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無知無想(一)

 西村右京は、ぴたりと足を止めた。

 さりげなく周囲を見回す。今は夕刻であり、帰り道を急ぐ者や仕事帰りの一杯に向かう者たちなど、人の往来は激しい。かくいう右京も、仕事帰りである。

 夕刻に大通りの真ん中で突っ立っていては、他の者たちの通行の邪魔になる。右京は、すっと端に移動した。実のところ、先ほどから何者かが付いて来ているのだ。初めは気のせいかと思ったが、そうでもないらしい。

 仕方ない。彼は再び歩き出すと、人気ひとけのない裏道へとすっと入り込んで行った。当然、相手も追って来る。

 しばらく歩いていたかと思うと、いきなり振り返る。と、その目が丸くなった。

 誰かと思えば、死事屋のお鞠である。いつもと同じく、そでなしの胴着を着て裾を短く切った股引きを履いた姿だ。ただし、いつもと違う点もある。釣り竿を肩に担ぎ、腰には竹製の魚籠びくを括り付けていた。大きな目で右京をまじまじと見つめたまま、その場に突っ立っている。逃げる気配も、ごまかそうとする気配もない。

 そんな彼女の姿に、なぜかくすりと笑ってしまった。


「私に何か用かい?」


 尋ねたが、返事はない。もっとも、彼女は喋ることが出来ないのだ。答えに期待はしていなかった。

 右京は首を捻る。ひょっとして、呪道からの命令なのだろうか。


「もしかして、呪道さんの命令で私の後をつけるつもりかい?」


 そう聞いた途端、お鞠は首を横に振る。言うまでもなく否定の表明だが、首を激しくぶんぶん振る姿は可愛らしい。右京は、またしても笑ってしまった。


「じゃあ、君は自分の意思で私に付いて来たのだね?」


 質問というより、念を押すための言葉だった。

 予想通り、お鞠はうんうんと頷く。直後、魚籠に手を入れる。

 中から、小ぶりの川魚を取り出した。無造作に差し出す。

 右京は困惑した。もしかして、大漁だったからおすそ分けをしてくれようというのか。


「えっ? これ、くれるのかい?」


 思わず聞いていた。お鞠は、真顔でうんうんと頷く。

 右京は、その魚をまじまじと見つめた。おそらくふなだろう。その鮒を、少女は真剣な表情でぐいと突き出して来る。

 どうしたものだろう。お鞠の好意を、無下にしたくはない。だが、川魚を家まで手づかみで持ち帰るのも、いかがなものだろうか。しかも今は、他に手荷物を持っているのだ。

 その時、ある考えが浮かんだ。


「お鞠さん、うちに来ないか? 魚のお礼に、お団子をご馳走するよ」


 そう言って、団子の包みを高く上げて見せる。かつて、千代が好きだったものだ。たまたま店の前をとおりかかり、思わず買ってしまった。その団子の包みを見せながら、彼女の反応を窺う。

 お鞠の表情が変わった。明らかに、興味を示している。


「みたらし団子は、好きかい?」


 聞くと、少女はうんうんと頷く。

 右京は苦笑した。この素直な子の裏の顔が殺し屋だ、などと誰が思うだろうか。


「じゃあ、付いておいで」


 そう言うと、右京は歩き出す。お鞠は、釣り竿を肩に担いだ姿で付いて来た。南町奉行所の同心が、浮浪児のような見なりの少女と歩いている……本来ならば、あまり褒められた行動ではないのだろう。

 だが右京は、出世などとっくの昔に諦めていた。同心として褒められた行動であるかどうかなど、知ったことではない。

 いずれは、定町見回りから牢屋見回りに格下げになるかもしれない。それもまた、仕方ないことだと覚悟を決めている。




 屋敷に到着し、右京は振り向いた。


「ここが、私の家だ。さあ、入っておいで」


 声をかけると、お鞠は恐る恐る近づいていった。顔だけを入れ、そっと覗き込む。右京は、またしてもくすりと笑った。本当に面白い子だ。


「遠慮しないで、入ってきなさい」


 右京は彼女の手を取り、家の中へと導く。よくよく考えてみれば、この家に客人を招き入れるのは久しぶりだ。右京は、改めて中を見回した。

 大して広くもない屋敷だ。一応は武士の家ではあるが、それよりもみすぼらしさの方が目に付いた。あちこちにほこりが積もり、汚れも目立つ。猫の額ほどの小さな庭も、雑草が伸び放題だ。

