無知無想(五)
西村右京は、足を止めた。
顔を上げ、空を見る。今は昼時だ。陽は高く昇り、周囲はあちこち行き交う人々で溢れていた。江戸の商人や職人たちにとって、もっとも忙しい時間帯であろう。皆、忙しげな様子でせかせかと動いている。
たまに、道の真ん中で突っ立っている右京に鋭い視線を向ける者もいた。恐らく、裏の世界の住人であろう。この辺りで、何かしらの悪さをたくらんでいるのかもしれない。そんな折、見回り同心である右京にうろうろされては困るのだろう。
もっとも、ここでどんな悪巧みが進行していようが関係ない。彼は、再び歩き出した。
商店の並ぶ大通りを過ぎ、人通りの少ない裏道へと入っていく。しばらく歩いていたかと思うと、不意に走り出す。
慌てた様子で、右京の後を追う者がいた。きょろきょろしながら、裏道を走っていく。
その時、脇道からにゅっと手が伸びる。右京の手だ。彼は追って来た者の襟首を掴み、ぐいっと引き寄せる。
「また、お前か。それにしても、本当に尾行が下手だな。それで、裏稼業が務まるのか?」
皮肉のこもった言葉に、掴まれている方の男は表情を変える。
「ふ、ふざけるなよ! 俺はな、あえてわかるように後をつけたんだ! 侍のくせに、そんなこともわかんねえのか!」
ざんぎり頭を振りながら、言い返したのは萬屋の正太だ。怯えながらも、必死でそれを気取られまいとしている。
すると、襟首から手が離れた。正太はつんのめりそうになりながらも、すぐさま間合いを離した。偉そうなことを言ってはいても、右京のことが怖いのは見え見えである。
右京は笑いたい気持ちを押し隠し、口を開いた。
「そうか。それは失礼した。で、今日は何用だ?」
「仕事だよ。今日の亥の刻に(午後九時から十一時の間)集合だってさ」
「集合? どこにだ?」
聞き返す右京に、正太は目を細める。小馬鹿にしているかのような表情で答えた。
「あのさあ、仕事っつったらいつもの場所に決まってるでしょうが。そんなこともわかんないの?」
その途端、右京の目つきも変わる。じろりと睨みながら、ずんずん近づいて来た。
正太は、顔を引き攣らせながらも怒鳴る。
「な、何だよ! 俺に手を出したら、兄貴が黙ってないぞ! 言っちゃうぞ!」
だが、右京はお構いなしだ。またしても正太の襟首を掴み、ぐっと引き寄せる。ひっ、と悲鳴をあげる正太だったが、右京の方が腕力は強い。抵抗すら出来ず、されるがままだ。
無理やり引き寄せられ、正太は恐怖のあまり顔を背ける。が、右京の顔は近づいてくる。
「ご、ごめんさない。もう調子に乗りません。だから許して……」
声を震わせながら謝る正太に、右京は低い声で語りかけた。
「よくわかった。今夜、慈愛庵で会おう。それと……お前も裏の世界に生きるなら、つまらんことでいちいち大声を出すな。でないと、早死にするぞ」
時が過ぎ、陽が沈み月が空に出る時間帯になった。
星空の下、右京はのんびり剣呑横町を歩いていた。もっとも、周囲への警戒は怠っていない。この辺りでは、何が起きても不思議ではないからだ。油断なく、四方に警戒の目を向けつつ進んでいく。
やがて、慈愛庵へと辿り着く。今回は、出迎える者はいないらしい。彼は挨拶も無しで中にずかずか入って行き、板の間の床板を外した。梯子を降り、地下室へと向かう。
慈愛庵の地下室には、いつもの面々が集合していた。泰造、お清、お鞠、正太。そして、ひときわ異様な風体の呪道。
右京が端の方にて腰を下ろすと、呪道が皆の顔を見回して口を開く。
「よし、全員そろったな。今度の標的は、材木問屋・五木屋の佐平と用心棒の政造、北町奉行の見回り同心・川田源之助の三人だ。こいつらは、知恵遅れの連中を罪人に仕立て上げてるってわけさ。何せ、相手は知恵遅れだ。やったろうと脅されれば、やったと言っちまう。おかしいとは思っても、他に下手人の候補がいなけりゃ成立しちまうのさ。しかも、取り調べるのは川田だ。こうなると、目を付けられたら終わりだよ」
「なるほど、そういうからくりになっていたのか。佐平は巷では、仏のような人間と評判らしいがな」
口を挟んだのは右京だ。呪道は、表情を歪めて首を横に振る。
「仏だあ? 馬鹿も休み休み言え。あの佐平が仏だったら、俺だって第六天魔王になれるな」
不快そうに言いながら、懐から小判を取り出す。
「前金の一両だ。首尾よく仕留めたら、後金の一両を渡す」
そう言うと、呪道は床の上に小判を一枚ずつ並べていく。
初めに手を伸ばしたのは泰造だった。次いでお清、お鞠、正太と続く。最後に、右京が残った小判を手に取り、懐に入れた。
「そこでだ、まず泰造には用心棒の政造を殺ってもらう。奴は柔術の使い手らしいぞ。これまでにも、何人もの腕をへし折っているらしい。お前なら大丈夫だとは思うがな、くれぐれも注意しろよ」
呪道の言葉に、泰造は無言で頷いた。
「で、佐平はお鞠が仕留める。右京の旦那、あんたにゃ川田を殺ってもらう。北町と南町の違いはあっても、同じ見回り同心だ。近づきやすいだろ──」
「いや、待ってくれ。私に佐平を殺らせてくれないか」
呪道の言葉を遮ったのは、右京であった。全員の視線が、彼に集まる。
「はあ? 何を言い出すんだよ。今回は、あんたに川田を殺ってもらうのが、一番おさまりがいいんだよ。他の連中じゃ、あいつに近寄っただけで騒がれそうだしな」
呪道が言ったものの、右京に引く気配はない。
「すまないが、佐平だけは私がこの手で仕留めたいんだ。頼む」
頭を下げる右京に、呪道は溜息を吐いた。
「しょうがねえなあ。わかった。いいよ、あんたに佐平を殺ってもらうとしよう。ただし、ここにいる正太と組んで、二人一組で仕事をしてもらう。それが条件だ。さあ、どうする?」
呪道の言葉に、すぐさま反応したのは右京ではなく正太だった。
「えええ! 兄貴、ちょっと待ってよ! 俺、この気違いと組むの──」
言い終わる前に、右京にじろりと睨まれた。正太は慌てて口を閉じ目を逸らす。
一方、呪道は我関せずという様子で答える。
「ああ、そうだ。右京に佐平を殺させるための条件だよ。それも嫌だってんなら、二人にはこの仕事を降りてもらう。右京の旦那、あんたはどうするんだい?」
「私は構わないよ。佐平さえ殺らせてもらえるなら、誰が居ようが関係ない。邪魔にさえならなければ、ね」
静かな表情の右京に、呪道は満足げに頷く。次いで、正太に目線を移す。
「右京の旦那は、ああ言ってるぜ。お前はどうすんだ?」
「わ、わかったよう」
一応は同意したものの、見るからに不満そうだ。しかし、呪道はお構い無しに話を進める。
「正太、お前は、旦那が佐平を仕留めてる間、周りを見張ってろ。何かあったら、すぐに旦那に知らせるんだ。いいな?」
「う、うん」
正太が答えると、呪道は皆の顔を見回した。
「よし、これで決まりだ。みんな、ぬかるなよ」