほど離れた路地裏から、異様な者が姿を現したのだ。六尺(約百八十センチ)はあろうかという長身で、肩幅は広くがっちりした体格だ。顔は黒い頭巾で隠しており、黒い着物を身に付けている。
その着物から覗く腕は太く、瘤のような筋肉がうごめいている。だが、もっとも異様なのは肌の色だ。着物と同じく黒い。
「な、なんだこいつは……」
さすがの佐平も、あまりの異様さに後ずさる。一方、政造は素早く反応した。佐平の前に立ち、黒ずくめの男を睨みつける。
「どうやら、我々に用があるらしい。良からぬ用件なのは間違いないですね」
囁いた時、いきなり後方から声が聞こえてきた。
「おい、そこ! 何をしている!」
喚きながら、走って来たのは西村右京だ。すると佐平は、怯えた表情を作り彼に駆け寄る。
「お役人さま、お助けを! あの者が、我々に因縁をつけてきました!」
「それは大変だ! ひとまず逃げましょう!」
言うと同時に、同心は佐平の手を引いて走り出す。佐平は戸惑いながらも、されるがままになっていた。
一方の政造は、恐れる様子もなく大男の前に立っている。佐平は、あの役人に任せておけばいい。このところ面倒な仕事が続き、いらいらしていた。
ちょうどいい相手だ。両手両足をへし折り、最後に首をへし折って殺してやる──
この政造は、幼い頃より父親から柔術を叩き込まれている。父は養心鬼道流柔術の師範代であり、彼もその跡を継ぐはずであった。しかし、友人と歩いている時に喧嘩に巻き込まれ、相手の腕をへし折った。
それが、大変な問題になった。腕をへし折った相手は大地主の息子であり、父の道場は潰されそうになる。結果、政造は勘当されることとなった。
彼は江戸に出て、佐平と出会う。その腕を買われ、用心棒となった。以来、佐平の傍らにて悪事の片棒を担いできた。
そんな日々が続くうち、政造の武術家としての勘はすっかり鈍っていた。鍛練はしているが、以前のように自身を追い込むようなものではない。強い相手と練習し切磋琢磨することもない。彼は己に甘くなっていた。
結果、政造の腕は衰えていった。しかも、己の腕が衰えていることすらわからなかった。そのため、目の前の大男の強さを見極められなくなっていたのだ。
目の前にいる者の強さを、きっちり見極められる……それもまた、武術家の技量である。だが、今の政造の目には霞がかかっていた。
大男は、瞬時に間合いを詰める。直後、左の拳を放った。
回し受けで防ごうとする政造。だが、その左拳はすぐに引き戻された。次いで、右の拳が飛んでくる。
銃弾のような速さの拳を躱せたのは、微かに残っていた武術家の勘ゆえだった。だが、想定外の速さを前に、政造の動きに乱れが生じた。体勢を崩し、地面に転倒する。
しかし、状況は一変する。倒れながらも、素早く体の向きを変える政造。次の動きにも、迷いはなかった。瞬時に大男の下半身に組み付く。蛸のように両手両足を絡み付かせ、相手を転倒させようとする。
大男はよろけ、片膝を着いた。手を伸ばし、政造を引き離そうとする。恐ろしい腕力だ。まともな殴り合いでは、勝ち目はないだろう。
もっとも、組んだ攻防においては隙がある。引き離そうと伸びてきた腕を、政造が見逃すはずがなかった。彼の両足が、大男のたくましい右上腕に絡み付く。さらに両手で、相手の前腕をがっちりと掴んだ。あとは、全身の力を解放させ肘関節をへし折るだけだ。
直後、想定外の事態に見舞われた。大男が、勢いよく立ち上がったのだ。
次の瞬間、政造の体が浮き上がる。大男は政造の体ごと、右腕を頭上に高々と振り上げたのだ。
こんなことは、有り得ないはずだった。政造とて十八貫(約六十七キロ)はある。江戸では、決して小柄な体格ではないはずだった。
そんな彼を、片手で持ち上げられる男がいようとは。しかも、関節技を極められる前に素早く反応している──
それが、政造の最後の思考となった。瞬きする間に、大男は彼ごと右腕を振り下ろす。
政造の頭は、地面に思いきり叩き付けられた。頭蓋骨は砕け、破片が脳に突き刺さる。痛みを感じる間もなく、一瞬で絶命した。