 以前は、こうではなかった。千代が、屋敷の隅々まできちんと掃除をしてくれていたのだ。だが、今は荒れ放題である。男やもめに蛆が湧くという言葉があるが、まさにその通りの状態であった。

 全ては、千代の身に起きた事件が原因だった。あれ以来、まともに掃除をしていない。庭の手入れも怠っている。お手伝いに来ていた女中にも、暇を出した。もはや、奉行所の同僚や上役を招き入れられるような状態ではない。

 にもかかわらず、お鞠を招き入れることには抵抗はなかった。おかしな身なりの少女を、家に入れるとなると、近所の者たちからあらぬ噂をたてられる可能性もある。しかも彼女は、裏の世界の住人なのだ。そんな人間を家に入れた以上、何をされても文句は言えまい。

 だが、今の右京にはどうでもよいことだった。それ以上に、お鞠は人は殺しても、自分に悪いことはしない……という確信めいた思いもあった。なぜなのかは、自分でもわからなかった。




 お鞠を客間に入れ、座布団を出した。彼女は、困惑したような表情を浮かべつつ座布団に座る。男のようにあぐらをかいた姿は、滑稽であり微笑ましくもあった。


「申し訳ないが、今は水しか出せない」


 そう言った時だった。突然、どこからか獣の咆哮のごとき声が聞こえてきた。次いで、どすんどすんという音。その正体が何であるかは考えるまでもない。地下牢で、千代が荒れ狂っているのだ。

 事情を知らないお鞠は、不思議そうな顔で首を傾げる。


「ごめんよ。ちょっと、ここで待っていてくれるかな」


 そう言うと、右京は立ち上がった。憂鬱な顔で、地下室へと降りていく。

 千代は牢の中から、鬼のような形相で右京を睨みつけてきた。荒い息を吐きながら、奇声を発する。獣の吠えるような声だ。怒っているのだろうか。


「一体どうしたんだ。機嫌を直してくれないか」


 無駄だと知りつつも、優しく声をかけてみた。だが、千代には聞く気配がない。どすんと畳を踏み鳴らし、右京を睨みながら怒鳴り散らす。何を言っているのか、さっぱりわからない。しかし意味はわかる。自分を罵っていることは理解できた。


「わかった。私が気にいらないのはわかったから、静かにしてくれ」


 どうにかなだめようと、笑いかけてみた。だが、彼女の機嫌は直らない。それどころか、ますます猛り狂い、どすんどすんと足を踏み鳴らす。奇声をあげ、不自由なはずの右手をぶんぶん振り回した。その様は、獣そのものだった。

 右京はいたたまれなくなり、そっと目を逸らす。かつて、千代と出会った頃のことを思い浮かべた。真面目で堅物な右京とは真逆の、よく笑う女だった。口数も多く、自分のような面白みのない男となぜ夫婦になったのか、未だにわからない。

 その理由を聞いても、今の千代が答えを返すことは出来ないのだ。


 もはや、これまでか。

 千代を殺し、私も死ぬべきなのだろうか──


 その時、千代の奇声がんだ。どすんどすんという足音も、ぴたりと止まる。

 ようやく気が済んだのか、あるいは疲れて動けなくなったのか……そんなこと思いつつ、右京は顔を上げてみた。

 千代は、口を開けたまま突っ立っている。その目は、右京を見ていない。右京の後ろにいる何かを、まじまじと見つめている。

 一体、何を見ているのだろう。右京は、そっと振り向いた。途端に、口から心臓が飛び出しそうなほどの衝撃を受ける。

 いつのまにか、お鞠が来ていたのだ。その澄んだ瞳は、千代をじっと見つめている。






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