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無知無想(三)

 江戸の魔窟・剣呑横町は、今日も退廃的な空気に満ちている。右を見れば、いい年齢の男たちが働きもせず、昼間から地面に茣蓙ござを敷いて博打に興じているのだ。左を見れば、阿片中毒らしき女がだらしない格好で徘徊している。

 この異様な光景は、下手な坊主の説法などよりも若者たちの心に響くだろう。




 そんな中を、ずんずん進んでいくのはよろず屋の正太だ。いつものように、まげの無いざんぎり頭を振りながら、人夫のようないでたちで歩いていた。目指すは、兄貴分である呪道の住む慈愛庵である。

 しばらく歩くと、目的地に到着した。奇怪な人形の飾られた中を通り、戸を開ける。


「兄貴! 入るよ!」


 言いながら、ずかずか入っていく。

 呪道は、板の間で寝そべっていた。正太を完全に無視して絵双紙を見ている。


「ちょっと、聞いてるの? 仕事だよ」


「仕事? 何の仕事だよ、面倒くせえな……あ、そうだ。いっそ、みんなで寿司屋でもやるか。正太の寿司なんて店名の寿司屋やれば、有名店と間違えた客が入って来るかもしれねえぞ」


 寝そべったまま、わけのわからないことを言った呪道。やる気など、欠片ほども感じられない。その態度に、正太の目が吊り上がる。


「何を馬鹿なこと言ってんの! 死事屋の仕事に決まってんでしょうが!」


 正太が怒鳴ると、呪道はようやく上体を起こした。


「ほう、そうか。で、相手は誰だ?」


「五木屋の主人・佐平と、その用心棒の政造。それと、北町奉行所の見回り同心・川田源之助だって」


「なんだ、また役人かよ。で、そいつは何やったんだ?」


「それがさ、とんでもねえ話なんだよ。まあ、聞いてちょうだい」


 ・・・


「皆さん、そろそろお昼にしましょうか」


 佐平が、皆に声をかけた。その途端、歓声があがる。


「うわーい」


「俺、腹へったよ」


「早く食べよ」


 幼い子供のように無邪気な声だが、室内にいるのは十代後半から四十代の男女である。ほとんどが、大人といっていい外見だ。にもかかわらず、その仕草は子供のそれと同じだった。




 大手の材木問屋である五木屋いつきやの敷地内には、奇妙な作業場がある。かなり広く、真ん中には木製の大きな机が設置されている。

 その机の周辺には、十人から二十人ほどの男女が集まって座っており、紐を結んだり紙をのりで貼付けたりといった単純な手作業をおこなっていた。

 彼らは全員、ある問題を抱えている。程度の差はあるが、俗に「知恵遅れ」と呼ばれ蔑視されている者たちなのだ。そんな者たちを、佐平は江戸のあちこちから集めて監督し、この作業場で仕事をさせているのだ。しかも、きちんと給金も支払っている。その額は、決して高いものではないが、それでも作業の内容に比べれば割高だろう。

 しかも、昼食は全て五木屋が賄っていた。握り飯や目刺しに漬物といったものだが、量は少なくない。皆、腹いっぱい食べられるだけの量はある。知恵遅れを子に持つ親たちは、佐平に感謝している。中には、佐平を神さまのように崇める者までいるくらいだ。近所の者たちからも、佐平の評判は高い。




 作業場に、握り飯と目刺しと味噌汁が運ばれてくる。皆は、楽しそうに食べ始めた。

 平和な昼食時のはずだったが、ちょっとした騒ぎが起こる。


「それ、俺の飯だぞ!」


 突然、言い争う声が聞こえた。直後、大柄な中年男が小柄な少年を突き飛ばす。少年は吹っ飛び、派手な音を立て倒れた。

 途端、悲鳴が上がる。周囲の者たちは、気が狂ったようにきゃあきゃあ叫び出した。その声に興奮したのか、中年男は奇声を発して皆を睨みつける。背は六尺(約百八十センチ)近くあり、がっちりした体つきだ。腕力も強そうで、作業場にいる者たちは怯えている。

