無知無想(二)
「な、何をしに来たのだ?」
地下室に降りて来たお鞠に、右京は思わず問うていた。答えなど、返って来るはずもないのに。
当然、お鞠は何も答えない。彼を無視し、木格子の中にいる千代をじっと見ている。
千代の目線も、お鞠に釘付けになっていた。言うまでもなく、この殺し屋の少女と千代は初対面である。彼女は今まで、外部の者を目にした途端に凶暴化していた。先ほどのように、敵意剥きだしの表情で獣のごとく吠えながら、手足を振り回し荒れ狂う。そのせいで、医者も近づくことが出来なかった。身の回りの世話を頼んだ女中らに対しても、喚きながら掴みかかっていく有様だった。
にもかかわらず、お鞠に対してはおとなしい。何を考えているのかは不明だが、今までとは違う反応だ。
右京は、固唾を呑んで二人を見守る。まさかと思うが、ひょっとしたら?
不意に、お鞠が動いた。右京の横をすり抜け、とことこ歩いていく。木格子の前に立ち、隙間から手を伸ばした。
すると、千代も動く。伸びてきた手を、愛おしむかのように握る。
直後、驚くべきことが起きた。千代が、にっこり微笑んだのだ──
右京は、呆然とその様を見ていた。今まで、何者が来ようが攻撃の姿勢を崩さなかった千代。医師だろうが祈祷師だろうが、敵意を剥きだしにして吠え、近寄れば襲いかかっていた。それが今、ひとりの少女と笑顔で見つめあっている。
右京の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。一年ぶりに、千代の笑顔を見られたのだ……。
その時、お鞠が動いた。木格子の扉まで移動し、右京の方に顔を向けながら錠前をがちゃがちゃといじる。
開けろ、ということだろうか。
「この中に入りたいのかい?」
尋ねると、うんうんと頷いた。右京は迷ったが、お鞠の迫力に押されて錠前を開ける。
お鞠は、扉を開け牢内に入って行った。すると、千代は嬉しそうに近づいていく。彼女の手が、お鞠に触れる。
次の瞬間、千代は膝をついた。お鞠の腰に手を回し、己の頬を少女の腹に擦り寄せる。まるで、幼子が母親に甘えているかのようだ。お鞠の方は、優しい表情で千代の頭を撫でる。自分よりも十以上は歳が上の女を、慈しむような表情で見下ろしている。
不意に、お鞠の顔が右京へと向けられた。千代を指差し、おかしな動きをする。手のひらで、自身の顔を撫でるような仕草だ。何かを伝えようとしているのはわかるが、何を言わんとしているか右京には全くわからない。
「き、君は何を言いたいんだ?」
その問いに、お鞠の手が止まった。一瞬、考え込むような仕草をする。だが、再び千代を指差した。今度は、自身の腕や首を手のひらで撫でるような動きをした。
どういうことだろうか。右京はわけがわからず、途方に暮れる。
次の瞬間、ふっと閃いた。もしかしたら、千代の体を洗ってくれようとしているのではないか。右京は、そっと聞いてみた。
「あのう、千代の体を洗ってくれるのかい?」
その途端、お鞠は頭をぶんぶん振る……縦に。
右京は戸惑いながらも頷いた。
「わ、わかった。今、手ぬぐいと桶を持って来る。ここで待っていてくれ」
右京は、大急ぎで上にあがった。外の井戸から水を汲み、手ぬぐいを手に取り再び地下に下りる。木格子の戸を開け、中に桶と手ぬぐいを入れた。
すると、お鞠は千代の着物を脱がせ始めた。千代はというと、全く抵抗もせず少女にされるがままだ。
突然、お鞠の手が止まった。右京を睨み、階段を指差す。今度も、何かを伝えようとしているようだ。しかし、何を言っているのかわからない。
「え、ええと、私はどうすればいい?」
おずおずと聞いてみた。すると、お鞠は足を踏み鳴らす。そして、怒ったような表情を浮かべつつ天井と階段とを交互に指差した。
