善意無想(七)
右京は、立木の手を引きながら走る。
老齢の立木は、すぐに息が切れた。崩れ落ち、息を荒げながらしゃがみ込む。
「お役人さま、もう走れません……ここまで来れば、大丈夫でしょう──」
言葉は、そこで途切れた。右京が立木の背後に回り、彼の首に腕を回したのだ。
そのまま、ぐいと絞めあげる。立木は抵抗すら出来ず、あっという間に絞め落とされてしまった。
立木は、目を開ける。
視界に映る光景は、先ほどまでとは変わっていた。床には、穴だらけでぼろぼろになった畳が敷かれている。壁も穴だらけで、得体の知れない汚れが大量にこびりついていた。
「何だここは?」
思わず呟いた。が、その時になって己がどういう状態か気づく。両手両足が縛られ、柱にくくりつけられているのだ。
愕然となる立木の視界の隅に、人の姿が入る。立木は、ぱっとそちらを向いた。
西村右京が、じっとこちらを見ている。その顔には、何の感情も浮かんでいない。
「立木藤兵衛さん、あんたに聞きたいことがある。子供をさらって何をしていた?」
言いながら、右京はゆっくりと近づいて行く。
「な、何のことでしょう?」
立木はしらばっくれる。もっとも、その瞳には恐怖がありありと浮かんでいたが。
右京の顔には変化がない。無言のまま近づいて来たかと思うと、いきなり右手を突き出す。
その手には、短刀が握られていた──
悲鳴をあげる立木。右京の短刀は、彼の太股を深くえぐっていた。
「これで、言う気になったかな」
その声は、背筋が寒くなるくらい冷ややかなものだった。
立木の中から、上手くごまかそうという気持ちは消え失せる。目の前にいる同心は、完全に狂っているのだ。しかも、嘘やごまかしの通じる相手ではない。
「い、言います! 言いますから命だけは──」
その時、右京の手がすっと動く。今度は、短刀が左腕に刺さっていた──
痛みのあまり、立木は絶叫する。そんな彼の姿を冷ややかな目で見つつ、右京はもう一度尋ねた。
「早く言ってくれないかな。時間には限りがある」
「私は知らないんです! 根本という男に、子供を連れて来てくれと頼まれたんです!」
「根本? 何者だ?」
「わかりません。根本忠雄という名で、やたらと金回りがよく、裏の世界にも通じている……知っているのは、それだけです!」
叫ぶ立木を、右京は冷酷な目で見下ろす。嘘をついているようには見えない。しかし、根本忠雄とは何者だろうか。
「お願いです……私を生かしておけば、あなたと根本を会わせることも出来ます……だから、命だけは助けてください!」
哀願する立木。右京は、ちらりと彼を見た。
「生きて帰れると思っているのかい? そんなことは不可能だよ。考えればわかるだろう」
「そ、そんなあ! 死にたくないんだ! 助けてくれ!」
喚く立木の腹に、右京は拳を叩きつける。うっという呻き声をあげ、立木は顔を歪める。
そんな彼の耳元で、右京は囁いた。
「いいかい、痛みは生きている証だ。死ねば、痛みも苦しみも味わうことが出来なくなるんだよ。ならば、今のうちに生きている証を存分に味わうんだ」
言いながら、右京は短刀を突き刺した。
立木は、またしても悲鳴をあげる──
「うるさい男だな、あなたは。あれだけのことをしておきながら、自分がやられると大袈裟に痛がるんだね。痛みを感じられるのは、生ける者の特権だよ。だが、あんたが殺した連中は、痛みすら感じることが出来ないんだ」
言いながら、右京はぼろ切れを手にした。それを、立木の口の周りに巻き付ける。
「さて、続きをしようか」
・・・
その二日後。
萬屋の正太は、呪道に呼び出され慈愛庵へと来ていた。陽は高く昇っており、そろそろ昼飯時である。正太も、腹をぐうぐう鳴らしながら慈愛庵へと入っていった。
「兄貴、何用だい。俺、腹が減ったよ。飯でも食いながら話さない?」
軽い口調で言ったが、呪道はにこりともしない。正太の襟首を掴むと、強引に引き寄せる。
そして、耳元で囁いた。
「お前に頼みがある」
「何よ? 俺は兄貴の頼みなら何でも聞くよ。尻を貸す以外なら何でも」
とぼけた口調の正太の頭を、呪道は思いきり叩いた。
「馬鹿、そんなもんこっちだって借りたかねえ。これからしばらくの間、西村右京を見張れ」
「えっ? あの新入り、何かやらかしたの?」
「ああ、やらかしてくれたよ。あの馬鹿、立木のじじいを滅多刺しにしやがった。三十箇所以上を刺されていたらしい。逆に、よくそこまで出来るもんたよ。普通なら、三十回も刺してりゃ途中で死んじまうはずなんだけどな」
呪道の言葉を聞いた途端、正太の顔が歪んでいった。彼も、殺しこそしないが裏の世界に足を踏み入れている男だ。殺した殺された、くらいでは驚かない。
だが、三十箇所以上を刺すというのは異常だ。
「あの右京って、顔の割にとんでもないことするね」
「いいや、話はまだ終わりじゃないんだよ。あいつ、立木の腹をかっさばいた挙げ句、腸を掴み出していきやがった。四尺(約百二十センチ)もはみ出てたらしい。ありゃあ、完全に狂ってるよ」
「ちょっと待ってよ! そんなのと、これからもやってく気なの?」
顔を歪めながら尋ねる正太に、呪道は頷いて見せた。
「まあ、毒には毒を持って制すって言葉がある。江戸の鬼を狩るには、こちらも鬼をぶつけなきゃならねえ。だがな、もし右京が人を食らう鬼になっちまったら……その時は、死んでもらう。だから、お前に見張っといてもらいたいんだ。あいつが鬼を狩る鬼なのか、人を食らう鬼なのか、それを確かめるためにな」