無知無想 (四)
「西村、ここで何をしているのだ?」
与力の村野竹蔵に声をかけられ、西村右京は顔を上げた。
「はい、事件に関する調べ物などしておりました」
そう、右京は書庫にて、根本忠雄について調べていた。
かつて始末した立木藤兵衛は、子供を根本なる人物に売っていた、と白状した。だが、根本が子供を買って何をしていたのか、その点については全くわからなかった。
その後も、根本についての調査を続けている。だが、今ひとつはかどっていなかった。
もっとも、村野はそんな事情など知らない。じろりと右京を睨みつける。
「ふん、どうせ人目のない書庫で油を売っていたのだろうが。お前という奴は、どうしようもないな」
「いえ、そのようなことは──」
「言い訳するな。さっさと見回りにでも行ってこい」
村野に睨まれ、右京は仕方なく書庫を出ていこうとした。その背中に、村野が声をかける。
「そうそう、ひとつ面白い話を聞いたぞ。五木屋という材木問屋を知っているか?」
右京は足を止め、振り返った。
「いえ、初耳ですね。その材木問屋が、どうかしたのですか?」
「その問屋の佐平さんが、敷地内に作業場を設けている。その作業場に、知恵遅れの者たちを集めて仕事をさせているのだ。場合によっては、預かってくれるらしいぞ。お前も一度、見てきたらどうだ?」
右京は目を逸らし、下を向く。村野が、何を言わんとしているかはわかる。千代を、そこに預けろということだろう。だが、それに対し何と答えればいいかわからない。
千代は先日、ようやく笑顔を見せてくれた。お鞠のおかげだ。あの少女は殺し屋である。だが、不思議な魅力があるらしい。普通の人の目には、おかしな格好の女の子としか映らないだろう。だが、千代の目には違う者が映っているようだ。
お鞠がいれば、千代は元に戻るかもしれない……右京は、そんな淡い期待を抱いている。
「わかりました。いずれ、行ってみます」
翌日の昼間、右京は五木屋へと向かっていた。もとより、千代を預ける気はない。だが、知恵遅れの者たちを集めて作業をさせているという佐平に、個人的な興味を抱いたのだ。どんな人物なのか、会って話をしてみたい。ひょっとしたら、千代と接する方法の糸口が見つかるかもしれないからだ。
しかし、想定外の事態に見舞われてしまう──
「ちょっと! 何すんだよ!」
五木屋の近くに来た時だった。突然、女の怒鳴るような声が聞こえてきた。そちらを見ると、恰幅のいい中年男と若い中肉中背の男、そして若い女がいた。若い男が、背中から女の腕を掴み関節を極めた状態で壁に押し付けている。
数人の男女が、足を止めて見ていた。何事が起きたのか、と興味津々の様子だ。右京も足を止め、三人のやり取りを見つめる。
だが、その表情が険しくなった──
「お前は何者だ? なぜ、佐平さんの後をつけ回していたのだ?」
若い男は、鋭い口調で聞いていた。女は逃れようと必死でもがくが、男の手は外れない。
普段の右京なら、知らぬ存ぜぬで通りすぎていたかもしれない。だが、今はそうはいかなかった。なぜなら、押さえ付けられている女は、死事屋のお清だったからだ。
「どうかしましたか?」
言うと同時に、前に進み出た。お清を、じろりと睨む。すると中年男が前に出て来た。
「これはこれは、お役人さま。私は、五木屋の佐平でございます。この怪しい女が、我々の後をつけてきていたのですよ」
「おお、あなたが五木屋の佐平さんですか。私は、南町奉行所の見回り同心、西村右京と申します。あなたのお噂は、かねがね耳にしておりました。問題を抱えた者たちを集め、慈善事業をなさっていると聞き及んでおります。素晴らしい方ですね」
右京は、深々と頭を下げる。直後、お清をじろりと睨んだ。
