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同心無想(一)

「帰ったよ」


 仕事から帰った西村右京は、木格子の向こう側にいる女に声をかける。

 だが、相手は何も返事をしない。その髪は伸び放題であり、脂で幾本もの束になって固まっている。かつては美しかった顔も、垢が浮き出て汚れていた。身につけている肌着はぼろぼろで、様々な種類の汚れがこびりついている。その上、あたりには異様な匂いがたちこめていた。

 だが、それも仕方ない話なのだ。ここ一年、彼女は入浴していない。身を清めるようなことも、一切していない。

 その上、排泄物の入った桶がすぐそこに放置されている。匂い対策として香を焚いてはいるのだが、外から帰って来た直後では、さすがにごまかしきれない。

 この異様な者こそ、右京の妻の千代である。彼女がいるのは、右京が屋敷の地下に作らせた狭い牢だ。それが、今の千代の住む世界である。

 本来なら、牢に閉じ込めておきたくはない。だが野放しにしておけば、千代は何をしでかすかわからないのだ。連れ合いである右京ですら、近寄っただけで獣のように叫びながら襲いかかって来る。医者はおろか、女中も近づけない。そのせいで、着替えも入浴も出来ないまま一年が過ぎてしまった。

 しかも、的場慎之介らにへし折られた右腕も、治療が出来ないまま一年が経ってしまった。それゆえ、おかしな具合に骨が固まってしまったらしい。千代の右腕は、よく動かない状態である。

 にもかかわらず、その不自由なはずの右腕を振り回して怒鳴り散らすこともあるのだ。その姿は、見ていて心が痛んだ。


 右京は無理に笑顔を作り、もう一度話しかける。


「なあ、そろそろ着物を着替えないか? 一年前から、ずっと同じ着物を着ているのだぞ。せめて、体を拭くくらいした方がいい」


 言いながら、右京は牢の鍵を開けた。戸を開け、中へと入って行く。

 ところが、彼が近づいた途端に千代の表情が一変した。獣のような咆哮とともに、足をどすんと踏み鳴らす。さらには両腕を振りあげ、こちらを睨みつけてきた。近寄るな、と言っているのは明白だった。

 右京の顔が歪む。


「わかった。もう近づかないよ」


 どうにか笑顔を作り、排泄物の入った桶を入れ替える。すぐに牢を出て行き、再び鍵を閉めた。

 千代を治すため、藁にもすがる思いで様々な人を頼った。怪しげな祈祷師に大金を支払い、来てもらったこともある。祈祷師は千代の前で、怪しげな呪文を唱えていた。

 だが、何ひとつ効果がなかった。

 最終的に、右京は的場慎之介を殺した。的場さえ死ねば、千代は良くなるのではないか……そんな、馬鹿げた期待を抱いていた。しかし、彼女の症状は変わらない。むしろ、一年前よりひどくなっているような気さえする。


 千代は一生、このままなのだろうか。

 ならば、千代を殺して私も死んだ方がいいのかもしれない──


 ・・・


 日も沈む夕暮れ時、ひとりの男が人気ひとけのない裏通りを歩いていた。着流しに白い鼻緒の雪駄姿だ。背はさほど高くないが体格はがっちりしており、目つきは鋭い。その見た目は、岩石を連想させる。

 男は、一軒の家の前で立ち止まった。拳を固め、戸を殴りつける。


「こら半の字、出てこい!」


 喚きながら、なおも戸を叩く。

 やがて中から、気の弱そうな男が顔を出す。上半身に着物を引っかけ、股引きを履いている。年齢は三十代半ばといったところか。まげはなく、ざんぎり頭にとぼけた表情を浮かべている。有り体にいえば、どこにでもいる下働きといった風貌だ。