 佐平は舌打し、傍らに控えていた政造に目で合図した。

 無言で頷く政造。直後、彼はすっと近づいていき、中年男の頬に平手打ちをした。

 男は吠え、政造に掴みかかる──

 両者の体格差は歴然としていた。政造は決して大柄ではない。一見すると、中肉中背の三十男にしか見えないだろう。武器らしきものも持ってはいない。もっとも、その顔に怯えはない。むしろ、面倒くさそうな表情が浮かんでいた。

 組み付いていった中年男は、力任せに政造を押し倒す。倒れた政造目がけ、右腕を振り上げた。拳を落とそうというのだ。

 そんな状況ですら、政造は落ち着いている。振り下ろされた拳を、いとも簡単に払いのけた。同時に彼の両足が、男の右上腕に絡み付いた。

 次いで、政造の両手が男の右前腕を掴む。と同時に、全身の力を瞬時に解放させる。肘関節を完璧に極めたのだ──

 男の口から、悲鳴があがる。その肘関節は、政造の腕ひしぎ十字固めにより破壊されてしまった。一方、政造は動き続けている。ぱっと背後に回りこみ、相手の首に腕を巻き付ける。男は必死でもがくが、政造の技を外すことは出来ない。腕は容赦なく首を絞めあげていく。

 やがて、男の意識は闇に沈んだ。佐平は、政造に命令する。


「こいつを懲罰部屋に放り込んでおけ」


 政造は頷き、駆けつけた奉公人らとともに男を連れていく。男も腕をへし折られたのが効いたようで、おとなしく付いていった。

 やがて、地下に作られた部屋へと連れて行かれる。そこは地下倉を改造したもので、四方を頑丈な壁で覆っている。明かりはなく、嫌な匂いに満ちていた。

 政造は、男に革手錠をはめる。男の右手は腹側、左手は背中側に固定された。これでは、ほとんど何も出来ない。


「そこで、おとなしくしてろ。明日には出られる。もういっぺん暴れたら、今度は殺すぞ」


 政造は、冷めた表情で言い放つ。その細い目からはは、ひとかけらの情愛も感じられなかった。

 やがて、政造は扉を閉める。室内は、闇に覆われた。その途端、男は喚き出す。


「やだ! やだ! 暗いのやだ! 明かり! 明かり!」


 声に反応したかのように、戸が開いた。政造が、いらついた表情で入って来る。


「お前は、口で言ってもわからねえらしいな」


 言うと同時に、政造は男の首に腕を回す。一気に絞めあげた──

 男は、再び意識を失った。




 その頃、作業場では皆がにこやかに休憩していた。先ほどの騒ぎを忘れ、全員が楽しそうに思い思いの過ごし方をしている。

 佐平はというと、作業場に立ち、にこやかな表情で周囲を見回している。その姿を見れば、彼が悪人だなどと思う人間はいないだろう。

 その時、作業場に奉公人が入って来た。


「すかみません、川田さまがいらっしゃいましたが、どうしましょうか?」


 川田とは、北町奉行所の見回り同心、川田源之助のことに間違いない。


「川田さんか。こちらにお通ししろ」


 奉公人は頷くと、すぐさま戻っていく。

 やがて、奉公人は川田を連れて現れた。


「これはこれは川田さん。ひょっとして、今日もあれですか?」


 佐平の言葉に、川田は頷いた。


「そう、あれだ。今回はちょっと厄介でな、身の丈が六尺近い、がっちりした大柄な男だ。年の頃なら四十から五十だが……そんな者がいるか?」


 その問いに、佐平はにやりと笑った。


「おおお……川田さん、あなたは運がいい。ちょうど今、うってつけの者がいますよ」




 佐平は政造を伴い、川田を懲罰室へと案内した。戸を開けると、中で倒れている男を指差す。


「この男ですが、どうでしょうか?」


「こいつか。かなり顔つきが違うが、まあ何とかごまかせるだろう」


 川田の言葉に、佐平はにっこり笑った。


「それはよかった」


「では、後ほど引き取りに来るからな」








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