「こちらの女は、私が連れて行きましょう。番屋で、きっちりと調べておきますよ。何かわかったら、すぐに御連絡します」
そう言うと、おもむろに手を伸ばしお清の腕を掴んだ。そのまま、ぐいっと引っ張っていく。
「な、何すんだい!」
お清は怒鳴りつけた。だが、彼女も右京が何をしようとしているかは察している。抵抗するふりだけはしているが、本気の力は感じられない。
そんなお清を、右京は睨みつける。
「黙ってこい!うだうだ言ってると、腕をへし折るぞ!」
言いながら、強引にお清を引っ張って行った。
人気のない路地裏に彼女を連れ込むと、右京は素早く周りを見回した。人目のないことを確認すると、耳元に顔を近づけ囁く。
「一体どうしたのだ? 五木屋の佐平に、何か用なのか?」
「別に。あんたにゃ関係ないよ」
お清は、不機嫌そうにぷいと横を向いた。もっとも、右京とて大体の事情は察している。この女が動くとなると、九割方は裏の仕事だろう。
「次の標的は、あの男なのかい」
その問いに、彼女はじろりと睨んだ。
「それは、呪道が決めることさ。あたしが決めることじゃない。あんたが決めることでもない」
「なるほど、余計なことはするなというわけだね」
「そういうこと」
吐き捨てるような口調で言うと、お清は立ち去りかけた。が、足を止める。
「礼は言わないよ。あたしは、助けてくれなんて頼んでないんだから」
背中を向けたまま、そう言った。右京は、苦笑しつつ答える。
「私も礼など期待していない。言わなくて結構だ。ただ、今後はこのような下手を打たないでくれ」
言った途端、お清は振り返った。鋭い目でひとにらみすると、不快そうに去っていった。
・・・
夜。
川に浮かぶ屋形舟にて、五木屋の佐平と川田源之助が対面していた。舟を濃いでいるのは、いつもと同じく政造だ。
「いやあ、あんたのお陰で助かったよ。あの家の主人は、図体は大きいが頭が悪くてな。しかも、女と見れば見境い無しだ。あちこちから訴えが来る以上、放っておくわけにもいかんからな。あの八郎に、全てを被ってもらうことにしたよ。これで、しばらくおとなしくしていてくれればよいのだが」
満足げな様子で、酒の入った猪口を口に運ぶ。
八郎とは、佐平の作業場にいた知恵遅れの男である。川田に連れられ、番屋で取り調べを受けた。あらかじめ佐平に「はいはい言っておけば、すぐに帰れるぞ」と言い含められていたため、問われるがままに、やってもいない罪を全て認めた。
もちろん、帰れるはずがない。八郎は、近いうちに島送りになる──
「ところで川田さま、先日おかしなことがありましてな」
「どうしたのだ?」
「二日ほど前のことですが、妙な女に後をつけられました。政造が女に気付き、取り押さえたのです。ところが、通りかかった見回り同心が女を連れていってしまいました。番屋で取り調べる、などと申していましたが……女が、同心に余計なことなど言っていなければよいのですがね」
「その同心の名は?」
川田に問われ、佐平は政造の方を向いた。
「おい、あいつは何と名乗っていたかな?」
「南町奉行所の見回り同心、西村右京と名乗っていました。年の頃は二十代、若造ではありますが、少しばかり妙な雰囲気の男でした」
舟を漕ぎながら、政造は即答した。すると、川田はくすりと笑った。
「西村右京? ああ、あいつか。あいつなら何の問題もない。あれは、生ける案山子だ」
「案山子?」
怪訝そうな表情の佐平に、川田は頷く。
「そうだ。北町でも、あいつの噂は聞いているよ。西村の無能さは筋金入りだ。上役のお情けで、かろうじて同心職にしがみついているような男と聞いている。あいつの十手は、しょせん飾りでしかない。放っおいてもよいだろう」
「それならよかった」
佐平は満足そうに頷く。だが、櫓を漕ぐ政造は納得していない様子だった。