「か、勘蔵かんぞうさん、あんまりでかい声を出さないでくださいよ」


 言いながら、男はぺこぺこ頭を下げる。だが、勘蔵と呼ばれた男は容赦しない。懐から、何かを取り出す。

 それは十手だった。十手をもてあそびながら、意味ありげに男を見る。

 途端に、男の顔が青くなった。


「ちょっと勘弁してくださいよ。ここで、んなもん出さないでください」 


「だろうな。風呂屋の半公が、御用聞きの俺に情報を流してる……なんて知られたら、おっかないお兄さんたちは怒るぜ。明日にでも、川に浮かぶことになるかもしれないぞ」


 言いながら、勘蔵はにやりと笑う。


「そんなあ……冗談はやめてくださいよ」


 男の方も、笑顔で言葉を返す。ただし、その笑顔は引き攣っていたが。


「冗談にして欲しければ、ちょいと頼みを聞いてくれよ。実は昨日、賭場ですっからかんになっちまったんだ。そんなわけで、山吹色のお菓子をご馳走してくんねえか?」


 耳元で囁いた勘蔵に、男は顔を歪めた。懐に手を入れ、中から一枚の小判を取り出す。

 手に隠したまま、勘蔵に手渡した。


「おう、ありがとよ。今日は、これくらいで勘弁してやる」




 せしめた一両を手に、勘蔵は意気揚々と路地裏を歩いていく。辺りは暗くなり、人通りもほとんどない。

 そんな中、五間(約九メートル)ほど先に、塀にもたれ掛かる男がいる。編み笠を被り、腰には二本の刀をぶら下げている。が、着物はみすぼらしい。恐らくは浪人者であろう。

 一見すると、仕官に失敗した浪人が、道端で己の人生の行く末を悩んでいる……といった風情だ。しかし、勘蔵にはわかっていた。

 浪人の体からは、殺気が感じられる──


「お前、岡っ引きの勘蔵だな」


 不意に、浪人が口を開いた。同時に、彼の右手が刀の柄に触れる。

 勘蔵は、にやりと笑った。


「いかにも、あっしは御用聞きの勘蔵です。誰が言い出したのか、鬼勘なんていう奴もいますがね。失礼な話でさあ」


 すました顔で言ってのける。すると、浪人は刀を抜いた。


「お前に恨みはないが、死んでもらうぞ」


 声と同時に、刀を振り上げ上段に構える。だが、勘蔵の方も十手を出していた。じゃらりという音が響く。


「お侍さん、いくらで雇われたんです? 百両ですか? いや、そこまで高給取りじゃなさそうだ」


「死に逝くお前には、関係ない」


 浪人は言い放つ。上段に構えたまま、じりじりと近づいて行く。

 その時、勘蔵はぱっと後ろを向いた。同時に、何かを投げつける──

 投げられたものは、真っすぐ飛んだ。勘蔵の背後に忍び寄っていた男の顔面に、狙い違わず命中する。

 呻き声とともに、男は倒れた。勘蔵は、最初からこの男の存在に気づいていたのである。ひとりが注意を引き付け、もうひとりが背後から襲う……殺し屋稼業では、よくある手口だ。

 勘蔵は仕留めた男の方を見ようともせず、すぐに向き直る。同時に右手を振ると、投げられたものが返ってくる。

 それは、鎖に繋がれた分銅だった。勘蔵の十手は普通のものと違い、分銅付きの鎖が柄に繋がっているのだ。彼はただの岡っ引きではない。鎖十手の使い手でもある。

 浪人の方はといえば、この事態は予想していなかったらしい。刀を構えたまま、その場に立ち尽くしている。編み笠を被っているため表情は見えないが、想定外の事態に真っ青になっているだろう。


「俺はな、お前らみたいな素人とは違うんだよ。これでも修羅場くぐってんだ。鬼勘の名は、伊達じゃねえんだよ!」


 言うと同時に、彼の手より鎖が放たれる。分銅は真っすぐ飛んでいき、編み笠ごと浪人の顔面を打った──

 刀を構えた姿勢のまま、浪人はのけ反る。編み笠越しとはいえ、前歯を砕き鼻をへし折るくらいの威力はあるのだ。

 しかも、勘蔵の攻撃は終わらない。瞬時に鎖を手元に戻したかと思うと、さらなる分銅の一撃が浪人を襲う。今度は、刀を握る手首に炸裂した──

 手首に激痛が走り、浪人は思わず刀を取り落とす。直後、浪人の足に鎖が巻き付く。勘蔵は岩のような体格だが、鎖を操る技は繊細である。指先と手首の動きだけで、生き物のように鎖を操るのだ。

 今も浪人の足首に鎖を巻き付け、力ずくでぐいっと引っ張った。浪人は体勢を崩し、無様に倒れる。

 勘蔵は瞬時に間合いを詰め、十手を振り下ろす──

 浪人は、無様に悲鳴をあげた。彼の右手は、今の打撃で完全に砕けてしまったのだ。

 そんな浪人を、勘蔵は冷ややかな目で見下ろす。


「さて、吐いてもらおうか。誰に雇われて、俺を襲ったのかを」





 

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