そこで、右京はようやく気づく。
「千代の体を洗う間、私は上に行っていろ……ということかい?」
言った途端、お鞠はうんうんと頷く。右京は苦笑し、上へとあがって行った。お鞠という少女は、夫といえど妻の裸を見てはならぬ……と思っているらしい。
まあいい、あの子なら大丈夫だろう。それより、やらねばならぬことがある。右京は包丁を手にし、お鞠からもらった鮒をさばいた。見よう見まねで習い覚えたものだ。はっきり言って、上手くはない。
だが、今は仕方ない。鮒を塩で焼き、作っておいた握り飯と一緒に御膳に乗せる。
その時、お鞠が桶を手にあがって来た。中には手ぬぐいが入っている。どうやら終わったらしい。
「下で、千代と一緒にご飯を食べるかい?」
そう言って、御膳を持ち上げる。お鞠は、うんうんと頷いた。
地下牢の中、千代とお鞠は美味しそうに握り飯を食べている。こんな姿を見るのは久しぶりだ。
さらに、千代は鮒に手を伸ばす。手づかみで、鮒を食べ始めた。お鞠は、器用に身をほぐし骨を取ってあげている。二人の姿は、見ていて微笑ましい。
その時、右京は思い出した。みたらし団子を買ってきていたのだ。慌てて上に行き、団子の包みを持って降りる。
そっと戸を開け、お鞠に手渡した。彼女は包みを開け、千代に団子の串を渡す。お鞠自身も、団子を食べ始めた。
千代は団子を串から外し、ひとつずつ食べている。なんとも変わった食べ方だ。一方、お鞠はあっという間に自分の分を食べ終えた。
やがて、千代の団子も最後のひとつとなった。すると、彼女は団子を指でつまみ上げた。そのまま、お鞠の口元へと持っていく。食べろ、とでも言わんばかりだ。
お鞠は、ためらうことなく口を開けた。団子をぱくりと食べ、にっこりと微笑む。
千代もまた、にっこりと微笑んだ。
そんな二人の姿を見て、右京の目から涙がこぼれた。千代は、まだ笑うことが出来る。いつかは、元に戻る日が来るかもしれないのだ。
やがて、お鞠にも帰る時間がきたらしい。木格子の中の千代に手を振り、上へとあがる。
玄関でわらじを履き、釣竿を担ぐ。そんなお鞠に、右京はそっと声をかけた。
「あの、今日はありがとう。君のおかげで、助かったよ」
お鞠は振り返ると、大きく頷く。気にするな、とでも言っているのか。
「もし良ければ、また遊びに来てくれないかな。千代の友達になって欲しいんだ」
右京の言葉に、お鞠はにっこりと笑った。次の瞬間、握り拳を作り己の胸を叩く。任せろ、ということだろう。
「ありがとう。また来てくれ。歓迎するよ」
・・・
「佐平さん、またあんたに頼むことになりそうだ」
北町奉行所の同心・川田源之助に言われ、佐平はにやりと笑う。
「ええ、構いませんよ。あいつらを雇っているのは、こういう時のためですからね」
二人は、屋形船に乗り川を下っていた。屋形船といっても、大金持ちが舟遊びに使うような大層なものではない。数人乗れば満員になってしまうような小舟だ。乗っているのも、佐平と川田の二人だけである。濃いでいるのは、佐平の腹心の部下である政造だ。
「それにしても佐平さん、あんたは本当に大したもんだ。あんな役立たず共を上手く使って、ちゃんと金に変えているのだからな。これはお世辞でも何でもなく、あんたは天才だとおもうよ」
川田は感心したような口ぶりで、酒の入った杯を口に持っていく。この男、年齢は三十だ。全体的にひょろっとしており、ひ弱そうな印象を受ける。背もさほど高くないし、顔にも迫力がない。
にもかかわらず、最近の川田は立て続けに手柄を立てている。
「いえいえ、この商売が出来るのも、あなたのお力添えがあってこそです。今後とも、よろしく頼みますよ」
言いながら、佐平は徳利を手にした。川田の杯へと注ぎ、にやりと笑う。
川田も、笑みを浮かべ頷いた。
「いやいや、こちらこそ」